なぜ消された?『ブラック・ジャック』問題作「しずむ女」が封印された真の理由とは…【手塚治虫 / 未収録作品】
今回からいくつかある「ブラック・ジャック」の封印された作品の中から
現在手に取って読める入手可能な「封印作」をピックアップしてご紹介いたします。
実は「ブラック・ジャック」には、単行本に収録されていない、
封印作品(未収録エピソード)が存在するのはご存じでしょうか?
そもそも封印作品なんてあったの!?
という方のために補足しておくと「ブラック・ジャック」は全242話ありますがが、さまざまな理由から、なんと23篇もの未収録作品があります。
そのうち、完全に読むことができない「完全なお蔵入り」は3篇。
今回から、残りの20篇の内、今でも比較的入手しやすく、実際に読むことができるエピソードをピックアップしてご紹介していきますので
是非最後までお付き合いください。
まず取り上げるのは、第36話「しずむ女」です。
本作は数ある未収録エピソードの中でも屈指の知名度を誇る作品で1970年代刊行の紙の単行本(第4巻の初期版)を除き、以後の重版や文庫版では長らく未収録の扱いとなっていました。
「じゃあ、もう読めないの……?」と思ってしまいますよね。
かつては長年「幻の名作」とされていましたが、現在は少年チャンピオン・コミックスの電子書籍版(第4巻)に収録されており、Kindleで購読可能ですので手軽に読むことができるようになっています。
では早速あらすじから見ていきましょう。
あらすじ
工場廃液で汚染されたことによる公害病が晦日市で発生します。
汚染された廃液を魚が食べ
それを人間が口に入れることで歩けなくなるといった事例が発生し
これにより「晦日市病」患者に対し、
工場側が全治療費を負担することとなりました。

ヨーコという女の子もその被害者でしたが、彼女は
知的障害を持つ少女で請求のことを含め上手く受け答えができません。
それを逆手に救済委員はヨーコをだまし、
治療費を全額寄付させることにします。
保証金も騙されてもらえなかった彼女を見るに見かねて、
ブラック・ジャックが手術を行いますが
当然、騙されたヨーコには治療費を払うお金がありません。

…しかしブラック・ジャックはヨーコが歩けなくなった原因や
知的障害の原因である脳の障害も
晦日市病によるものと確信し、救済委員に300万円を要求します。
救済委員もヨーコの知的障害は生まれつきの障害であり
公害病である証拠がないとして非を認めないのですが
ヨーコが「字を書けたら公害病と認める」と条件付きで支払いに応じます。
そこから術後にリハビリなどを経て回復に向かっていたヨーコでしたが
ある日とんでもないことが起きます。
それは……
差別描写と差別用語
病に侵されながらも懸命に生きるヨーコと、社会の身勝手な都合によってその健気な命が握りつぶされていく様を描いた本作。「弱者救済」という『ブラック・ジャック』の本質が胸を打つ屈指の傑作エピソードでありながら、惜しくも単行本未収録となってしまいました。
本編が未収録になった理由は公表されておりません。
おそらく知的障害による差別描写が原因ではないかとされております。
知的障害に関する表現をはじめ、
差別用語に対する社会的な基準は連載当時から大きく変化しています。
そのため、現代の基準に抵触する描写やセリフは編集やカットの対象とならざるを得ません。
本作もその一例であり、現在では差別的とみなされる多くの言葉やセリフに修正が加えられています。
この差別用語がどういったことを指すのか。
「差別用語とは、特定の人や集団の属性(出自・障害・性別・職業など)を理由に、その人の尊厳を傷つけたり、社会から排除・軽視する意味合いをもつ言葉を指し、多くの場面で使用を控えるべき表現です。」
改めて聞けば「なるほど」と納得するものの、
知らず知らずのうちに使ってしまっていて驚くケースは意外と多いものです。特に50代以上の方にとっては、かつて日常的に使っていた言葉のなかに、現在では放送禁止用語や差別用語とみなされるものが数多く存在します。子どもの頃に交わしていた言葉を振り返り、今では使えない表現の多さに調べていてキリがないほど驚かされることも少なくありません。
言い換えが必要な言葉
「つんぼ」→耳が不自由
「めくら」→確かめもしない
「片ちんぱ」→不揃い
「手短」→端的
「足がない」→移動手段がない
「尻ぬぐい」→あと始末
「処女作」→第一作
「首切り」→解雇
「キチガイ」→ (使用不可)
『ブラック・ジャック』が連載されていた1970年代当時は普通に使われていた言葉も、今ではその多くが不適切とみなされるようになっています。
新しく出版される単行本などでは
このような表現がすべて修正されていますが、
対象となる言葉が年々増えている現状を考えると、
出版社側の表現チェックや校閲作業は本当に大変だろうなと感じますね。
「確かにこれは現代ではマズいな」と納得できるものもあれば、
「えっ、この言葉もダメなの?」と驚くようなものまで様々…。
ボクも、言葉を扱う者として無意識に使ってしまう怖さを感じますし、常に責任ある発言を心がけなければと改めて身が引き締まる思いがしました。
封印された理由とは…
話が少し逸れましたが
本編においても時代に即さない言葉が多数存在していたので
それらが修正対象となっていましたが
それが未収録の直接な原因とは考えにくいです。
そうなると、やはり「知的障害」をめぐる描写そのものが未収録の大きな要因になってくるのではないでしょうか。
作中のヨーコは、足が不自由で乳母車に乗せられていたり、
落ちている腐ったパンを口にしてしまったり、
会話の受け答えが「ヌ?」としかできないなど、
極めて直接的な形で知的障害を持つ人物として描かれています。

