【「境界認知から考える意識のハードプロブレム問題」第1回】なぜ私は「あなたにも意識がある」と信じられるのか 人間は他人の心を一度も直接見たことがない
【「境界認知から考える意識のハードプロブレム問題」第1回】なぜ私は「あなたにも意識がある」と信じられるのか
人間は他人の心を一度も直接見たことがない

こんにちは、ぜっとです。
このnoteは、無料マガジン
「境界認知から考える意識のハードプロブレム問題」
の第1回です。
第0回では、意識のハードプロブレムをいきなり解こうとするのではなく、
「私たちは、そもそも意識についてどこまで知ることができるのか」
という認知の境界から考えてみました。
今回から、その地図の中へ一つずつ降りていきます。
最初に考えたいのは、かなり身近なのに、よく考えると不思議な問題です。
なぜ私は、「あなたにも意識がある」と信じているのでしょうか。
「痛い」と言われれば、私は普通に信じている

目の前の人が転んだとします。
膝をぶつけて、
「痛い!」
と言った。
顔をしかめている。
膝を押さえている。
少し涙も出ている。
私はたぶん、
「大丈夫?」
と声をかけます。
ここで、
「その痛み、本当に存在するんですか?」
とは、普通は聞きません。
相手が痛いと言えば、かなり自然に、
「この人は痛みを感じている」
と思います。
ところが、少し変なことがあります。
私が実際に見たものは何でしょう。
膝をぶつけた。
顔をしかめた。
声を出した。
膝を押さえた。
涙が出た。
これらは見ています。
しかし、
その人の「痛さそのもの」を、私は一度も見ていません。
ここに、不思議な境界があります。
自分の痛みと、他人の痛みは「知り方」が違う
自分が机の角に足をぶつけたときは違います。
誰かから、
「あなたは今、痛いですよ」
と教えてもらう必要はありません。
痛い。
その状態そのものが、こちら側にあります。
もちろん、人間は自分の感情や心の状態についてさえ勘違いすることがあります。
それでも少なくとも、
自分の経験を知る仕方と、他人の経験を知る仕方には大きな非対称性があります。
他我問題とは何か|なぜ他人にも意識があると分かるのか

哲学では、この問題は昔から「他我問題」「他者の心の問題」として論じられてきました。
Stanford Encyclopedia of Philosophyでも、他我問題は大まかに言えば、
「他の存在にも思考や感情などの心的状態があると、私たちはどう正当化して知ることができるのか」
という認識論上の問題として整理されています。
そして、類推、最良説明、証言、他者を直接知覚していると考える立場など、複数の考え方があり、単一の決着した答えがあるわけではありません。
考えてみれば奇妙です。
私は、
自分以外の人間の主観世界へ、一度も入ったことがない。
それでも、
家族にも。
友人にも。
知らない人にも。
ほぼ疑うことなく、
「この人にも私と同じような内側がある」
と思っています。
私たちは、何を根拠に相手の意識を信じているのか
たぶん、根拠は一つではありません。
相手には、自分とよく似た身体があります。
脳があります。
神経があります。
傷つけば手を引っ込めます。
悲しいと泣きます。
うれしいと笑います。
眠ります。
怖がります。
思い出を語ります。
昨日と今日をつなげて話します。
「私はこう感じた」
とも言います。
そして何より、
こちらが話しかけると、こちらの意図をある程度理解し、その状況に応じて返してくる。
私はそれを見ながら、
「自分の場合も、痛いときにはこうなる」
「自分の場合も、悲しいときにはこういう表情になる」
「ならば、この人にも自分と似た経験が起きているのだろう」
と考えているのでしょう。
これは伝統的には、類推による他者理解として説明されてきた考え方の一つです。もっとも、現在の他我論には、類推だけではなく「他者の心を行動から推測しているだけなのか」「表情や言葉を通して、もっと直接的に他者の心を知っているのではないか」といった異なる立場もあります。
ここで私は、どれか一つを正解にしたいわけではありません。
むしろ気になるのは、
私たちは直接見ていないものについて、かなり強い確信を持って生活している
ということです。
考える前に、私たちは他人の状態を感じ取っているのか

