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【バイト敬語】「よろしかったでしょうか」がイラッとくる理由 ―日本語の「た」の不思議

1、バイト敬語に潜む違和感

 「よろしかったでしょうか」と言われると、なぜか少しイラッとする。別に失礼な言葉ではないし、意味も通じる。「なんで過去形なんだよ」と言いたくなるが、「た」があるから常に不自然とも言い切れない。例えば、次の二つの文のうち、接客する者の言葉として自然なのはどちらか。

問1(レジで注文を確認する店員が)
・お飲み物はコーラでよろしいでしょうか。
・お飲み物はコーラでよろしかったでしょうか。

問2(クレームをつけてきた客に対して)
・大変申し訳ありません。
・大変申し訳ありませんでした。

問3(退店する客に対して)
・ありがとうございます。またお越しくださいませ。
・ありがとうございました。またお越しくださいませ。

 先述したように問1は「よろしいでしょうか」が適切。問2は文脈によって変わるが「申し訳ありませんでした」の方が丁寧に聞こえる。問3は「ありがとうございました」の方が自然だ。焦点は「た」があるかどうかだが、「過去のことだから「た」がある」とは一概に言えないところもある。今回は、この違和感の正体を「た」という形の役割から考えてみたい。接客の場面だけではなく、より広い視点で日本語について考えるきっかけとなれば幸いだ。


2、勝手に終わったことにされる「た」

 「よろしかったでしょうか」への違和感は、「今頼んでいるのに、なぜ過去の話をするのか」という点にある。注文を「過去のこと」として切り離しつつ、「~でしょうか」と確認を迫る態度は、「もう変更はできない」という一方的な宣告を暗に示しているように聞こえる。店員側がマニュアル通りに確認を済ませようとする不誠実さや、「コーラで間違いないだろう」という思い込みが透けて見えるのだ。店員は注文を「終わったこと」と捉え、客は「進行中のこと」と捉える。この認識のギャップを抱えたまま、形式だけ客に寄り添う問いかけをする不自然さが、苛立ちの原因かと思われる。

 同じ「た」でも「ありがとうございました。またお越しくださいませ」に問題がないのは、店員側も客側も「お店でのサービス」を体験し終わっているという認識を共有できているからだ。店員の「感謝する内容」が終わったことになっているから「た」が出ているわけで、例えば気のいい客が去り際に「この店、おいしいね」などと声をかけて出て行く場合、店員は「ありがとうございます。またお越しくださいませ」と答えるだろう。感謝の内容がたった今かけられた賛辞にあるからで、店員としてはその褒め言葉を「終わったこと」にはしてないからだ。

  謝罪の場面では、事態をどう捉えるかで「た」の有無が変わる。店内で「この料理に卵の殻が入っている」などと直接指摘された場合、「大変申し訳ありません」とするのが自然だ。問題が今まさに発生しており、まだ取り返しがつく「進行中の事態」という認識を共有しているからだ。一方、テイクアウトした人から電話で「商品が入っていない」と後から連絡を受けたような場合には、不手際がすでに起きてしまった事実であるため、「申し訳ありませんでした」と「た」を使っても違和感はない。客側も起きてしまったことに対しての謝罪や対応を求めており、認識のズレが生じていない。このように、事態が継続中か完了かという認識が、言葉の選択を左右する。

 スキャンダルの謝罪会見などで「この度は、大変申し訳ありませんでした」のような言葉を聞くと、「え、謝ればすべて終わると思ってない?」のように感じてしまい、個人的にはあまり誠実な言葉に聞こえない。もっとも、これについてはあまりに頻繁に耳にするため、表現がインフレして誠実さの価値が薄まっているというのもあると思う。ミスをした当人なら「申し訳ありません」と言うところを、その上司や責任者が謝罪するときは「申し訳ありませんでした」と「た」を用いることが多い。そこから「この件は自分とは切り離された事態だ、立場上は謝罪するしかないが、究極的には私に非はない」という心情を感じ取ってしまうのは私だけだろうか。

