短編小説 ポカほら噺 第十二話 「坂巻温泉と、ひそやかな囁き」
杉木立を抜けると、昼下がりの陽が石畳に踊っていた。咲は軽く肩にかけたカーディガンを直し、坂巻温泉の木窓をそっと押し開く。浴室へ続く小径に漂う硫黄の香りは、都会の喧騒から引き離してくれるアルバムのようだ。
湯船に手を触れると、ひんやりした感触とともに小さな泡が指先をくすぐる。ゆっくり体を沈めると、白樺の向こうで梓川がさらさらと歌いはじめた。目を閉じれば、木々の緑がまぶたの裏で揺れ、川音が胸のざわめきをさらい取っていく。
――――
「お疲れさま」
驚いて目を開けると、湯面の向こうにかすかなもやが揺れていた。湯守(ゆもり)の精霊――湯気の輪郭で形を結んだ小さな存在だ。つぶらな瞳が、こちらをじっと見つめている。
「この湯に浸かるの、何日ぶり?」
問いかけられると、言葉がひっかかって出ない。
呼吸に合わせて、胸の奥の何かが細く震えた。
「仕事に、家事に、役割に追われて…自分を忘れてたかもしれない」
咲のつぶやきに、湯守は静かに頷いた。
「ここはね、『あなた』だけの場所。誰かの期待も、過去も、未来も、ぜんぶ脇に置いていいんだよ」
そのまま目を閉じ、頬に当たる湯の熱を感じる――指先のぬくもりが、不安で張りつめていた胸の奥をそっと溶かす。
「忘れられないあの一言も、あなたを形づくっている。だから、今日だけはゆるめてあげて」
体の力がすっと抜けた。肩の重みだけでなく、心の重みまで解けていくようだ。
――――
浴室を出ると、縁側にはひんやりした清流の空気と、小さな紙片が揺れていた。裏庭の鳥が羽ばたく合間を狙うように、そっと置かれたメモにはこうある。
「休む勇気は、あなた自身への贈りもの」
咲はしばらく、文字を手のひらで追った。川面の波紋が光を反射し、柔らかく揺れている。
言葉は短いのに、胸の中にはずん、と小さな灯りがともった。
――ここに来なければ、気づけなかった私がいる。
カーディガンをはおりながら、ひとりごとを漏らす。
「また、来よう」
次に開く木窓の向こうで、どんな私が待っているのだろう。
おわり
本作はフィクションです。一部の登場人物、団体、地名、出来事などは実在するものをモデルにしている場合がありますが、物語自体は創作であり、実際の出来事や人物との直接的な関係はございません。偶然の一致があったとしても、それは全くの偶然であり、特定の実在の個人や団体を意図的に描写・批判するものではありません。
