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『不可視の遺言』第二章:解剖する夜と無人の体温

第二章:解剖する夜と無人の体温


【現在確認されている人物一覧】
空丸 凪人(そらまる なぎと)|男性 31歳|損害査定事務員。
★佐伯 一(さえき はじめ)|男性 28歳前後|凪人のとなりのデスクに座る同僚。

登場人物


日陰を出る。

朝の光が、正面から容赦なく突き刺してきた。

眩しさに目を細めた瞬間、足元に落ちたはずの影が、視界の隅で妙な形をしていることに気づく。

踏み出した右足はもう次の一歩へ移っているのに、影の輪郭だけがまだ前の姿勢のまま、アスファルトに貼りついていた。

半歩、遅れている。

伸びたゴムが戻るように、影はすぐに追いついてくる。

だが追いついた分だけ、また次の一歩で遅れが生まれる。

繰り返す。


踏む。遅れる。追いつく。


踏む。遅れる。


爪の先に、まだ黒土が残っている。

親指の腹で払い落とす。

乾いた土くれが、影の上に落ちて、そのまま踏み潰された。


――眠れていない。それだけだ。

――日差しが強すぎて、瞳孔どうこうの反応が追いついていないだけだ。


歩幅を崩さず、雑踏の流れへ入っていく。

ビルの自動ドアが割れ、蛍光灯の白い光がロビーを平たく塗りつぶした瞬間、足元へ目を落とす。

影は、そこにいた。

かかとの動きに合わせて、寸分すんぶんの遅れもなく寄り添っている。

肩の力が、少しだけ抜けた。

屋内の光の下でだけ、世界は正しく動いている。

そう思うことにして、凪人なぎとはエレベーターホールへ歩き出した。


自席に着く。

端末を起動し、ログイン画面に指を走らせる。

案件フォルダを開き、今朝届いたファイルの一番上を引き寄せた。


物流倉庫、高圧受変電ユニット落下事故。

潰れたスチールラックの写真。

見取り図に引かれた赤と青の矢印が、鋭角に交わっている。

過失割合の欄に、数字が並んでいた。


約款集やっかんしゅうを開く。

ページをめくる、乾いた音。

落雷・破裂免責条項。

該当コードに、赤ペンで丸をつける。

テンキーへ手を移す。


――カタ、カタ、カタ。


損害額。査定コード。決裁欄。

数字が枠へ収まっていくたび、潰れた鉄板はただの記号へ変わっていく。

折り目を伸ばしたワイシャツの袖口が、キーボードの縁を規則正しく往復した。

指の動きだけを、止めなかった。


空丸そらまるさん、倉庫の搬入ルート図面です」


隣から、声がかかる。

振り向く。

佐伯さえきの唇は、もう閉じかけていた。

言葉の形は、そこで終わっている。

声だけが、コンマ数秒遅れて鼓膜こまくを揺らした。


「――搬入ルート図面です」


差し出された紙の端に、指を伸ばす。

頬の筋肉を、訓練された角度でミリ単位持ち上げた。


「ああ、助かる」

引きつったまま、書類を受け取った。


**


鍵を回す。かちり。

もう一度、回す。かちり。

二重の確認。

チェーンを、金具の溝へ滑らせる。

硬い音が、二度、玄関に響いた。


通勤バッグを、床へ下ろす。

手を離した瞬間、部屋の静けさが一気に厚みを増した。

外界の音が、鍵一枚の向こうへ完全に置き去りにされている。

ネクタイを、指先でほどく。

ワイシャツのボタンを、上から順に外す。

スラックスを畳み、ハンガーへ掛ける。

一枚脱ぐごとに、まともな社会人の輪郭が、床の上へ積み重なっていく。


デスクの引き出しから、体温計を取り出す。

脇に挟む。

ピピッ、と電子音が鳴る。

液晶に、青白い文字が浮かんだ。


三十六度五分。平熱だった。


安堵あんどは、来なかった。

左手を、パジャマの胸元に押し当てる。

何も、返ってこない。