3、「た」は過去なのか

 高校の古文の時間で、「けり」は過去の助動詞であり、「けり=た」と習った。だから「た」は過去のことを示すという認識を漠然と抱きがちだが、客観的な時間軸上で、今起きていることよりも前のことを表すというよりも、話者の主観を土台とした現実の前にあるものを「た」で表現しているように思われる。コーラを頼んだのは、たとえそれが5秒前だろうが、客観的には過去と言えば過去だ。だけど客としては「今」のこととして認識し、店員は「過去」のこととして注文を処理しがちだ。人によって過去の幅が違う、とも言えるかもしれないが、そうなると客観的な時間軸では「た」の意味を捉えにくい。英語のような時制ではなく、「完了したこと」という一種の事態の見え方(アスペクト)を表すと考え直した方が「た」を上手く理解できる。事実、「決着」という意味で「けりをつける」という慣用句も日本語にはある。そもそも今より前にあることがすべて「過去」なのか。彼女と別れたのが昨日だろうが1年前だろうが、問答無用で「過去の女」になるわけではないだろう。上手く言い表せないが、それが過去になるためには一定の期間が必要みたいだ。

4、未来を意味する「た」?

 では、「た」は「終わったことを意味する」でいいのか。いや、それだけではこの「た」は説明しきれない。

・明日はテストだった!

 「た」が「終わったこと」を意味するのなら、「明日がテストであること」が「終わって」いなければならない。しかし、未来のことをどうやって終わったことにするのか、「明日はテストということになっている」のように未来完了的に解釈するのか。そんな理屈をこねくり回さなくても、私たちは普通にこのような言い方をする。「シドニーってオーストラリアの首都じゃなかったんだ」のように現在のことにも使えるし、「ずっと探してた昔の写真、こんなところにあった」のような言い方もある。「いや、お前が気づかなかっただけで、ずっと前からそこにあるだろ」みたいな神の如き視点からのツッコミが入ることもない。

 考えられる解釈はこうだ。「「た」は事態が話者の認識に入ったことを意味する」。つまり、大胆にまとめると、「た」は「その出来事を、自分の中で「既知のこと」として消化した感じ」を表しているのではないか、という仮説だ。明日がテストであることは、その学校の年間行事日程で定められてからずっとそうであるし、オーストラリアの首都は1913年から一貫してキャンベラだ。「明日がテストだと認識した」「シドニーはオーストラリアの首都ではないことを認識した」という意味でここでの「た」は使われている。「こんなところにあった」という言い方も「ある」ということが完了したのではなく、「こんなところにある」ことを認識として了解したと解釈するのが自然だろう。この「発見の「た」」は「終わったことにしてしまう」という意味を「自分の内で認識済みのものにしてしまう」という意味に拡張して考えることで説明できるかもしれない。

 さらに、この発見の意味での「た」は意外な事実や新たな気づきを伴うことが多い。「そうだったんだ」という言葉には、ちょっとした感動が含まれている。再び高校の古文の話になって恐縮だが、「た」と訳される「けり」には「過去」の他に「詠嘆」の意味もあると私たちは習う。「~なのだなあ」としみじみと感じ入ることだ。『大辞林』で「けり」を引いてみると、項目のひとつにこうある。

・ある事柄に初めて気が付いたことを詠嘆的に述べる。
「あさましう、犬などもかかる心あるものなりけりと笑はせ給う/枕草子九」
「ふるさととなりにし奈良の都にも色はかはらず花は咲きけり」/古今和歌集

大辞林

 まさに発見の「た」と呼応する用法である。「犬にもこんな心があったのだなあ」とか「都となった奈良でも花も色は変わらずに咲いているんだなあ」のように、発見というよりも少し感動的なニュアンスが滲むが、この語感は「た」にも受け継がれている。

5、命令の「た」

 「た」の用法でもうひとつ気になるのは、命令の意で使われる「た」だ。

・(道行く人に)どいたどいた!
・(行商人などが)さあ買った買った!
・(野次馬などに)さあ帰った帰った!

