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被治系)大衆に酔ってみよう~政治経済 耳学問 06

政治学の視点では「大衆(mass)」は人々の集合体ではなく、政治意識・政治行動・政治心理の分析対象となる集合体存在になる。
ここでは政治心理・政治意識論・政治行動論・民衆史を焦点に見てゆこう。

政治学の視点から大衆を考察することは、匿名性・非合理性・被暗示性といった古典的な懸念を伴う。政治心理学は感情的な基盤を解明し、政治意識論・政治行動論は大衆行動パターンを分析する。民衆史は大衆が持つ変革のエネルギーや政治制度の枠組みを変えるほどの潜在的な能動性を強調する。

大衆の概念は政治制度や政治機構の外部や下部構造として政治体系そのものへ影響を及ぼす不定形な力を示すことがある。
統治側にはこの大多数の被治者である大衆の力をどのようにして現政治体系の安定維持と発展に組み込むか…にある。ポピュリズムや権威的な扇動は大衆の非合理な側面を利用する。
被治者である大衆の側から見れば、政治制度と政治機構は、時に「守られるべき規範」としてまた時に「乗り越えるべき抑圧」として認識される。大衆は常に権威権力の源であると同時に、民主政治の機構瓦解の危うさを内包する両義的な存在だ。


大衆の匿名性と非合理性

政治学で「大衆」という概念が注目を集めるようになったのは、産業革命以降の社会構造の変化・都市化・民主主義の拡大という経緯がある。
伝統的な共同体から切り離され匿名性を帯びた人々が都市へ集中し、マスメディア(その名のとおり不特定の大多数へ向けた情報媒介)の発展で均質化した情報に晒される大衆社会の出現は、統治者や学識者の懸念を抱かせた。

政治意識論の観点から見ると、大衆の多くは政治に対する関心や知識が低い「低関心層」としてとらえられている。大衆の政治態度は、系統だったイデオロギー的信念よりも感情や短期的な利害やマスメディアによる被暗示性・扇動操作に影響されやすい。この大衆傾向は比較政治論での分析視角となっている。
政治行動論は投票行動やデモといった具体的な政治参加行動を分析するが、大衆行動は非組織的で突発的なものとして特徴づけられる。ギュスターヴ・ル・ボンの議論のような古典的な大衆論では、大衆は集合すると個人では示さない非合理性や感情的な激しさを発揮し、指導者の扇動に容易に乗じやすいとされる。大衆行動は選挙という形で大衆の力が顕在化する一方、選択の質や持続性には疑問符がつけられた。
大衆の低関心は、政治が彼らの生活課題に直接結びついていないことの顕れと同時に、自らの権利と生活を守るための「合理的な無関心」の顕れとも解釈された。

現在では被治者(大衆)の日常の判断や行動は、政治イデオロギーよりも経済的な合理性や快適性の追求すなわち消費行動の論理に深く根差していると解釈されている。政治への関心や知識が低い低関心層にとって政治的選択は、「最も安くて効果的なサービス(公共サービスや福祉)を選ぶ消費行動」の延長と理解されている。
長期的な国家ビジョンではなく減税や給付金といった短期的な経済的利得で選挙公約の評価が行われがちで、商品の満足度やリターンを即座に求める消費者視点で政治をも見ていることの顕れとされている。

権威と政治心理

政治心理の研究ことに第二次世界大戦後のファシズムの経験を踏まえた研究は「権威主義的パーソナリティ」という概念を提示した。
強固な権威への服従を好み、体制外の集団への敵意を抱きやすいことは個人の心理傾向であり、大衆が独裁的な指導者や体制を支持する心理的基盤を説明する一助となる。
不確実性や不安が高まる状況下では、大衆は強権的な政治体系による権威と秩序を求めやすい傾向がある。被治者にとって権威と秩序の追求は、社会の混乱から生活を守り最低限の安全と予測可能性を確保するための、切実な期待と防衛反応である側面を持つ。
権威主義的パーソナリティ現象の具体例として、1920年代から1930年代にかけてのイタリアやドイツにおけるファシズム運動への熱狂的な大衆動員がよく挙げられる。極端な経済危機や社会不安が高まる中「独裁的な指導者への服従と統一」のメッセージが不安を抱える大衆の心理的な受け皿となった。

大衆を構成する個人は完全に孤立しておらず、何らかの準拠集団や社会ネットワークに属している。現代の政治心理研究では、政治的態度の形成に帰属している集団が提供するアイデンティティや規範が重要視される。
ネーション論との関連では「国家という大規模な想像の共同体」が大衆に共通のアイデンティティを提供し、国際政治上での対外的な危機や対立の際に大衆のナショナリスティックな感情が政治行動を大きく左右することが示される。

統治権力は政策の成果だけでなく、象徴的な行為(spectacle)を通じ大衆の感情的な欲求に応えようとする。たとえば大規模な国家儀式や感情に訴えかけるパフォーマンスは、大衆の集合的な感情や一体感を高め「権威と秩序への服従(被治者の従属)」を無意識に強化する。権威主義的パーソナリティを、統治側が意図的に提供する。
統治エリートの一部ではポピュリズム傾向の強い指導者を敢えて体制内に組み込んだり容認し、大衆の不満や非合理的なエネルギーを体制への過激な反逆ではなく「体制内での抗議活動」として消費させて体制変革を防ぐ戦略をとる場合もある。大衆の熱狂を安全弁として利用し、民主政治機構の危うさ(大衆の非合理性)を逆手にとり安定を維持するメカニズムだ。いわゆる「非合理性のガス抜き」としてポピュリズムを利用する。

