ショートショート「ホットミルクはもういらない」
戦いに向いていないのに戦闘を宿命づけられた者にとって、日々の暮らしはそう楽しくはない。生傷は絶えないし、消えない傷もいくつか刻み込まれていくだろう。
今、バーに入っていったケンも、そのひとりだった。ケンは子どもの頃から傭兵になるための英才教育を施された。それはそれは過酷な訓練で、仲間の何人かは逃走した。やがて大人と呼ばれる年代になり、王立の傭兵部隊に入隊。だが、ケンが本当になりたかったのは傭兵などではなく、生物学者だった。
この日もケンは丸腰で訓練を受け、師範に打ちのめされた。額には新鮮な傷がいくつも刻み込まれたが、なんとか止血だけは済ませた。
ドアを開けると、カランカランと来客を知らせる音が鳴り響き、いつものお店が出迎えてくれた。
「こんばんは。今日もミルクね」
ここのママであるミナミは、そんなケンの夢を唯一知っている人だった。ケンはミナミに「坊や」と呼ばれ、ずっと可愛がられている。ミナミはミルクをマグカップに注いだ後、ケンと鼻と鼻が突き合うほどの距離にまで接近し、新たな傷を覗き込んだ。
「ずいぶんとひどい傷ね。あいつにやられたの?」
「ええ。ナイフで」
「ちゃんと手当てをしないと、後で泣いちゃうわよ」
「わかってます。でも、水も布もなくて……」
「ここに来たからには、もう大丈夫よ。ちょっとこっちに来なさい」
ミナミはソフィアに店番を頼むと、ケンを連れ、店の裏へと連れていった。ケンはミナミによって手当てを受けた。その場で、見た目よりも深い傷であることに気付いたミナミは、シーアラナ蛇のエキスが凝縮された特製の治療薬を傷口にたっぷりと塗り込んだ。
「この薬を塗っておけば、数日後にはばっちり治るはずだから」
「わ、なんですか、これは!?!?」
ケンは思わず身体を大きく揺らして抵抗したが、ミナミはそれをあっという間に抑え込んでしまった。
「ちょっと、じっとして。治したいんじゃないの?」
ミナミの冷ややかな声に観念したのか、ケンはおとなしく治療を受けた。
「ミナミさん、ありがとうございます。おかげで痛みや染みる感じがなくなりました」
「年に一度しか手に入らない貴重品なんだから、感謝してよね」
「もちろんです」
最後に包帯をもう一度だけ確認し、ミナミはケンだけを先に店内へと戻そうとした。その時だった。
「ミナミさん! 大変です!!」
いきなり、ケンの目の前からソフィアが全速力で駆け込んできた。ケンはなんとか回避したが、ソフィアは水の入った樽に飛び込んでしまう。
「ねえ、ソフィア。どうしたっていうの?」
樽に突撃した音で店内が騒然となる中、ミナミはソフィアの元に駆け寄り、手を貸した。
「外に略奪者たちが二、三人屯していて……」
ソフィアの説明を聞いたミナミは、明らかに顔が青ざめた。ケンは席に戻っていたが、その様子に気づいて立ち上がり、ミナミの元に駆け寄った。
「ミナミさん。ソフィアさん。ここは僕に任せてください」
ケンが短剣を抜こうとすると、客のひとりが目の前に立ちはだかった。
「おい、若造。ちょっと座れ。お前は甘く見てるかもしれんが、下手するとやられるぞ。あいつらは師範のように手加減はしねえ」
その客はミナミのバーにいつもいる常連のひとりだった。とても長く伸びた無精髭が印象的で、明らかに年老いている。
「俺もお前と同じように傭兵として働いていた。だが、ある日、恋人に贈り物を買った日の帰り道、後ろからぶすっとやられたんだ。振り返ったら、穢らわしい盗人共だった。命が惜しいなら、やめておけ」
誰も気付かなかったが、襟元には勲章らしきバッジが輝いている。
ケンは一瞬躊躇った。だが、ミナミやソフィアの不安そうな表情を見たケンは、常連の男の手を跳ね除け、すっくと立ち上がった。
「僕はこの王国の平和を守るために雇われた傭兵です。盗人ひとり退けられずに、誰が守れるというんですか」