ここまで私は、
「相手の表情や行動を見て、そこから相手の内面を推論している」
と書いてきました。
ただ、実際の人間は、いつもそんなに論理的に他人を理解しているでしょうか。
目の前で誰かが机の角に小指をぶつける。
その瞬間、
「あ、この人の末梢神経に刺激が入り、脳へ信号が送られ、痛覚が生じているのだろう」
などとは考えません。
むしろ、
「うわ、痛そう」
と、こちらまで身体を縮める。
誰かが大きなあくびをすると、自分もあくびをしたくなる。
目の前の人が泣きそうな顔をすると、理由を全部知らなくても胸が少し苦しくなる。
スポーツを見ていて、選手が転倒した瞬間に自分まで身体に力が入ることもあります。
そこでは、
論理的に理解するより前に、身体が先に反応しているように感じます。
この現象を考えるうえで、よく登場するのが
ミラーニューロン、
あるいはミラーニューロン・システムです。
ミラーニューロンとは、もともとサルの研究で、自分がある行動をするときだけではなく、他者が同じような行動をするのを観察したときにも活動する神経細胞として見つかったものです。
人間でも、他者の行動を見ることと自分が行動することに関わる一部の脳領域が重なって活動する「ミラー機構」が研究されています。
ここから、
人間は他者の状態を、外から眺めるだけではなく、自分の身体の仕組みを部分的に使って理解しているのではないか
という考え方が生まれました。
相手が手を伸ばす。
自分は動いていない。
しかし自分の脳の中でも、その動作に関係するシステムが部分的に反応する。
そうだとすれば、
他人を理解するという行為は、
「外から情報を見て、頭の中で論理的に計算する」
だけではないことになります。
自分の身体を小さなシミュレーターのように使って、他者の状態を内側からなぞっている。
そんな理解の仕方もあるのかもしれません。
ただし「ミラーニューロン=共感」と決めつけることはできない
ここはかなり大事なので、線を引いておきます。
ミラーニューロンがあるから、人間は共感できる。
あるいは、
共感とはミラーニューロンそのものである。
そこまで単純に言うことは、現在の研究からは難しいようです。
ミラーニューロン系と共感との関連を調べた研究では、感情的・認知的共感との関連を示す結果がある一方、研究方法や共感の種類によって結果にはばらつきがあります。系統的レビューとメタ分析でも、関連を示す予備的な証拠はあるものの、共感全体をミラーニューロン系だけで説明できるとはされていません。
また、他人の心を理解する際には、ミラー系だけでなく、他者の意図や信念を推測する「メンタライジング」に関係する別の脳ネットワークも重要だと考えられています。共感と他者の心の推測は関連しますが、同一の処理ではありません。
つまり、
「身体で感じ取る他者理解」と「頭で推測する他者理解」は、重なりながらも別の仕組みを含んでいる
と考える方がよさそうです。
他者理解には「考える前の層」があるのかもしれない

ここで、今回の他我問題へ戻ります。
なぜ私は、
「あなたにも意識がある」
と信じられるのでしょうか。
私は先ほど、
身体。
言葉。
行動。
記憶。
反応。
自分との類似性。
そうした情報を積み重ねて、他者の内面を推論しているのではないかと考えました。
しかし、もう一つ加えた方がよさそうです。
それは、
他者を理解するとき、人間は必ずしも「推論してから感じる」のではなく、「感じてから理解する」こともある
ということです。
相手が苦しそうな顔をした瞬間、
こちらの身体にも何かが起こる。
そのあとで、
「この人は苦しいのだ」
と言葉にする。
だとすると、
他者理解には少なくとも、
身体的・直感的な共鳴
→ 相手の状態の推定
→ 言語化・概念化
という順序もありそうです。
これは非常に面白いことです。
なぜなら、
私たちは他人の主観世界へ直接入ることはできないのに、
完全に外側から眺めているだけでもない
可能性が出てくるからです。
「認知の牢獄」には、小さな窓がある
私はこの記事で、
人間はそれぞれ自分の「認知の牢獄」にいる、
という表現を使いました。
自分の一人称世界から完全に出ることはできない。
あなたの痛みを、そのまま私の痛みとして経験することもできない。
この基本構造は変わりません。
ただし、
その牢獄は完全な密室ではないのかもしれません。
表情を見る。
声を聞く。
身体の動きを見る。
そして、自分の身体のシステムがそれに反応する。
そこから相手の状態を感じ取る。
つまり、
言語が認知の牢獄同士をつなぐ「橋」だとすれば、身体的な共鳴は、その前に存在する「小さな窓」なのかもしれません。
完全に相手になることはできない。
しかし、
相手の状態によって、自分の内部にも変化が生じる。
だから私たちは、
論理的な証明を持っていなくても、
泣いている人を見れば悲しさを察し、
苦痛に顔をゆがめる人を見れば「痛そう」と感じ、
喜んでいる人を見ると、こちらまで少し明るくなる。
そう考えると、
「他人にも心がある」
という私たちの確信は、
哲学的な推論だけで作られているのではなく、
長い進化の中で作られた身体的な他者理解の仕組みにも支えられている
可能性があります。
それでも、
私はあなたの意識そのものを見たわけではありません。
ここが面白いところです。
直接見ることはできない。
しかし、まったく触れられないわけでもない。
私たちは、その中間にいるのかもしれません。
「直接観測できない」と「何も分からない」は同じではない

