環がひらいた話
——刈り入れのあとの、最初の集まりで
刈り入れがすんで、堂に人が戻ってきた。夏のあいだは半分も埋まらない床が、この日は端まで埋まっていた。前のほうには小さいのが三人ほど座っていて、そのうちのひとりは、はじめて見る顔だった。
堂師さまは入ってくるなり、麦の束をひとつ、脇の床に置いた。誰かの供えものだったのだと思う。話が終わるまで、それはそこに置いてあった。
はじめに、環があった。今日の話は、そこから始まった。
環は満ちていた。光も、水も、いのちも、まだ環の内にあって、何ひとつ欠けていなかった。欠けていないのだから、失うこともない。減ることも、傷つくことも、誰かに取られることもない。
「欠けたところが、ひとつもないのですね」と堂師さまは言った。「わたしが今年、いちばん欲しかったものです」
小さい笑いが起きた。旱の年だったからである。堂師さまも笑っていた。
けれど、と堂師さまは続けた。
「閉じたままなら、失うものはない。だが、与えるものもない」
ここで少し黙って、それから水瓶の話をした。
冬に備えて、水瓶に蓋をする。埃も入らず、虫も湧かず、水は減らない。よいことだ。
「わたしは若いころ、それを一度、春まで開けませんでした」
堂が静かになった。
「減ってはいませんでした。ただ、飲めませんでした。……あの匂いをご存じの方は、この中にもおいででしょう」
何人かがうなずいた。
「減らなかった水が、飲めなくなる。あれは、何が起きたのでしょうね」
堂師さまはしばらく待った。誰も答えなかったので、自分で答えた。
「流れなかった。それだけのことなのです」
それから、井戸の話になった。よい井戸は、汲むほどよい水になる。汲まない井戸は、どれだけ深くても濁ってくる。村の者なら誰でも知っていることだ。
「しまっておくと良くなるものと、しまっておくと悪くなるものがあります。……教えが言っているのは、後のほうなのだと思います」
環は、完全であることを良しとしなかった。それで、自分から開いた。
欠けたのではない。壊れたのでもない。誰かに割られたのでもない。自分で開けた口である。教えはこれを、最初の利他と呼ぶ。
開いた口から、十一の流れがこぼれて、神々になった。最初にこぼれた光が、暁のエルーアさま。野に注いで、実りのオレーアさま。傷にふれて、癒しのミーリアさま。立ち止まって庇いとなったのが、守りのヴェリオールさま。——そして最後の流れは、いちばん遠くまで行って、いのちの果てる岸に立った。送りのソムニールさまである。
流れが分かたれたとき、飛沫も散った。神々より小さく、人より澄んだもの。御使いたちだ。
こうして環は、十一の流れと数えきれない飛沫を世に与えて、自分は開いたまま、静かに巡りつづけている。これが主神リュエーラさまである。
「環の名を唱えるとき、みな声が低くなりますね」と堂師さまは言った。「あれは、大きな名だからではないそうです。静かな名だからだ、と」
前のほうの、小さいのが手を挙げた。環はいつからあったのですか、と訊いた。
「教えは、それを言いません」と堂師さまは答えた。
え、と子が言った。
「はじまりを持つものは終わりを持つ。環はそのどちらも持たない——そう書いた写しがあります。問うた人に御使いは答えなかった、とだけ書いた写しもあります。どちらが本当かを、教団は決めておりません」
決めていないんですか、と子が言った。
「決めないことにしているのです。……決めないことが、もう答えなのだと、年寄りたちは申します」
堂師さまは少し笑った。
「わたしも、子どものころ同じことを訊きました。同じ答えをいただいて、納得しませんでした」
話は戻った。
分けると減る、と思う。当たり前だ。皿の豆は、半分やれば半分になる。それは正しい。教えは、そこに嘘をつかない。
「けれど、わたしたちはパン種を隣に分けますね」
分けます、と誰かが言った。
「分けて、減ったでしょうか」
減っていません、と同じ声が言った。
