コンテンツにスキップ

源融

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
源 融
源融(菊池容斎『前賢故実』)
時代 平安時代初期 - 前期
生誕 弘仁13年(822年)
死没 寛平7年8月25日(895年9月17日)
別名 河原左大臣
官位 従一位、左大臣、贈正一位
主君 仁明天皇→文徳天皇→清和天皇→陽成天皇→光孝天皇→宇多天皇
氏族 嵯峨源氏融流
父母 父:嵯峨天皇、母:大原全子
兄弟 嵯峨天皇#系譜参照
妻 藤原総継の娘
子 湛、泊、昇、望、副
テンプレートを表示
源 融
小倉百人一首第14番・河原左大臣
「陸奥の しのぶもぢずり 誰故に 乱れそめにし われならなくに」

源 融(みなもと の とおる)は、平安時代初期から前期にかけての貴族。嵯峨天皇の第十二皇子[1](嵯峨第十二源氏)、または第八皇子[2]。嵯峨源氏融流初代。河原院・河原大臣と呼ばれた[3]。

経歴

[編集]

仁明朝の承和5年(838年)元服して源朝臣姓を与えられ、仁明天皇の養子として正四位下に直叙。翌承和6年(839年)侍従に任官した。仁明朝末の承和15年(848年)右近衛中将に任ぜられると、嘉祥3年(850年)正月に従三位に叙せられ、29歳で公卿に列す。文徳天皇の即位後の同年5月に右衛門督に任ぜられて引き続き武官を務め、斉衡3年(856年)参議に昇った。

清和朝に入っても、天安4年(859年)正三位、貞観6年(864年)中納言と順調に昇進する。同年3月から貞観11年(869年)1月までは陸奥出羽按察使も兼任した。この頃、異母兄の左大臣・源信と大納言・伴善男が不和の状況にあったが、同年冬には源信が融・勤兄弟と反逆を謀っているとの投げ文があり、騒ぎになったという[4]。その後、貞観8年(866年)応天門の変が発生して、伴善男は失脚、源信は籠居して出仕を取り止めてしまい、結局貞観10年(868年)に源信も事故死してしまった。加えて、この間の貞観9年(867年)には右大臣・藤原良相や大納言・平高棟といった大官が相次いで没したこともあって融は急速に昇進する。貞観12年(870年)大納言に昇ると、貞観14年(872年)には太政大臣・藤原良房の薨去に伴い、融は左大臣に任ぜられて太政官の首班に立った[3]。良房によって融は太政官の筆頭に祭り上げられ、その遺命により東宮傅を兼ねたが、実際の政治は右大臣・藤原基経が執った[5]。

このような傀儡の立場を憂い政治への情熱が失せてしまったらしく[6]、貞観18年(876年)自ら東宮傅として仕えた貞明親王(陽成天皇)が即位し、藤原基経が天皇の外戚として摂政に任じられたことをきっかけに、融は自宅に引籠もった[7]。

元慶8年(884年)陽成天皇の譲位によって皇嗣を巡る論争が起きた際に「いかがは。近き皇胤をたづねば、融らもはべるは」(自分も皇胤の一人なのだから、候補に入る)と主張したが、源氏に下った後に即位した例はないとして、基経に退けられたという逸話がある(『大鏡』)[8][3]。しかし当時、融は私籠中であり、史実であるかどうかは不明である。なお、光孝天皇が即位すると融は政務に復帰した。その後、光孝天皇が崩御すると、天皇の子は全て臣籍に降下して源氏となっていたが、基経は源氏に下っていた源定省を皇籍に復帰させて即位させている(宇多天皇)[9]。なお、『大鏡』の逸話は宇多天皇即位時の逸話を後に摂関家発展のきっかけとなる光孝天皇即位時の逸話に付け替えたのではないかとする考えもある(安田政彦)[注釈 1][10]。

