【全方位"沼"】文化は言語の入口か、それとも言語が文化の入口か
1、動機としての文化、手段としての言語
K‐POPに興味がある人が韓国語を学び、オペラに興味がある人がイタリア語を学び、フラメンコに興味がある人がスペイン語を学ぶ。これらは必ずしもその言語そのものが文化を代表しているわけではないが、外国語を学ぶ動機としては分かりやすい例だ。しかし、その言語が手段にすぎないのであれば、翻訳で満足する人も多いだろう。中東情勢に興味を持っている人が、アラビア語やヘブライ語やトルコ語やペルシア語を知らなくても、現地の情報は日本語でも得られる。もちろん、日本語で報道される情報は日本人の視点を通したものでしかないので、より生の情報に接するなら現地の言葉で報道したもののほうが望ましいことは言うまでもない(でもそんなこと言ったら直接現場に飛び込んで情報を取ってくるべきみたいなことになってしまう)。ただ、対象が言語にどの程度依存してくるかによって、言葉の知識の必要性は変わってくる。ドイツの詩に興味があるのなら、ドイツ語は詩を理解するために必須になるだろうが、ドイツのビールに興味があるのなら、基本的にはドイツのビールについて書かれた情報が分かればそれでいいので、ドイツ語を学習する根本的な動機にはなりえず、翻訳ツールをつかえば目的は達成されるかもしれない。
2、言語が文化を引っ張ってくるとき
語学と文化の関係はこの逆のパターンもある。ある外国語を学ぶことは、その外国語で表現される文化を学ぶことを巻き込んでくる。例えば私はソ連映画には興味がなかった。でも、ロシア語を学んでいくうちに何本かソ連映画を見る機会があり、普通の人よりかは詳しくなったのではないかと思う。それは教科書の例文かもしれないし、現地での生活の一場面かもしれないが、その言語に関わっている以上、言語のなかに息づく文化に否応なしに触れることになる。文化を介した多種多様な沼の入口が言語を学ぶことで開くのだ。
Карнавал という1981年のソ連映画のエンディング曲、Cпасибо, жизнь! ロシア語を学習していなかったら、この楽曲を知ることはなかった。
言葉を学習しているうちにその文化に興味をもつようになるのは、文化をきっかけに言語を学ぶのとは異なる。その言語を学ぶことでその文化に関心をもつのであって、その逆ではない。もちろん、語学学習としてその文化に触れるという場合もある。私は以前タイ語を勉強していて、タイのドラマや映画を学習のために見ていたが、なかなか思うように続かなかった。やはり文化に対する興味が最初から少しはないと厳しい。このあたりは白か黒かではなく、言葉に対する興味と文化に対する興味が入り混じってないとダメみたいだ。すなわち、言語を学ぶために文化を学び、文化を学ぶために言語を学んでいるという自己認識がないと継続しにくい。
3、言語学習に内在する文化的知識
もちろん、必ずしも文化に興味を持つ必要はない。生真面目な人は「ドイツ語を学習してるのならゲーテくらい邦訳でもいいから読まないと」みたいに考えるかもしれないが、そんなストイックになる必要はない。おもしろいのは、別に興味があろうがなかろうが「ゲーテ」というワードをドイツ語学習の過程で自然と身につけてしまっている可能性が高いことだ。文豪としてのゲーテを知らなくても、ゲーテ・インスティトゥートという言葉を耳にしたことがないドイツ語学習者はほぼいないのではないか。この時点で文化に関する知識は自動的に身についている。私だってフランス語をやってても柔道には興味ないし、ポルトガル語をやっていてもタラの塩漬けに興味をもったりしない。だけど、柔道やタラの塩漬けをフランスやポルトガルの代表的なスポーツや料理と認識している時点で、その言語に付随する文化的知識が自然と備わっている。日本のアニメが好きで日本語を学んでいる人が普通の外国人よりも相撲や歌舞伎になじみがあるように、文化的知識というのは好むと好まざるとにかかわらずついてくる。
4、文化を脱色する国際共通語
しかしである。語学をしていて文化的知識を得るのはむしろ稀なのではないか。大多数の日本人にとって外国語とは英語のことであり、その目的は直接的な会話でのコミュニケーションを取ることである。もちろん、相手の属している文化背景を知ることが相互理解のために大切であることは論を待たないが、ビジネスや旅行といった文脈ではとにもかくにも伝わらなければ意味がないと感じるのではないか。英語は幸か不幸か国際共通語という役割を背負わされている。日本社会に英語圏の文化が浸透しているという解釈もできるかもしれないが、ならば英語を勉強していてクリケットやホットドッグのような文化的知識が自然とついてくるのかというとあやしい。英語は英語文化圏の入り口というよりも、むしろ国際社会へのパスポートのように位置付けられがちだ。そうした意識を反映してか義務教育や資格試験ででてくる英語は文化をまとっているように感じられない。ひたすらコミュニケーションの道具であり、情報処理能力を測るための記号という感じだ。これが多言語学習のなかで感じる英語の物足りなさなのかもしれない。
5、言葉を学ぶことは、世界を再発見すること
言語を学ぶ理由は人それぞれであるべきだし、理由を強制するなんてちゃんちゃらおかしい。それでも、言語を学ぶことによって得られる文化的知識についてはもう少し広められてもいいのではないかと思う。世の中にはさまざまなものの見方があり、それはそれぞれの共同体のなかで綿々と継承されている。その外にいる人間がその生活様式を異文化と呼び、新たな視点を獲得し、世界を再発見するきっかけとなる。異なる言語を学ぶことは、新たな認識を自分に起こす端緒となりえるのだ。
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