「減らないものも、あるのですね。……オレーアさまの穂の話を、ご存じの方はいらっしゃいますか」
はい、と何人かの声が重なった。
「大飢饉の年、あの方はご自分の穂をすべて分かたれました。翌年、分けられた種から倍の穂が立った。そう伝えられています」
堂師さまはそこで念を押した。分けたものが必ず倍になって返ってくる、という話ではない。そういう約束を、教えはしていない。ただ、閉じていたら起こりようのなかったことが、開いたから起きた。それだけである。
「閉じた環は完全であり、完全なものは与えられない。……これは聖典の言葉です。脅しではなくて、ただの道理の話なのです」
刈り入れのあとである。倉が満ちている家が、この床には何軒もあった。
「オレーアさまは、倉が満ちると機嫌が悪くなられるそうです」
笑いが起きた。今度は堂師さまも一緒に笑った。
「実りは分けるためにある、と言われます。ですから採れたものの一割を、知らない方の皿へ回します。あれは施しではないのだと思います。倉に蓋をしないための、ただの作法なのでしょう」
——そして、渡すときの手つきの話になった。
「借りに来た方に鍬を貸すとき、上から放って渡す方はおいででしょうか。おられませんね。手から手へ、お渡しになる」
高きから注ぐ水は、器を割る。同じ高さから注げ。教えはそう言う。与える者が上に立ったとき、それはもう与えることではない。渡しているようで、自分の高さを確かめているだけになる。
「……わたしは、一割を出して胸が反ったことがあります」
堂師さまは自分の胸を、軽く叩いてみせた。
「あのとき、倉の蓋は無くなってはいませんでした。ここに移っていただけなのです」
一割を出したとき、倉の蓋はたしかに開けたのだ。だが得意になったその瞬間に、蓋は胸のほうへ付け替わっていた——そういう話なのだと受け止めた。
堂の外で、荷車の音がしていた。
堂師さまは床を見渡して言った。今日ここには、今年よかった家と、悪かった家が並んで座っている。片方は倉が満ち、片方は数えるほどしかない。同じ雨が降った年に、である。
「環から注ぐ雨は、祈った畑と祈らぬ畑を分けない」
よく祈った人の畑にだけ多く降る、ということはない。雨はそういうふうに降る。
「では、なぜ祈るのでしょうね」
堂師さまはしばらく待って、それから自分で答えた。
「贈りものとして受け取れる畑に、なるためなのだと思います」
同じ雨に当たって、片方は当たり前だと思い、片方は贈りものだと思う。畑の土が違うのではない。受け取る側が違うのである。
もうひとつ、と堂師さまは言った。今度は逆の側の話である。
「もらうのは気が引ける、という方がおられますね。うちは今年よかったので、要りません、と」
何人かが下を向いた。
「受け取ることも、務めである。……これも聖典の言葉です。受け手のいない流れは、行き場を失います。断るのは遠慮ではなくて、よその方の『与える』を、こちらから塞いでいることになるのでしょう」
与える者と受ける者は、上と下ではない。同じ流れの、上流と下流にすぎない。今年の上流は、来年の下流である。
「わたしは長いこと、断る側でした。そのほうが行儀がよいと思っておりました。……上流に立っている者ほど、そこに長く立てると思いこむのです。わたしたちは、そう素直ではありませんから」
堂師さまはそれ以上、自分の話をしなかった。
「祈りの終わりに、環は開いている、応えて、流れは、巡る、と唱えますね。あれは、そのためなのです」
あれは願いごとの締めくくりではない。祈りが求めて終わらず、流れ出して終わることの、宣言である。
「独りで祈るときは、結句のあとに掌を開くのだと教わりました。応える方がいなくても、環の口をふさがないように。……わたしも、そうしております」
堂師さまは自分の掌を開いてみせた。前のほうの子が、まねをして掌を開いた。
それから、脇に置いてあった麦の束を持ち上げて、こう締めた。
「刈り入れのすんだ畑を、思い出してみましょう。あれは、空になったのではない。開いたのです」