仁和3年(887年)宇多天皇の践祚に伴って阿衡事件が発生し、藤原基経が政務をボイコットしてしまうと、融は天皇の命令を受けて基経の説得に当たるが、奏功しなかった[11]。翌仁和4年(888年)基経の政務放棄を憂慮した融は、明経博士・善淵愛成ら学者たちに対して「阿衡」の職掌の有無を諮問したが、典職(定まった職掌)なし、との解釈となった[12]。その後も基経は阿衡の問題が解決しなければ政務に復帰できないと回答があったため、やむなく融は勅を改めるべきと天皇に進言し、勅が取り消された[13]。この間の仁和3年(887年)11月に融は従一位に叙されている[3]。寛平3年(891年)関白太政大臣・藤原基経が没し、融は再び太政官の首班に立った。

寛平7年(895年)8月25日薨去[3]。享年74。最終官位は左大臣従一位。没後正一位の贈位を受けた[3]。

人物

[編集]

紫式部『源氏物語』の主人公光源氏の実在モデルの有力候補といわれる。

源融河原院址碑

陸奥出羽按察使を任官した融が京都の六条河原院(現在の渉成園)に塩竈[注釈 2]の風景を模した庭園を造らせたという故事は、伊勢物語などの文学にも登場し、世阿弥作の能「融」の元にもなった。能「融」では、陸奥の塩竈のことを耳にした融が難波津の浦(大阪湾)から毎日海水を汲んで京まで運ばせ、塩を焼かせたとされる。古くから塩竈では塩づくり(藻塩焼き)が行われており、ここでは融がそれを再現しようとした様子が描かれている。『古今和歌集』に収録されている紀貫之の「きみまさで煙たえにし塩がまのうらさびしくもみえわたるかな」は、融の死後、塩を焼く煙が絶えてしまったことを歌ったものである。

融の邸宅のあった辺りは現在の京都市下京区本塩竈町および塩竈町周辺であるとされ、付近には「塩竈山(えんそうざん)」の山号を持つ上徳寺がある。また融の死後、河原院は息子の昇が相続、さらに宇多上皇に献上されており、上皇の滞在中に融の亡霊が現れたという伝説が『今昔物語集』『江談抄』等に見える[3]。嵯峨にあった別邸の栖霞観の故地は今日の嵯峨釈迦堂清凉寺である。また、宇治に営んだ別邸の地はのちに平等院となった。

勅撰歌人として、『古今和歌集』『後撰和歌集』に各2首ずつの和歌作品が採録されている[3][14]。小倉百人一首では河原左大臣の名で知られる。

大江匡房の『本朝神仙伝』には河原院大臣侍の名で、仙人になりそこねた人物として収録されている[15]。仙道を学んでいるという近習に「自分はもうすぐ仙人なれるが、融には仙骨があるので一緒に仙境へ行こう」と誘われるが、妻子に断ってから行くと返答したところ、妻子に愛情をかけるようではとても仙道は達成できない、と見限られる物語となっている。

源融と塩竈の関連

[編集]

貞観6年(864年)陸奥出羽按察使に任官された融が国府多賀城に赴任し、塩竈で暮らしたという伝説が、宮城県塩竈市を中心に根強く残っており、塩竈市泉ヶ岡(塩釜高校周辺)はかつて源融が邸宅を構えたという言い伝えから「融ヶ岡」とも呼ばれている。

融が多賀城国府に自ら赴任したとする伝承について、当時の上層貴族が地方官に任官された場合には、代理の者を現地に派遣する遙任が通例であったことに加え、要職である中納言との兼任であることや、天皇の息子である融自身が地方へ赴任するというのは考えにくいことからも、実際は遙任であったと考えるのが妥当とされる(斎藤善之)。

いずれにせよ、融は塩竈および周辺地域にゆかりのある人物であり、塩竈市本町のまちかど博物館(旧ゑびや旅館)には融の像が展示されているほか、多賀城市の浮島神社の境内には、融を「贈正一位源朝臣融卿」として祀る大臣宮神社(おとどのみやじんじゃ)が存在する。また、塩竈市の菓子店「梅花堂」では、融にちなんだ商品「黒きなこクッキー融(ゆう)」を販売している。

源融を祀る神社仏閣

[編集]