常連の男は、ケンの眼差しを見て、静かに微笑んだ。
「わかった。そこまで言うなら、好きにしろ。だが、これだけは覚えておけ。小細工はするな。ウィかノンか、どっちだ?」
「ウィ」
「やっと戦士らしい目になったな」
皆に見守られながら、ケンは短剣を片手に店の前へと走っていった。
数分後、ケンは帰ってきた。ケンの顔には新たな傷はついておらず、ミナミは安堵した様子で出迎えた。
「無事で、よかった……」
「最初はかなり興奮していたんですが、なんとか落ち着かせて、戦わずに済みました」
感慨に耽っているミナミを仕草で落ち着かせ、ケンは質問する。
「ミナミさんにお願いがあるんです。彼らにパンか塩漬けのマガ肉を少しだけ分けてやってください」
ミナミは怪訝そうな様子でケンを見つめていた。
「食料にとても困っていたみたいなので。普段はお店に出さないような部分だけでも良いんです」
ケンの提案に常連の男は立ち上がり、ミナミに近づいていった。
「もし何度もメシを求めに来るようになったら、この店は終わりだぞ。それを分かった上で、決めるんだな」
ミナミはケンの方を見て、一瞬にっこり笑った後、ふたたび常連の男と向き合った。
「その時は、うちには勇敢な戦士がいますから」
常連の男はケンの方をちらっと見た。
「彼なら、争いごとなしで解決してくれるかもしれんな。弁が立つし」
こうして、ケンはミナミの協力を得て、今朝出来たばかりのパンの欠片と、塩漬けのマガ肉を麻袋に包み、略奪者たちに渡した。略奪者たちはおとなしく待っており、心の底から嬉しそうな様子で去っていった。
ケンが席に戻ると、仕事に戻ったミナミが駆け寄った。
「これ、私からのサービス。もう君にはミルクはいらないね」
ミナミが持ってきたグラスに注目すると、そこにはグラスいっぱいのビールが注がれていた。ケンはそれを見て、歓喜した。
「ほんとに、良いんですか?」
「私が良いって言ってるんだから、良いの。あと、マガ肉の燻製は、あのお客さんからのサービスね」
ケンがミナミの指した方向を見ると、常連の男がグッドサインをほんのわずかな時間だけ向けていることに気付いた。
「じゃあ、ビール、いただいちゃいますね」
「せっかくのビール。ちゃんと飲んでくれなきゃ怒るんだから!」
「わかってますよ!」
ビールをぐいぐいと飲み干していく青年の姿に、それぞれの分野で活躍してきた熟練の勇者たちが集うバーは大きく湧き立った。
「わあ、良い飲みっぷりだ!!」
「若造、お前、なかなかやるじゃないか……」
この日、ケンは閉店時間まで周囲のお客さんとずっと談笑していた。
翌日、ケンが稽古場へ出向くと、入り口で師範から引き留められた。一瞬、ケンは身構えたが、師範はこれまで一度も見せたことのない満開の笑顔を見せた。
「昨日のことは聞いているよ。戦わずに事を鎮めるなんて、君は戦士の中の戦士だ。みんな、ケンを見習え!!」
ケンは仲間たちから盛大な拍手を受け、別日に市長から表彰された。
幸い、あの後、街の警備が強化され、ミナミの店に盗人たちが来ることはなかった。そして、ケンは三十歳まで生き残った後、王立の研究所に職を移すことになった。本来、傭兵養成所上がりの人間は傭兵からの転身は不可能だったが、その功績や食料の安定供給にまつわる研究成果が認められ、特例で叶ったのである。
今、ケンには何よりも大切な家族がいる。
「ケン、今日はマガ肉をステーキにしたよ」
「ミナミさん、いつも美味しい料理をありがとう!」
「お父さん、早く食べて遊ぼうよ」
「いやいや、パパは私と遊ぶの!」
それから先も、ケンは幸せに暮らしたのだった。
2026.9.13
坂岡 優
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