⚪️掌編小説|蜜柑堂書店 第二十五話
第二十四話からの続き
お得意様への配送実務を手伝うようになった。
とはいえ、ほとんどのお得意様が「蜜柑さんでないとダメ」という人たちなので、ぼくに担当できるのはほんの僅かだ。
一週間に一度か二度、何軒かを車で回って本をお届けに上がる。たったそれだけのことだけれど、仕事の幅が広がるのは嬉しい。
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ぼくが担当するのは初見のお客さんや、あくまで健全な顧客であって、不埒な目的で蜜柑さんを御指名する邪悪な連中とは大違いだ。
退官した大学の先生とか、とんでもなく大きな屋敷に住んでいる快活な老人とか。若い妻がいる若い医師などはむしろぼくが来てくれて喜んでいる。
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車はシルバーのカローラで、これはいわゆる社用車というやつだ。色気も何もない。蜜柑さんはプライベートではどんな車に、いやそもそも蜜柑さんはどんな運転をするのだろう?
急に割り込んでくる危険な車にキレて怒鳴ったりするのだろうか。いや。そういう人じゃない。「もー」とか言って少しプリプリしたりするのだろう。
か、可愛い。
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カローラはマンションの地下駐車場に置いてある。
梱包した本を台車に乗せて地下まで運ぶか、マンションの車寄せまで車を持ってくるか。本は車寄せで積み込むほうが楽だけれど、その場合、マンションの周りをぐるっと車で回って来なければならない。他方、地下駐車場で積み込む場合は台車の移動距離が長い。
蜜柑さんが行くときは車寄せまで来てもらって、ぼくは本を積み込むのを手伝う。ぼくが行くときは台車で地下まで行く。なんとなくそうしている。
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九月の最初の週だった。ぼくがいつものように地下駐車場に行くと、どこかで鈴虫が鳴いていた。
リリリリリ、リリリリリリ、リリリリリリ……
最初は何かの警告音か、アラームかと思った。けど、それにしては不規則で、ずっと鳴り止まない。
リリリ、リリリリリ、リリリリリ……
録音してマイエーアイに訊ねると「鈴虫だね」と言う。そうか。鈴虫か。
蜜柑さんに訊ねても、先週あたりからずっと鳴いていると言う。「どこかから迷い込んだのね」
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コンクリートに囲まれた場所で、どうやって生きているのだろう。生命の維持に必要な最低限の水と、ゴミや虫の死骸からタンパク質などを摂取しているのだろう。それにしたって──
どれだけ呼ぼうが仲間は来ない。求愛する相手もいない。お前は孤独を知らないのか。休まず、鳴き止まず、もとより冬を越える生命じゃない。にも関わらず、何日も、何日も。
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もしぼくが誰もいない砂漠だとかジャングルだとか、とにかくどんなに叫んでも誰にも届かない場所に取り残されたとしたら、それでもこうして叫び続けるのだろうか。
鈴虫は朝も昼も夕方も休まず十日ほど鳴き続け、そして二週間が過ぎる頃、遂に鳴くことをやめてしまった。
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あるいは地下駐車場から脱出できたのかもしれない。非常階段からか、エレベーターに乗ったのかもしれない。そして中庭の楓の木の下かどこかに安住の地を見つけたのだ。
だが、いずれにせよ彼が春を見ることはない。だから願わくば、せめて良き伴侶と出会い、あの地下駐車場の孤独を忘れるほどに、濃密な時を過ごして欲しいものだ。せめてもの春に。
(第二十六話に続く)
*見出し画像は@羽さんの作品です
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