前田玄以
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前田玄以像(蟠桃院蔵) | |
| 時代 | 戦国時代 - 安土桃山時代 |
| 生誕 | 天文8年(1539年)[1] |
| 死没 | 慶長7年5月7日(1602年6月26日)[1] |
| 改名 | 基勝、玄以(法名) |
| 別名 | 孫十郎(通称)、半夢斎、徳善院(号) |
| 戒名 | 徳善院殿天涼以公大居士 |
| 墓所 | 京都府京都市右京区花園の妙心寺 |
| 官位 | 民部卿法印 |
| 主君 | 織田信長→信忠→信雄→豊臣秀吉→秀頼 |
| 藩 | 丹波亀山藩主 |
| 氏族 | 前田氏 |
| 父母 | 父:前田基光、母:不詳 |
| 妻 | 正室:村井貞勝の娘 |
| 子 | 秀以、三条西実条正室、長松院、石川忠総継室、一瀬仁左衛門室、正勝、茂勝、稲葉貞通継々室 |

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の一人。徳禅院玄以(とくぜんいんげんい)とも。
生涯
[編集]天文8年(1539年)、美濃国に生まれた。『寛政重修諸家譜』によると前田氏は、加賀藩主前田氏と同じく菅原氏の一族として収録されているが、藤原利仁の末裔にして斎藤氏支流の季基が美濃国安八郡前田に住んで、前田氏を称したと伝わり、加賀前田家とは別流であるともされる。ただし、玄以自身が「前田」と称したことを示す史料は存在せず、単に「玄以」と呼称する研究者もいる[2]。
若い頃は美濃の僧で、禅僧あるいは比叡山の僧とも伝えられている(『藩翰譜』)[3]。また尾張小松原寺の住職であったともされる(『武功雑記』)[注釈 1]。
後に織田信長に招聘されて臣下に加わり、信長の命令でその嫡男・織田信忠付の家臣となった[4][注釈 2]。
天正7年(1579年)、信長の意を受けた信忠の命で柘植与一、赤座永兼とともに文書偽造や妻子の安土移住の拒否をした井戸将元を誅殺した[5]。
天正10年(1582年)6月、本能寺の変に際しては、信忠と共に二条新御所にあったが、信忠の命で逃れ、嫡男の三法師を美濃国岐阜城から尾張国清洲城に移した[6]。
天正11年(1583年)、信長の次男の信雄に仕え、信雄から京都所司代に任じられた[7]。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉の勢力が京都に伸張すると、秀吉の家臣として仕えるようになった。
天正17年(1589年)、鞍馬寺で発生した相論の際に玄以と浅野長政・増田長盛が情報の共有のないまま、それぞれ対立する当事者の勝訴とする裁許を出してしまったために事態が紛糾し、互いを訴える事態となる。羽柴秀長の仲裁を経ても解決せず、最終的に秀吉の判断で玄以の判断が正しいとされたが、これに嫌気をさした玄以は所司代の辞意を示し、慰留されている。ただし、実際には洛中の地子銭を不当に徴収していたからだとする噂が流れていたという[8]。
文禄4年(1595年)、秀吉より5万石を与えられて、丹波亀山城主となった。
豊臣政権においては京都所司代として朝廷との交渉役を務め、天正16年(1588年)の後陽成天皇の聚楽第行幸では奉行として活躍している。また寺社の管理や洛中洛外の民政も任され、キリシタンを弾圧したが、後年にはキリスト教に理解を示し融和政策も採っている。慶長3年(1598年)、秀吉の命令で豊臣政権下の五奉行の一人に任じられた。
蒲生氏郷が病の際に、秀吉は9名の番医による輪番診療を命じた。この仕組みの運営は玄以邸で出されている。玄以が検使として立ち合っており、診療経過は逐一、秀吉に報告された[9]。