融を祀る神社として、滋賀県大津市に鎮座する融神社のほか、兵庫県尼崎市に鎮座する琴浦神社、宮城県多賀城市に鎮座する浮島神社境内社の大臣宮神社(おとどのみやじんじゃ)、京都府京都市に鎮座する錦天満宮境内社の塩竈神社などがある。

また、大阪府大阪市北区太融寺町には源融に縁がある太融寺がある。

官歴

[編集]

『六国史』による。

系譜

[編集]

『尊卑分脈』による。

昇の子孫は地方に下って武家となり、渡辺氏・松浦氏・蒲池氏などの子孫を伝えている。詳細は嵯峨源氏を参照。

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ↑ 安田政彦によれば、奈良時代から平安時代初頭にかけて政争によって親王や孫王でさえ粛清の対象になる中で皇位継承の候補者が少なくなることがあり、当時の臣籍降下者は皇位継承権を完全には失ってはいなかったと思われる(過去にも氷上塩焼や文室大市のように皇位継承の候補者となった臣籍降下者がいる)。源融は天皇の実子ということで「近き皇胤」には間違いないものの母親の出自の低さから臣籍降下した経緯があり、光孝天皇即位時には他にも本康親王や惟恒親王などの有力候補者が存在する中で皇位継承に名乗り出たとは考えられず、一旦臣籍降下をした源定省(宇多天皇)を皇籍に復帰させて即位させようとした際に異論を唱えたのではないかとしている。ただし、仮に源融が即位しても後見となる有力者が存在しないこと、源定省の場合は母親の班子女王も二世王族であるため当時の宮廷の認識では本来ならば臣籍降下の対象にはならないことから、その立場に大きな違いがあったとする。更に、天皇と外戚関係を築きたい藤原基経の立場からすれば、若い天皇に自分の娘を入内させる、という観点から源融は考慮に値しないと考えていたと思われる。
  2. ↑ 当時の「塩竈」は現在の松島湾一帯を指し、「塩竈の浦」「千賀の浦」「籬(まがき)の島」など、当地を歌枕とした和歌が多く存在することからも、都人憧れの地であったことがわかる。

出典

[編集]
  1. ↑ …棲霞寺は嵯峨天皇の第12皇子、左大臣源融(とおる)(822―895)…|清涼寺 コトバンク
  2. ↑ 『続日本後紀』承和5年11月27日条
  3. 1 2 3 4 5 6 7 8 日本古典文学大辞典編集委員会『日本古典文学大辞典第5巻』岩波書店、1984年12月、630頁。
  4. ↑ 『日本三代実録』貞観10年閏12月28日条
  5. ↑ 瀧浪貞子 2017, p. 282.
  6. ↑ 瀧浪貞子 2017, p. 283.
  7. ↑ 『日本三代実録』元慶8年6月10日条,『中右記』
  8. ↑ 『大鏡』太政大臣基経伝
  9. ↑ 『日本三代実録』仁和3年8月25日,26日条
  10. ↑ 安田政彦「皇位継承と皇親賜姓」『古代文化』第53巻第3号、2001年3月/所収:安田政彦『平安時代の親王と政治秩序-処遇と婚姻-』吉川弘文館、2024年11月 ISBN 978-4-642-04684-8 P74-86.
  11. ↑ 瀧浪貞子 2017, p. 336.
  12. ↑ 瀧浪貞子 2017, p. 337.
  13. ↑ 瀧浪貞子 2017, p. 338.
  14. ↑ 『勅撰作者部類』[要文献特定詳細情報]
  15. ↑ 吉元昭治 『不老長寿への旅:ニッポン神仙伝』 集英社 1998 ISBN 4-08-781139-5 pp.124-125.
  16. 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 『公卿補任』

参考文献

[編集]
  • 瀧浪貞子『藤原良房・基経 藤氏のはじめて摂政・関白したまう』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2017年。ISBN 9784623079407。 
  • 森田悌『続日本後紀』(上下巻)、講談社〈講談社学術文庫〉、2010年
  • 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録』(上下巻)、戎光祥出版、2009年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『尊卑分脈 第三篇』吉川弘文館、1987年

関連項目

[編集]