また小さく傷つくかもしれないけれど、
自分の何がそうさせるのか分からないけれど、
興味を持たれ、期待されて、親しみを込めた表情で近づいてきてくれる人がいる。
それが嬉しくて自分もその人と話をするし、仲良くなりたいのだけど、しばらく話すと、”思ったほどでもなかった”と思われるのか、スッと興味を失った顔をされるということが、今まで何度かあった。
それはよくあることかもしれないし、そもそも考えすぎだったり、思い違いかもしれない。
でも、相手の表情がスッと冷めた瞬間、目の光が褪せた瞬間に気づいて、心が淋しく冷えた記憶は今でもわりとクリアに残っているから、それなりに傷ついてきたのだと思う。
だから、(自分のことを知っている人には意外に思われるけど)新しく人と知り合うことや親しくなろうとすることは、自分にとってはけっこう勇気とエネルギーが必要なことだ。
何かアクションを起こそうとするとき、新しく人と知り合う機会があるとき、自動再生のようにをよぎるのは”引かれないか”、”嘲笑われないか”という不安だ。
人と知り合い、温かいつながりを持ちたい自分と、傷つくことを恐れる自分が同居している。
生きていたら、たぶん人それぞれに、心に小さな傷を負っていくことはあるのだと思う。
一つ一つは取るに足らなくても、それが積もると、ある事柄に臆病になってしまうこともある。
それでも。自分を守り続けることに倦み始めたのなら、ちょっとでも進んでみたい方向があるのなら、その痛みの記憶や脳内に響く心細い通奏低音さえも乗り越えて、小さくても一歩を踏み出してみたい。
その先には思いがけない地平が開けているかもしれないから。
”このままでは、このままです。”
”始めないと、始まらない。”
最後はそうやって自分を叱咤して、なんとか足を前に進めるしかない。
、、、
本当は、この十勝で出会った尊敬している人、気づいたら兄ちゃんのように親しみを覚えている人について書こうと思っていた。
なぜその人に親しみを覚えているかを考えていたときに、まず最初に思い浮かんだのが、この何者でもない自分をそのまま受け入れてくれたからだ。
そんなことを思い返しているうちに、そうやって自分を受け入れてくれる人が、今ではこの十勝にたくさんいることに改めて思い至った。
最初に書いたような心の痛みを恐れて何もしなかったら、こんな”今”には出会っていなかっただろう。
歩き続けていれば、また傷つくかもしれない。痛みを覚えるかもしれない。
それでも、歩き始めたから出会えた喜びがある。受け入れてくれる場所がある。その温かさは、かつて味わった心の冷え、痛みを癒して余りあるもののようだ。