秀吉没後は豊臣政権下の内部抗争の沈静化に尽力し、徳川家康の会津征伐に反対した。
慶長5年(1600年)、石田三成が大坂で挙兵した際は、三成の挙兵に関わらなかった、とする説があるが[10]、全く三成に協力しなかったというわけではなく、家康弾劾状の副状の責任者となっている[11]。ただし、豊臣秀頼がいる大坂城の留守を預かった増田長盛と同じ立場であったが、長盛のように大坂城内にありながら徳川方に内通しているようなことはなく、長束正家のように石田・毛利方として軍事行動をすることもなく、秀頼の警護を大義として、豊臣家として中立の立場でいたとされる[11]。これらの行動が評価されたらしく、関ヶ原の戦いの後の10月16日、丹波亀山5万石の本領を安堵され、初代藩主となった。
慶長7年(1602年)5月7日、死去した[1]。
人物・逸話
[編集]織田信長・豊臣秀吉配下の中では、ある程度ではあるが、京都の公家・諸寺社との繋がりを持つ数少ない人物と見なされ、このような要素にも所司代起用の理由があった[12]。
かつて僧侶だった関係から当初キリシタンには弾圧を行っていたが、後年には理解を示し、秀吉がバテレン追放令を出した後の文禄2年(1593年)、秘密裏に京都でキリシタンを保護している。またポルトガルのインド総督ともキリシタン関係で交渉したことがあったとされる。ちなみに息子2人はキリシタンになっている。また僧侶出身のため、仏僧の不行状を目撃することが多かったらしく、彼らを強く非難している(『フロイス日本史』第69章)。
呼称
[編集]玄以は当時「民部卿法印」あるいは「徳善院僧正」と呼ばれていた。
若い頃は「孫十郎基勝」と称したと伝えられているが(『寛政譜』)、実否は不明である。通称は「半夢斎」を称していたが、天正12年(1584年)2月以降に民部卿法印と称するようになる。ただし、同月付で「策勝軒」と称した禁制が1通存在する[2]。
徳善院僧正という呼称は文禄5年(1596年)5月に後陽成天皇から勅許をもらって名乗ったものであり、これは豊臣秀頼の初上洛、初参内、伏見城惣礼(豊臣秀吉から秀頼への代替わり)をアピールする一環であったと考えられる。改名前の文禄4年(1595年)8月3日付の連書状(起請文)に「徳善院僧正」という署名があるが、これは改名後に右筆が他の人物とまとめて署名したものであり、秀頼の誕生日(8月3日)[注釈 3]に起請文を提出したという事実を作るために遡って作成されたものである[14]。
系譜
[編集]関連作品
[編集]- 映画
- 『殉教血史 日本二十六聖人』(1931年、日活、監督:池田富保、演:市川小文治) 役名は「前田玄意法師」
- 『忍者秘帖 梟の城』(1963年、東映、監督:工藤栄一、演:菅貫太郎)
- 『お吟さま』(1978年、東宝、監督:熊井啓、演:伴勇太郎)
- 『利休』(1989年、松竹、監督:勅使河原宏、演:久保晶)
- 『千利休 本覺坊遺文』(1989年、東宝、監督:熊井啓、演:長塚美登)
- 『梟の城 owl's castle』(1999年、東宝、監督:篠田正浩、演:津村鷹志)
- 『茶々 天涯の貴妃』(2007年、東映、監督:橋本一、演:高橋長英)
- 『清須会議』(2013年、東宝、監督:三谷幸喜、演:でんでん)
- 『関ヶ原』(2017年、東宝、監督:原田眞人、演:川中健次郎)
- テレビドラマ
- 『大坂城の女』(1970年、フジテレビ、演:森山周一郎)
- 『春の坂道』(1971年、NHK大河ドラマ、演:森幹太)
- 『関ヶ原』(1981年、TBS、演:庄司永建)
- 『おんな太閤記』(1981年、NHK大河ドラマ、演:山本武)
