その手
あんなにうるさかったセミの声が、いつの間にか消えていた。夏らしいことも特にせず、季節だけが勝手に変わろうとしている。移ろう流れに乗れないまま、私だけが取り残されている気がしてくる。
仕事の方は生意気にも繁忙期だ。デスクに積まれた書類を見て、ああこのまま夏が終わるんだな、と思う。
立場が変わり、慣れない仕事が増えてきたのも一因かもしれない。評価されるのはありがたい。けれど本音を言えば、こちらに差し出されたその手を素直に握れるほど、今の私は器用ではない。
夜通しの仕事だけでは間に合わないので、早く出勤して帳尻を合わせることにした。カーテン越しに浴びる朝日で目覚めた朝。枕もとの時計は、いつもの1時間前を指している。
縦横無尽に跳ね回る寝ぐせとは裏腹に重力を感じる脳みそを抱え、洗面台へ向かう。
「ちくしょう」
誰に言うでもない愚痴とともに、蛇口を捻ったその瞬間だった。
カサカサカサカサ!!!!!
排水口の中にある目皿から黒い影が勢いよく飛び出してきた。
「おお」
本来なら大きな声の一つでも出るような場面かもしれないが、慢性的な疲労と寝不足は、人間から驚きという感情すら奪ってしまうらしい。
ぼーっと眺めていると、その黒い影がイメージの姿よりも一回り小さく、小指くらいしかないことに気が付く。久しぶりの来客は、子どものヤモリだった。
壁に足をかけては滑り、また別の方向へ走り出す。ゴマのような小さな目から混乱がにじみ出ている。
「共存…共存…」
頭が回っていなさ過ぎて、住処を奪われた森の原住民みたいな言葉しか出てこない。殺す意思はないよ、と伝えたい。それだけの想いで、私は右手を近づけた。
想いが届いたのかはわからないが、子ヤモリは洗面台のヘリに掴まって動きを止めた。じっとこちらを見ているような気もする。
私は、差し伸べようとした手を止めた。
自分より何千倍も大きな生き物が差しだしてきた手を、彼はどう感じるだろうか。
止めた手の代わりに、使い終えたキッチンペーパーの芯を差し出した。そのまま子ヤモリを驚かせないよう、そっと上から被せる。
小さな影がすっぽりと芯の中に収まったところで、上から中を覗き込んでみると、恐る恐る内側の壁に足をかけ、こちらに向かってゆっくりと登ってくる子ヤモリの姿が見えた。
そのまま慎重に玄関まで移動し、ドアを開けて、地面にそっと置いてみる。不安そうに固まっていた子ヤモリは、そのうち光に導かれるようにそろそろと外の世界へ歩んでいった。
自販機で買った缶コーヒーの冷たさが心地良い。たった1時間しか違わないのに、車で走るいつもの風景がなぜか違って見える。人が少ないからだろうか、当たり前に感じていた田んぼの緑がやけに眩しい。
その瞬間だった。
カサカサカサカサ!!!!!
田んぼに挟まれたあぜ道に黒い影が見えた。思わず踏んだ急ブレーキより大きな音で心臓がバクバク波打ち、冷たい血が頭にのぼっていくのがわかる。
しかしながら、本当のことを言えば、その影の動きは「カサカサカサカサ!!!!!」なんて軽やかなものではなかった。どちらかと言えば、のそ…のそ…と、一歩ずつ大地を踏みしめるような力強い歩み。
亀だった。
流石の私も一瞬目を疑ったが、間違いない。亀だ。マリオの世界から飛び出してきたように、亀が道を歩いている。
居場所を探しているのだろうか。歩みは遅いけれど、一目散に田んぼをめざしているのがわかった。
ルームミラーに目をやる。後ろに車はない。
サイドブレーキを引いた後、私はハンドルにそっと両手を置いた。
のそ…
のそ…
決して速いとは言えないスピードで、慣れないアスファルトを一歩ずつ進む姿を見ながら、缶コーヒーに口をつける。
「おお」
亀の小さな目が、一瞬だけこちらを捉えた気がした。今頃、あのヤモリはどこまで行っただろう。
気が付けば亀の姿はなくなっていた。私はサイドブレーキをおろし、ゆっくりとアクセルを踏み込む。開いた窓から吹き込んだ風は、夏の匂いがした。
