扉の前で立ち止まった人へ——“興味があるなら来い”という言葉が、静かに閉じてしまうもの

その夜、僕は短編小説を一本、投稿した。

長く書き続けていると、こういう瞬間がある。

「これは、誰かに読まれなくてもいいな」

そう思いながら、それでも公開する夜だ。

物語は派手じゃない。
大きな事件も起きないし、感情を煽る展開もない。
ただ、日常の中で見過ごされがちな違和感を、登場人物の視線を借りて描いただけの話だった。

投稿ボタンを押したあと、画面を閉じる。
そのまま寝てもよかったのに、なぜか落ち着かず、少しだけ時間を潰すつもりでタイムラインを眺めた。

そこで、ある投稿が目に留まった。

——今日も短編を書きました。
——表では語られない話です。
——興味のある人は、コメント欄からどうぞ。

それだけの文章だった。
誰かを煽っているわけでも、挑発しているわけでもない。
けれど、その一文を読んだ瞬間、僕は無意識に指を止めていた。

「興味のある人は、来ればいい」

その言葉に、なぜか引っかかりを覚えた。

もちろん、書き手の気持ちはわかる。
自分なりに大切に書いたものを、軽く流し読みされたくない。
価値がわかる人にだけ届けばいい。
そう思うのは、自然な感情だ。

それでも、胸の奥に小さなざらつきが残った。

——その“興味”って、誰の基準なんだろう。

人は、最初から興味を持てるとは限らない。
わからないけれど、少し気になる。
自信はないけれど、覗いてみたい。
その手前の、言葉にならない段階がある。

それを飛び越えて、「興味があるなら、どうぞ」と言われた瞬間、立ち止まってしまう人もいる。

僕はこれまで、そういう人を何人も見てきた。

職場で。
学校で。
そして、家庭の中でも。

人事として働いてきた時間の中で、「頑張れる人が多い場所」と呼ばれる組織に、何度も立ち会った。

そこでは、よくこんな言葉が使われる。

「主体的な人に向けた環境です」
「本気の人だけが残る仕組みなので」
「合わない人は、自然と離れていきます」

一見すると、合理的で、強そうな言葉だ。
でも、僕は知っている。

その“自然に離れていった人”の多くが、怠け者でも、無責任でもなかったことを。

ただ、わからなかっただけだ。
何を大切にすればいいのか。
どこまで頑張ればいいのか。
間違えたとき、戻ってきていいのか。

それを誰にも言葉で渡されないまま、「ついてこられる人だけ、どうぞ」という空気に置かれてしまった。

短編小説を書くという行為も、少し似ている。
読者は、最初から文脈を共有しているわけじゃない。
書き手が何を考え、どこで立ち止まり、なぜこの物語を書いたのか。
それは、行間を通して、少しずつ伝わるものだ。

それなのに、「わかる人だけ、来てください」と扉の前で言ってしまったら、その先に進めない人が出てくる。

親としての自分が、ふと頭をよぎった。

子どもは、興味があるかどうかを、うまく説明できない。
でも、確かに、心は動いている。

「これ、どう思う?」
「なんでだと思う?」

そう声をかけてもらって、はじめて、自分の中の芽に気づくこともある。

もしそこで、「興味があるなら、自分から来なさい」と言われたら、どうなるだろう。

きっと、多くの芽は、芽吹く前に引っ込んでしまう。

書き手として、僕は考える。
小説を書く自由と同じくらい、どんな距離感で差し出すかという責任がある。

迎合する必要はない。
でも、選別もしなくていい。

「これは、僕が大事だと思った話です」

それだけで、十分じゃないか。

興味を持つかどうかは、読み手が決める。
でも、興味を持つ“余地”を残すかどうかは、書き手が決めている。

その夜、僕は自分の短編小説の画面を、もう一度開いた。
コメントは、まだ少ない。
それでも、いいと思った。

誰かが、扉の前で立ち止まり、「少し、読んでみようかな」と思える余白が、そこにあるなら。

それで十分だと、今は思える。

夜、朝陽(あさひ)が布団に入ったあと、隣に腰を下ろした。
寝る前の時間は、いつも少しだけ特別だ。
学校のこと、友だちのこと、どうでもいいような話と、どうでもよくない話が、区別なく混ざって出てくる。

「ねえ、パパ」

そう呼ばれて、返事をする。
それだけで、今日はもう十分だと思うことがある。

最近、朝陽はよく考え込む。
何かに興味があるようで、でも言葉にできないまま、黙っている時間が増えた。

「どうしたの?」と聞くと、「べつに」と返ってくる。
でも、その「べつに」の中に、いくつもの思いが詰まっていることを、僕は知っている。

もしここで、「興味があるなら、ちゃんと言いなさい」と言ってしまったら、どうなるだろう。

たぶん、会話は終わる。
そして、次にその芽が顔を出すまで、少し時間がかかる。

だから、僕は待つ。
あるいは、少しだけ手前に言葉を置く。

「なんとなく、気になってる感じ?」
「よくわからないけど、引っかかってるとか?」

そう聞くと、朝陽は少し考えてから、「うん……たぶん」と答える。

その「たぶん」を、大事にしたいと思う。

人は、最初から“興味がある”状態で生きていない。

多くの場合は、「わからないけど、少し気になる」とか「うまく言えないけど、心が動いた」から始まっている。

大人の都合で、「興味がある人だけ来ればいい」と言ってしまうのは、簡単だ。

でも、親として思う。
本当に大事なのは、興味を証明させることじゃなく、興味が芽吹く場所を残すことなんじゃないか、と。

短編小説を書くことも、仕事で人と向き合うことも、そして、パパとして子どもと話すことも、僕の中では、どこかでつながっている。

扉を閉めないこと。
選別しないこと。
「わかる人だけ」という立ち位置に、安易に立たないこと。

それは、弱さじゃない。
むしろ、覚悟に近い。

娘が眠りについたあと、そっと電気を消す。
今日も、すべてがうまくいったわけじゃない。
でも、扉は閉めなかった。

それだけで、今日は十分だと思えた。

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湯鶴の裏方より

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たまたま出会ったようで、どこかで必要としていたかもしれないひとことを、そっと手渡せたらと思っています。

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