- 『徳川家康』(1983年、NHK大河ドラマ、演:福山象三)
- 『真田太平記』(1985年-1986年、NHK新大型時代劇、演:小笠原良智)
- 『独眼竜政宗』(1987年、NHK大河ドラマ、演:湯浅実)
- 『葵 徳川三代』(2000年、NHK大河ドラマ、演:神山寛)
- 『利家とまつ〜加賀百万石物語〜』(2002年、NHK大河ドラマ、演:きくちとめお)
- 『天地人』(2009年、NHK大河ドラマ、演:梁瀬龍洋)
- 『石川五右衛門』(2016年、テレビ東京、榎木孝明)
- 『どうする家康』(2023年、NHK大河ドラマ、演:村杉蝉之介) 役名は「徳善院玄以」
- 漫画
脚注
[編集]注釈
[編集]- ↑ いつごろ小松寺の住職になったかは明らかでない。一説に織豊期に住職を務めた中でも没年不詳である第6世慶意が玄以ではないかという。先代の5世住職・及慶は、少なくとも天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いで小松寺が戦焼失した際には在職の身であり、当時「大檀那」であった玄以の助力を得て寺の再建に尽力している。もし慶意が玄以であるとしたら、住職就任はこれ以降のこととなる。
- ↑ 『信長公記』における初出は天正7年(1579年)である。
- ↑ 折しも秀次事件の最中であり、秀吉はこの日に起請文が作成されることに拘っていた。矢部は別の論文も領国である越後にいたために8月3日までに上洛することができなかった上杉景勝を抜きにして御掟が作成されたことを論じている[13]。
出典
[編集]- 1 2 3 谷 2016.
- 1 2 谷徹也「豊臣氏奉行発給文書考」『古文書研究』第82号、2016年。/所収:谷徹也『豊臣政権の統治構造』名古屋大学出版会、2025年2月、54-55頁。ISBN 978-4-8158-1181-5。
- ↑ 遠藤 2013, pp. 58–59.
- ↑ 遠藤 2013, p. 58.
- ↑ 『現代語訳 信長公記』新人物文庫、356頁。
- ↑ 高柳光寿『戦国戦記 本能寺の変・山崎の戦』春秋社、1958年。
- ↑ 遠藤 2013, p. 56.
- ↑ 谷徹也「豊臣政権の訴訟対応」『史林』第98巻第2号、2015年。/所収:谷徹也『豊臣政権の統治構造』名古屋大学出版会、2025年2月、123-130頁。ISBN 978-4-8158-1181-5。
- ↑ 宮本義己「豊臣政権の医療体制―施薬院全宗の医学行跡を中心として―」『帝京史学』2号、1986年。
- ↑ 桑田忠親『太閤家臣団』(新人物往来社、1971年)
- 1 2 宮本義己「生に固執した男たち」(『歴史群像シリーズ〔戦国〕セレクション 決戦 関ヶ原』2000年)
- ↑ 遠藤 2013, p. 66.
- ↑ 矢部健太郎「豊臣政権と上杉家」福原圭一・前嶋敏 編『上杉謙信』高志書院、2017年、P283.
- ↑ 矢部健太郎著「前田玄以の呼称と血判起請文―「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ―」、山本博文、堀新、曽根勇二編『豊臣政権の正体』(柏書房、2014年)
参考文献
[編集]- 水野録治郎「前田玄以と小松寺」『郷土文化』8巻3号、名古屋郷土文化会、1953年。
- 遠藤珠紀 著「消えた前田玄以」、山本博文; 堀新; 曽根勇二 編『偽りの秀吉像を打ち壊す』柏書房、2013年。
- 矢部健太郎 著「前田玄以の呼称と血判起請文―「民部卿法印」から「徳善院僧正」へ―」、山本博文; 堀新; 曽根勇二 編『豊臣政権の正体』柏書房、2014年。