ここは分けておく必要があります。
他人の意識を直接経験できないからといって、
「他人には意識がないかもしれない。だから何も分からない」
とまで言う必要はありません。
たとえば私は、明日も太陽が昇ることを数学の定理のように証明して生活しているわけではありません。
家族が私をだましていないことも、毎朝すべて検証しているわけではない。
それでも、膨大な経験や関係性、観測の積み重ねから判断しています。
他者の意識についても似ています。
一つの証拠だけではなく、
身体。
行動。
発言。
反応。
記憶。
関係性。
脳や神経系の類似。
長期間の一貫性。
さまざまなものが重なって、
「この人にも内面がある」
という判断を支えています。
だから、
直接観測できないことと、合理的に推論できないことは別です。
これは、この連載で何度も使うことになる区別だと思います。
それでも私は、あなたの「赤」を見ることができない

ここから、もう少し深いところへ行きます。
私とあなたが、同じ赤いリンゴを見ているとします。
二人とも、
「赤いですね」
と言う。
色を見分けるテストをしても同じ答えになる。
信号の赤も判断できる。
脳や視覚系にも大きな異常はない。
ここまで一致したとしても、
一つだけ比較できないものがあります。
私に現れている「赤さ」と、あなたに現れている「赤さ」が、本当に同じなのか。
これを私は直接並べることができません。
私の赤をあなたの横へ置いて、
「ほら、同じ色ですね」
とはできない。
二人の外側にリンゴを置くことはできる。
波長も測れる。
発言も記録できる。
脳活動も観察できる。
しかし、
二人の第一人称経験そのものを、机の上に並べることはできない。
ここに、意識というテーマ独特の難しさがあります。
私たちは、それぞれの「認知の内側」にいる

私はこの状態を、
「認知の牢獄」
と考えてみています。
少し強い表現ですが、言いたいのは、
「人間は孤独である」
ということではありません。
自分の認知世界から完全に外へ出て、
他人の一人称世界をそのまま経験することができない、という意味です。
私は私の身体から世界を見ています。
あなたはあなたの身体から世界を見ている。
私の記憶。
私の感覚器官。
私の過去。
私の価値観。
私の脳。
それらを通して、私は世界を経験しています。
あなたも同じです。
だから私たちは、同じ部屋にいて、同じ出来事を見ても、
完全に同じ世界を経験しているとは限りません。
しかし、それでも人間社会は成り立っています。
なぜでしょう。
ここに、私はかなり重要な構造があると思っています。

心を直接渡せないから、人間は「現実世界を動かす」
悲しい。
でも、悲しさそのものを相手の脳へそのまま渡せない。
だから泣く。
言葉にする。
文章を書く。
抱きしめる。
黙り込む。
絵を描く。
音楽にする。
私は怒っている。
その怒りそのものを直接送れない。
だから声が変わる。
表情が変わる。
言葉が変わる。
行動が変わる。
内部の状態が、何らかの形で外部世界の差分になります。
すると相手は、その差分を見ることができる。
非常に単純化すると、

私の内部状態
↓
身体・言葉・行動
↓
共有できる物理世界の変化
↓
あなたが観測する
↓
あなたの内部に「私の状態」のモデルができる
という流れです。
コミュニケーションとは、
心そのものを移動させているのではなく、
心の状態によって現実世界へ生まれた差分を介して、相手の内面を推定し合うこと
なのかもしれません。
これは今のところ、私の考察です。
しかし、この見方をすると、言葉や表情や行動の意味が少し違って見えてきます。
人間は、自分の意識を直接共有できない。
だからこそ、
共有できる世界へ痕跡を残す。
文章を書くことも「意識の外部化」なのかもしれない
いま私が、このnoteを書いていることも同じです。
頭の中に、
「他人の意識って本当に分かるのだろうか」
という問いがあります。
しかし、この問いを頭の中に置いたままでは、誰にも見えません。
そこで、
キーボードを押す。
文字が並ぶ。
noteの記事になる。
あなたが読む。
すると、あなたの中に、
「なるほど、そういう問いもあるのか」
という別の状態が生まれる。
もちろん、
私の頭の中にあるものが、そのままあなたへ移ったわけではありません。
文章という外部の記号を通して、
あなたがあなた自身の認知の中で再構成している。
そう考えると、
言語とは、認知の牢獄同士をつなぐ橋
とも言えそうです。