振動も、鼓動も、皮膚の下でうごめく気配すらない。

ただの、静止した肉の塊だった。


スマートウォッチを、手首に巻き直す。

心拍ログを開く。

線が、水平に伸びている。

五秒。動かない。

六秒目、線がわずかに跳ねる。

二回、続けて。小さな山。

すぐに、また平らへ戻る。

呼吸のようで、呼吸ではない波形だった。


右手の人差し指と中指を、首筋に押し当てる。

皮膚を押し込む。

脂肪の層を抜け、筋の下、骨に近いところまで、指先を沈める。

――冷たい。

骨だけが、そこにある冷たさだった。

押し返してくる拍動は、どこにも存在しなかった。


――残業続きだ。

―――自律神経が、乱れているだけだ。

――――刺激伝導系しげきでんどうけいのコマ落ちだ。

―――――心臓は動いている。ただ、拾いにくくなっているだけだ。


唱える。

唱えたところで、指先の下の静寂は変わらない。

指を、引き抜く。

――今夜、早く眠れば治る。

それだけのことだ。


掛け布団の端へ、手を伸ばす。

指先が布地に触れる、その寸前で、足の裏から冷たいものが這い上がってきた。

かかとから、ふくらはぎ、膝の裏、腰の奥。

横になれば。

目を閉じれば。

そこで止まる。


――眠りへ落ちた先で、二度と目が覚めないのではないか。


息を吸う。

喉の奥が、乾いた音を立てる。

足が、動かない。

膝も、腰も、命令を聞かない。

凪人なぎとは薄暗い部屋の真ん中、ベッドの脇に立ったまま、自分の呼吸だけを聞いていた。


吸って、吐いて。

吸って、吐いて。


やけに平らな音が、耳の奥で繰り返されていた。



天井の闇に、鼻先が反応した。

プラスチックの焼ける匂い。

刺激臭が、鼻腔びくうの奥を薄くく。

ベッド脇に立ち尽くしたまま、凪人なぎとは瞬きを二度した。


甲高い電子音が、頭上で弾けた。

短く、断続的な警告音。

間を置かず、また鳴る。

天井の白い箱の縁、赤いLEDが一定の間隔で明滅している。

胸の奥は、静かなままだった。

跳ねるはずの何かが、跳ねない。

息を吸う。吐く。

その速度すら、変わらなかった。


スマートフォン、財布、鍵。

手の甲で順に触れ、確かめる。

手順を守れば、まだ間に合う気がした。

ドアノブへ手を伸ばす。

金属の冷気が、てのひらの中心に触れた。

ドアを引いた瞬間、白いものが顔を撫でた。

廊下に流れ込んできた、薄い煙の膜

喉の奥を、細い刃で引っ掻かれるような臭いが通り抜けていく。


「火事だ、火事だ――」

隣の隣のドアが、勢いよく開いた。

パジャマ姿の男が、サンダルを引きずりながら廊下へ転がり出る。

反対側でも、女の甲高い声。

誰かが階段の手すりを叩く、鈍い金属音。

人の声と靴音が、狭い外廊下の中で幾つも折り重なっていった。


視界の端、隣室の投函口とうかんぐちから、白い糸が幾筋も外へ噴き出している。


凪人なぎとはそこから視線を引き剥がし、足元だけを見て、外階段を下りた。

一段、また一段。

速くも、遅くもならない。

地上に降り立つ。

赤い光が、アスファルトを塗り替えていく。

消防車が、路地に横づけされた。

回転灯の赤が、濡れた路面を一定の周期で染めては、また闇に戻す。

ホースが、地面を這う音。


「二階、右奥!」

「水利、確保しました!」

短く切られた声が、次々と重なり合う。

放水の振動が、空気ごと震わせているのがわかった。

数分と経たず、二階の窓から立ち昇っていた白い筋が、細く、さらに細くなっていく。



「もう大丈夫みたいです、お戻りください」


隊員の声に押されるように、住人たちが階段を上り始めた。

凪人なぎとも、その流れに紛れて足を運ぶ。

二階の廊下は、放水の名残で薄く水膜を張っていた。