 これらは明らかに「どいてくれ」「買ってくれ」「帰ってくれ」と命令している。「た」がこのような意味になるのも興味深いが、この用法では述語を繰り返す傾向にあるのも特徴的だ。またこの用法は、目の前に固定された話し手ではなく、不特定多数の人間に対しての命令という印象だ。これまでの「た」の用法と一貫性を持たせるのは至難の業に見えるが、なぜ「た」がこのような意味を持つのか、なんとか考えてみたい。

 これらの表現を用いる話者は、「言葉の上で先に事態を完了させることで、その実現を相手に促している」と考えることができる。「どいたどいた」と言うことで、「どいている事態」が話者の頭のなかでは実現されていることを周囲に感じさせる。そのビジョンを感じ取った人がその事態を実現させようとして「どく」ということなのではないか。そういう意味では勝手に終わったことにする「よろしかったでしょうか」と同じ臭いがするが、発話の目的が事態の記述ではなく、事態の要請にあるわけで、叙述の方法が根本から違うといった具合だ。そうなると、この用法の話者はある程度周囲に影響を与える力をもった権力者でないと使いにくいということになる。「どけどけ」なら暴走族でも使うが、「どいたどいた」と言う人は、昔の大名行列の先頭にいる人のように権力を笠に着た人というイメージがある。ちなみに「人生終わったな(まだ終わったわけではない)」「勝ったな、風呂にでも入るか(まだ勝ったわけではない)」のように事態を頭のなかで完了させる用法は意外と一般的で、この用法が必ずしも特殊とも思われない。

6、「た」に残された謎

 日本語の「た」は「過去」の意味だと単純化されやすいが、日常的な表現を見ていくだけでも実に多彩な用法で溢れていて、なかなかその本質を見極めることができない。もちろん、「いくつかの用法がある」ということでおさめてもいいのだが、なんとかしてそこにある共通の意味、本質を成す意味があるのではないかと探ってしまう。「た」を見るたびに毎回場合分けして考えて理解するわけではないからだ。英語のinを見るたびに、「お、これは辞書Aの7番目の項目の意味だ」のように解釈する人がいないように、日本語でもなにかしら共通のニュアンスを無意識のうちに描いて文を解釈している。それを言語化しようとすると簡単に沼にはまってしまうところが言葉というもののおもしろいところなのかもしれない。

 最後に、日本語の「た」について不思議に感じる一節を紹介する。

 目が覚める。しばらくして目覚まし時計が鳴る。ラジオをつける。コーヒーを沸かす。コンピュータを起こす。顔を洗う。そして、わたしは昨日書いた詩を読み返した。と、ここまで書いて気がついた。初めの六つの文章を現在形で書いて、七つ目を過去形にした。七つ目の行為だけが過去に起こったからそうするのではない。時制を変えたことで、一連の動作の連なりを、七つ目の行為で一度とめて、そこにスポットライトを当てるのだ。
 目が覚めた。しばらくして目覚まし時計が鳴った。ラジオをつけた。コーヒーを沸かした。コンピュータを起こした。顔を洗った。そして、わたしは昨日書いた詩を読み返す。今度は時制を逆にしてみた。こう書いても内容は変わらない。七つ目でスポットライトが当たる感じも変わらない。ただ、ライトの色が違うだけだ。

多和田葉子『言語と歩く日記』

 二つの文章で違っているのは文末の表現だけ。しかし、現在と過去を逆転させるという、意味としては大胆な変化を加えているのに、「内容は変わらない」。文末を逆転させても、その行為が起きた時間や順序がまったく変わっていないという事実がとても不思議だ。なぜ、日本語ではこんな妙ちきりんなことが表現できるのか、この文を初めて読んだときから15年くらい経つが、いまだに引っかかっている。多和田氏は「時制」という言葉を使っているが、これがちょっとミスリードな気もする。この辺を追究すると専門的になりすぎてしまい、私の頭ではどうにもならなるのでやめておくが、この現象を素人なりにどう解釈すれば腑に落ちるか、また折に触れて考えられればと思う。



 最後までお読みいただき、ありがとうございました。今回はこのあたりで、よい一日を!

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