しかし、もしこうした生々しい描写自体が
すべて「不適切」としてタブー視されてしまうのだとすれば、
そもそも創作物の中で知的障害者をリアルに描くこと自体が成り立たなくなってしまいますよね。
…と思って調べてみますと
実は、マンガの世界において「知的障害」そのものを正面からテーマとして扱った作品は、見当たりませんでした。
そもそも一口に「障害」と言っても、
視覚や聴覚などの身体障害をはじめ、
精神障害や発達障害など様々に分類されています。
そして、これまでに
特定の障害に焦点を当てた作品であればいくつかありました。
たとえば、精神障害を題材とした手塚先生の『ヤジとボク』や、発達障害の一種である自閉症を取り上げた作品がそれに当たります。
しかし、商業漫画として描ける表現のボーダーラインは
おそらくそのあたりまでで、
それ以上に重度の障害や「知的障害」そのものに深く切り込んだマンガは、ボクの知る限りでは確認できませんでした。
(もしかしたら他に存在するのかもしれませんが)
視覚障害や聴覚障害といった「身体障害」を扱った漫画は、
探せばいくらでも見つかります。
手塚作品で言えば『どろろ』や『ルードウィヒ・B』などが身体障害に焦点を当てた代表例と言えますし、他作家の作品を含めればそれこそ数え切れないほど存在します。
しかし、「知的障害」そのものを真正面からテーマにしたマンガとなると、やはり見当たりません。
そう考えると、
出版業界においても「知的障害」を直接描くこと自体が極めてデリケートなことで、タブー視されていたのではないでしょうか。このエピソードが単行本未収録となってしまった最大の要因も、まさにそこにあったのではないかと強く感じました。
モデルとなった公害病
…あと
未収録の直接の原因ではないと思われますが
本編に出てくる「晦日市病」はおそらく「四日市公害裁判」をモデルとしていますのでこれについても少し触れておきます。
公害病も結構「ブラック・ジャック」ではテーマに挙がっていて
ざっと「ふたりのピノコ」「魔女裁判」「望郷」など出てきます。
公害病というのは、まさに戦後の高度経済成長によって日本が急激な発展を遂げた、その強烈な「影の側面」であり歪みなんですね。
当時は何よりも「経済優先」「産業第一」という風潮が日本中を支配していた時代で全国各地に巨大な工場が次々と建設されていったわけです。
なんせ1960年代後半の実質経済成長率は10%を超えていましたから
急激な変化が社会で起こっていたことになります。
10%ですからね。すごいですよね。