完全な橋ではありません。
誤解もあります。
翻訳ミスもあります。
同じ言葉から違う意味を受け取ることもあります。
それでも、その橋があるから社会が成立しています。
ここで「観測できるもの」と「推論しているもの」を分けてみる
この連載では、少し意識的に、
事実。
推論。
まだ確認できないこと。
を分けていきたいと思います。
今回の問いで分けると、かなり見えやすくなります。
観測できるもの
相手の発言。
表情。
行動。
身体。
脳活動。
生理反応。
過去からの一貫した反応。
そこから推論しているもの
相手にも痛みがある。
相手にも悲しみがある。
相手にも世界が見えている。
相手にも「私」という感覚がある。
現在、直接確認できないもの
相手が感じる赤さと、自分が感じる赤さが同じなのか。
相手の痛さが、自分の痛さと同じ質なのか。
相手の主観経験そのものを、自分がそのまま経験できるのか。
この三つを混ぜてしまうと、
「他人の意識は証明できない」
から、
「だから他人に意識があるかどうか全く分からない」
へ飛びやすくなります。
逆に、
「人間は同じ身体を持っている」
から、
「だから全員まったく同じクオリアを経験している」
と断定するのも飛躍です。
分かっているところまで言う。
そこから先は、いったん保留する。
意識の問題では、この姿勢がかなり大事だと思っています。

そして、この問題はハードプロブレムとは同じではない
ここも明確に分けておきます。
今回扱っている、
「なぜ私は他人にも意識があると信じられるのか」
という問いは、哲学でいう他我問題に近いものです。
一方、意識のハードプロブレムは、
「なぜ物理的な情報処理に、主観的経験が伴うのか」
という別の問題です。
同じではありません。
ただし、二つはかなり近い場所にあります。
なぜなら、
ハードプロブレムで問題にしている「主観的経験」そのものが、
第三者からは直接共有しにくいものだからです。
私には、自分の痛みがあります。
しかし科学者が測定できるのは、
私の発言。
行動。
脳活動。
神経活動。
生理反応。
そうした、外部へ現れたものです。
では、
科学は「痛みそのもの」を、どこまで観測できているのでしょうか。
ここから次の問題が生まれます。
「あなたにも心がある」と私は証明しているのではない
最初の問いへ戻ります。
なぜ私は、
「あなたにも意識がある」
と信じているのでしょう。
今の段階では、私はこう考えています。
それは、
一つの決定的証明を持っているからではありません。
あなたの身体。
言葉。
行動。
記憶。
反応。
自分との類似性。
長い関係性。
そのすべてが、
「あなたにも私とは別の内側がある」
という方向を指しているからです。
私は、その膨大な差分を読んでいる。
そして、
あなたも私に対して、同じことをしているのでしょう。
そう考えると、人間社会は少し不思議です。
誰も他人の心を直接見ることができないのに、私たちは互いに「心がある」という前提で生きている。
会話する。
約束する。
傷つけないようにする。
愛する。
怒る。
謝る。
助ける。
そのすべてが、
「相手の内側にも、自分とは別の世界がある」
という前提の上に成り立っています。
証明できないから無意味なのではありません。
むしろ、
直接共有できないものを、共有できる世界を使って確かめ続けている。
そこに、人間という存在の面白さがあるのかもしれません。

次回|科学は「他人の痛み」をどこまで確認できるのか
今回、
「他人の意識そのものには直接アクセスできない」
というところまで進みました。
すると次の疑問が出てきます。
脳活動は測れる。
神経も測れる。
心拍数も測れる。
表情も記録できる。
本人に、
「0から10なら、どのくらい痛いですか」
と聞くこともできる。
では、
科学は一体、何を「痛み」として測っているのでしょうか。
そして、
科学が共有できるものと、
本人にしか直接分からないものの境界は、どこにあるのでしょう。
次回は、
「科学は『他人の痛み』をどこまで確認できるのか」
という問いから、
科学における「共有可能性」と意識の問題を考えてみます。
ぜっと|Z Observer
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