隣室のドアが、蝶番ちょうつがいきわから歪んでこじ開けられている。

隙間から、懐中電灯の白い光束こうそくが差し込まれ、暗い玄関の輪郭を撫でていた。


「住民の姿はありません」

低い声が、水滴の落ちる音の合間に届く。

「ブレーカー、全部落ちてます」

「管理会社さん、ここの契約って――」

背広姿の男が、書類をめくる音を立てた。

「いや……記録上は、数年前に解約済みで。空室の、はずなんですが」

言葉尻が、そこで途切れた。

誰も、続きを引き取らなかった。

自室のドアの前で、凪人なぎとは動きを止めたまま、その沈黙を聞いていた。


ドアノブを引く。 すべり込み、背中が扉にもたれ掛かる。

サムターンを二度回す。

チェーンを溝の奥へ滑り込ませる。

かちり、と金属の音が玄関の暗がりに落ちた。

靴を脱ぎ、二〇二号室と接する壁へ歩み寄る。

右のてのひらを、壁紙へ押し当てる。


――氷だった。


服越しでもわかる極冷。

手のひらの体温が、数秒で急速に吸い上げられていく。

指先の感覚が麻痺まひし、骨まで冷たさが刺さる。

部屋の空気とは切り離された冷気が、肩甲骨けんこうこつの奥へまとわりつく。

耳を当てる。

人の気配も、家電の低音も、水道管の振動もない。

完全な無音が、薄い壁の向こうに広がっている。


ベッドへ足を向ける。

掛け布団の端に指先が触れた瞬間、膝の裏が硬直した。

横になり、まぶたを閉じる動作のイメージ。

その先に待つ、胸の内側の平坦な沈黙。

横になれば二度と起き上がれない感覚が、全身の筋肉を強く縛りつける。

布団から手を引きがす。


背を向け、PCデスクの前へ逃れる。

椅子に腰を落とし、電源ボタンを押し込む。

ファンが低く回り始める。

暗闇のなか、青白いモニターの光が顔面を濡らした。

ブラウザを開く。


『カケヨメ』の投稿画面。


真っ白な入力欄で、縦のカーソルが一定の周期で点滅している。

両手をキーボードに置く。

指先が、勝手に動き出した。

日中のオフィスで損害事故の写真を数字へ置き換えていた手付きとは、まるで違う速度。

爪がプラスチックを弾く音が、カタカタカタ、と乾いた連打となって部屋を満たしていく。

画面の中で、文字列が縦に流れる。


見知らぬ神社の名前。

湿った黒土の感触。

震える指先。

三年前、という具体的な数字。


凪人なぎとの記憶にはない光景も、指先だけの判断で文字へ変換されていく。


不意に、指が止まった。


画面を満たす文章を視線が追う。

脳の奥が内容を認識することを拒み、のどが乾いた音を立てる。

マウスを握る。

カーソルを「公開する」の四角いボタンへ合わせる。


カチリ。

乾いた音がひとつ響いた。

投稿完了の画面が浮かび上がり、青白い光だけが凪人なぎとの顔を照らし続けていた。


(第二章:解剖する夜と無人の体温 完)


読んでいただき本当にありがとうございます。 のらくらと申します。

自分の内面を表現するのが苦手な分、 作品を通して何かを伝えられればと奮起しています。

「面白かった」「ここが気になった」など、 一言でもコメントをいただければ、この上ない励みになります。 どうぞよろしくお願いいたします。

(この物語はフィクションです。 作中に登場する個人、団体、地名、および特定の施設・寺社仏閣等はすべて架空のものであり、実在の人物や歴史的事実、実在するいかなる組織とも一切関係がありません。 また、作中に登場するウェアラブル端末の生体ログや医学的描写は、すべて物語上の演出であり、実際の医療的・技術的事実とは異なります)

第零観測局|アーカイブ管理官
※本ログはフィクションプロジェクト『不可視の遺言』の観測記録です。

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