コンテンツにスキップ

八田宗綱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
八田宗綱
時代 平安時代末期
生誕 応徳3年(1086年)
死没 平治元年(1159年)8月20日[1]または応保2年8月20日(1162年9月30日)
別名 宇都宮宗綱、中原宗綱
氏族 藤原氏、八田氏
父母 実父:藤原兼仲(異説あり)、母:益子正隆娘
養父:藤原宗円(異説あり)     
兄弟 宗綱、中原宗房(異説あり)
妻 平棟幹(多気致幹)娘
子 宇都宮朝綱、八田知家(異説あり)、寒河尼
特記
事項
宗綱が「宇都宮」を称したかについては異論もある。
テンプレートを表示

八田 宗綱(はった むねつな)は、平安時代後期の人物。父は藤原兼仲、母は益子正隆の女。養父に藤原宗円。宇都宮氏2代当主。

生涯

[編集]

八田権守(はったごんのかみ)を称した。宇都宮宗綱、中原宗綱とも呼ばれる(ただし、後述のように宗綱が「宇都宮」を称した事実は確認できない)。藤原兼房の子兼仲の子[2]で、母が身篭って間もなく、兼仲が応徳2年(1085年)に没すると、母は、その弟(または兄)である宗円の妻となり、生まれた宗綱が、その家督を継ぐ。一説に中原宗家の子とする説もあるものの、宗家の方が宗綱より後の時代(12世紀後半)の人物であるため成立しない(ただし、宗綱の弟される宗房は中原氏を称しており、中原氏と宇都宮氏が何らかの親族関係にあった可能性は高い)[3]。一方で、宗円と宗綱を系譜上に結びつけたのは後世(宇都宮朝綱以降の宇都宮氏による)の系譜の創作ではないかとする見方もある[4][5]。

また、宗綱は八田(常陸国、現在の茨城県筑西市八田)を政治基盤としていたといわれる。これは、宗綱自身が八田を称していたことはもとより、諸氏系図で父・宗円が益子の豪族である益子正隆の娘を室としていることや、宗綱自身が常陸国大掾の平棟幹(多気致幹)の娘を室としていること、小田氏始祖となる次男の知家も八田を号されていること、嫡男の朝綱の母が八田局と号されていることなどが背景にある。この場合、宗円と宗綱は八田の政治基盤を背景に、真岡の芳賀氏を傘下に加えながら毛野川(鬼怒川・田川)沿いに宇都宮に入り、宇都宮氏の基盤を整えたとされる。また、八田は常陸府中(現在の茨城県石岡市)から筑波山麓を経て宇都宮方面に至る道沿いにあった[4]。

反面、宗綱が常陸平氏の娘婿になって常陸国八田に本拠を置いたのは確実であるが、一方で宇都宮氏の系図にさえ彼が「宇都宮」を称したとは記していない。このため、八田宗綱と宇都宮と関わりがあったとするのは困難であり、八田氏(宇都宮氏)は朝綱の代になって初めて常陸から宇都宮に進出したのではないかとすると考える説もある(宗円と宗綱を系譜上に結びつけたのは宇都宮氏であるとする説は、朝綱以降の宇都宮氏が宇都宮支配の正当性を過去に遡らせるための作為であるという考え方による)。ただし、宗綱の八田での活動が朝綱の宇都宮進出の前提として存在することは認めている[4]。

応保2年(1162年)8月20日、77歳で没する。

娘の寒河尼は源頼朝の乳母を務め、小山政光の後妻となって結城氏の祖となる朝光を生んでいる。

脚注

[編集]
  1. ↑ 宇都宮系図別本
  2. ↑ 「明応古縁起」「輪王寺 常行堂大過去帳」など
  3. ↑ 野口実「下野宇都宮氏の成立とその平家政権下における存在形態」『東国武士と京都』同成社〈同成社中世史選書〉、2015年。ISBN 978-4-88621-711-0。
  4. 1 2 3 高橋修「八田知家と阿野全成事件」『常陸中世史研究』第11号、2023年。/所収:高橋修 編『常陸小田氏』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第四〇巻〉、2025年8月、49-59頁。ISBN 978-4-86403-588-0。
  5. ↑ 高橋修「総論 八田氏の成立と小田一族の展開」『常陸小田氏』戎光祥出版〈中世関東武士の研究 第四〇巻〉、2025年8月、15頁。ISBN 978-4-86403-588-0。

関連項目

[編集]