民衆史からの政治視座

古典的な大衆論は大衆を非合理で受動的な存在として描きがちだが、民衆史の視点では異なる側面が浮かび上がる。
民衆史は、エリートや指導者の視点ではなく名もなき民衆が歴史や政治において果たした役割を再評価する。

民衆史は古今東西の大衆反乱や暴動を単なる無秩序な騒乱ではなく、政治機構や権力構造など統治者へ対する「下層からの抵抗」としてとらえ直す。
フランス革命でのサン・キュロットの行動は、古典的な政治思想史が市民革命の主役をブルジョワジーとするのに対し、民衆が独自の生活防衛や政治的要求を持って歴史の転換点に関わった古典的事例としてよく示される。サン・キュロットは都市の手工業者・小商店主・労働者などの下層市民層を指し、バスティーユ襲撃やヴェルサイユ行進など議会外の政治勢力として革命を推進した。サン・キュロットの行動は非イデオロギー的で衝動的だが、独自の正義や不満に根ざした政治的行為と解釈されている。

比較政治論の観点では、国家体制民主化の過程で大衆の能動的な動員と参加は不可欠だったとされる。冷戦終結後の東欧諸国やアジア・ラテンアメリカの民主化運動は、エリート間交渉だけでなく街頭に出た大衆の圧倒的な数が統治体制へ圧力をかけ政治制度の変革をうながした事例だ。

現代政治での大衆のとらえかたの変容

現代の被治者(大衆)はグローバル化とデジタル化が進む中、性格を変容させつつある。インターネットの普及は、大衆の匿名性を保ちつつかつてない規模と速度での水平的な連携と情報の拡散を可能にした。

2020年代現在、大衆の力はポピュリズムの台頭という形で顕著だ。
ポピュリストの指導者は、政治体系やエリートに対する大衆の不満や疎外感を利用し「エリートvs純粋な大衆」という単純なイデオロギー対立の構図を作り出す。「エリートvs純粋な大衆」メッセージを従来のメディアよりも速く深くデジタルメディアは浸透させ、「デジタル大衆」と呼ばれる新たな集合体を形成している。デジタル大衆はSNS上で形成されるエコーチェンバーやフィルターバブルで均質化された政治意識を持ち、時に暴力的で非合理な政治行動を組織化している。
既存の政治制度が取りこぼした個々人の不満や疎外感を負の形で集合させ、統治側への強い抗議のエネルギーとして噴出させている側面を持つ。

ヨーロッパにおけるポピュリズムの台頭は、イギリスのEU離脱(brexit)を推進した運動や、ドイツの「ドイツのための選択肢(AfD)」の躍進などに見て取れる。これらの運動は反移民や反EUといったメッセージを掲げ、既存のエスタブリッシュメントへの不満を抱える大衆の支持を集めた。
ポピュリズムが「エリートvs純粋な大衆」の対立構図を作る際に、エリートは質の悪い商品を売りつける側、大衆は「より良いサービスを求める顧客」として位置づけ、経済的な不満を政治的な行動エネルギーに変換する構造が見られる。政治意識論における低関心や非合理性を、「経済生活上の合理的なサービス利用者の態度」として再解釈させる。

統治側はビッグデータとAIを用い、SNS上のデジタル大衆の感情や動向、不満の噴出を高精度で監視・予測もまた可能にしている。
デジタル大衆が組織的な抗議行動になる前に先手を打ち、情報操作/関連法規の整備/特定の話題の抑制などの対応をすることも可能だ。民衆史が強調する「下層からの抵抗」の芽を摘む統治戦略である。
統治者にとり被治者が遵守と従属してくれないことは脅威であり、政治目標を逸脱してしまうと感じる。

国際政治論の文脈では、グローバル化が進む中でネーション論における大衆国民の枠組みが揺らいでいる。移民の増加や超国家的な経済活動は、国家単位での政治意識の均質性を崩し、大衆を「国民」と呼ぶことの含意を煩雑にしている。
比較政治論では、各国の政治制度がグローバル化の波とそれに反応する国内の大衆の動きにいかに対応しているかを分析の焦点としている。

大衆が概念化するのは何人規模から?

私算に過ぎないが、いったいどれほどの人数からが実体人数を離れて「大衆」というひと括りの概念と化すのだろう?
大人数をひとまとまりに鳥瞰できる人数はおよそ10万人ていどだろう。大きなイベントでの群集をドローンなどで撮影しているシーンを想像してもらえばイメージし易いかと思う。
一個人が相手のポジショニングを把握できるのはダンパー数に拠ればおよそ150人だが、一個人がひとまとまりの集団を体感できるのはおよそ10万人ていどが上限ではないだろうか。
つまり大衆概念とは10万人以上の人数を把握しようとすると出現する概念ではないかと、私は思う。

「臨界質量(Critical Mass)」という概念がある。
社会学や物理学で用いられるこの概念は「集団の行動や意見が、それを構成する個人の属性を超えて、全体として質的な変化や予測不可能な変化を起こすのに必要な最小限の数」を指す。大衆が匿名性・非合理性・被暗示性を発揮し始める「非線形的な転換点」をとらえている。
臨界質量は、特定の社会状況や集団の特性(たとえば、イベント観覧/デモの目的/SNS上での拡散力)で変動し「大衆の概念が発現する人数は固定ではない」視点を提供する。

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