しかしその結果、大気汚染のみならず、工場周辺の地域では有害物質を含んだ排水が垂れ流され、水質汚濁、自然破壊、新幹線などによる騒音・振動などの問題が日本各地で顕在化して、住民の生活を脅かす深刻な被害が日常的に多発していくという、恐ろしい時代へ突入していきます。
その象徴的な出来事として真っ先に挙げられるのが、
1968年の「イタイイタイ病」です。
……いや、不謹慎ですがなんとも語感だけは妙にポップでインパクト抜群ですから、学生時代の社会科の授業でもここだけ鮮明に記憶に残っているという方、かなり多いんじゃないでしょうか。
しかし、その実態は極めて凄惨なものでした。
この年にようやく原因が「三井金属の鉱山排水(カドミウム)」であると公式に特定され、同じく、水俣病についても「チッソの工場排水に含まれる有機水銀」が原因であるとする政府の統一見解が発表されます。
つまりこの時期、
日本各地で人々を苦しめていた恐ろしい奇病や健康被害が、
決して天災などではなく紛れもない「産業優先が生んだ人災=産業型公害」であった事実が、次々と白日の下に晒されていったわけです。

これに世論も一気に過熱し、
「いくら産業発展のためとはいえ命を脅かす公害など断じて許されない」
という怒りのうねりが全国規模で巻き起こりここでようやく、
国や行政も重い腰を上げて公害防止に向けた法整備や施策へと大きく舵を切ることになるんですね。
これを契機として、
昭和40年代の日本列島は各地で大規模な公害裁判が勃発する時代へと突入。
まさに「公害列島」という不名誉な言葉が飛び交うほど、
この問題は日本社会全体を揺るがす社会問題へと発展していきました。
そして1972年、あの「四日市公害裁判」の勝訴判決を契機として、
国はついに「公害健康被害補償法」の制定へと動くことになるわけです。
本作においても、単なる公害病の被害というより、被害者への「補償」という側面に触れているのでこれは、公害健康被害補償制度が実際に施行された1974年9月の社会的タイミングに、手塚先生が意図して焦点を合わせたからと言えます。
裁判自体は2年前の1972年に原告勝訴で決着していましたが、
制度として本格稼働したのはその2年後、1974年9月のことでした。
本作の雑誌掲載日はまさにその直前、1974年8月19日号ですから、
手塚先生が当時の最重要時事ニュースとして世に問うた題材であることは間違いありません。
作中では、海洋汚染が直接の原因として描かれていますが、
当時全国で大気汚染の被害に苦しんでいた多くの人々も、
この四日市公害裁判の勝利を先例として各地で反対運動を展開していくようになっていくので、日本の公害闘争史を語る上で、四日市公害裁判はまさに歴史を大きく動かした事例と言えますね。
奇しくも環境破壊や文明の暴走というテーマは、手塚先生が初期から一貫して警鐘を鳴らし続けたライフワークでもありました。
時代への痛烈なメッセージが入った重要エピソードでありながら、単行本「未収録」という憂き目に遭ってしまったことについては、手塚先生にとっても無念の思いがあったのではないかと推察されます。
出崎演出の妙
また、このエピソード(『しずむ女』)は、あのアニメ界の巨匠・出﨑統監督の手によってOVAとして映像化もされています。

出﨑監督が創り出す映像といえば、いわゆる「出﨑演出」として知られる通り、手塚先生の原作タッチとは一線を画すシャープなキャラクターデザインと、圧倒的な陰影を効かせたハードボイルドかつ重厚な世界観が強烈なインパクトを放っています。手塚原作とは真逆の存在感がありますがファンであれば間違いなく一見の価値があります。
というのも元をたどれば出﨑監督は「虫プロダクション」出身であり、手塚イズムの洗礼を浴びた直系の後継者のひとりなんですよね。
この強烈な作風の分岐点についてですが、
若き日の出﨑監督が手塚先生から「君の絵は遊びが足りない」と評されたことが、自らの表現を極限まで突き詰める大きなキッカケになったそうで巨匠・手塚治虫と、その遺伝子を受け継ぎ異端の進化を遂げた鬼才・出﨑統。
この濃密な師弟関係の系譜が刻み込まれた名作OVA『ブラック・ジャック / しずむ女』、機会があればぜひ皆さんもご覧になってみてください。
というわけで今回は第36話「しずむ女」をご紹介いたしました。
ご注意いただきたいのが本編はチャンピオンコミックスの第4巻に収録されておりますが他の出版物の4巻には収録されておりませんので買わないようにしてくださいね。
ここ本当にお気を付けください。
『ブラック・ジャック』はマジでややこしいんで
探すのが面倒な方はリンクよりご確認くださいませ。
ではでは…。
