大ピンチ展というピンチ:天国とアジールの交差展
1.言葉にならない居心地の悪さ
昨日、大ピンチ展を京都高島屋に見に行ってきました。
激混み。
まあそれは良しとしよう。
あらゆるテーマパークが抱える問題。
話は2つできると思っていて。
体験型の展覧会というエンタメ展示について。
待つということについて。
別に答えが欲しいわけでも批評をしたいわけでもなく。
自分のために言葉を外に出しておきたいだけ。
前提として居心地が悪かったのでそんな言葉になることはわかっています。
単純に混みすぎ。
そしてそもそも大ピンチ図鑑という絵本もそんなに好きじゃなかったんだろうなってことがわかったのですが。
それは趣味の問題なので良くて。
鈴木のりたけという人がたぶん根っからサービス精神旺盛なエンターテイナーなんだろうな。
人見知りなわたしの心根が拒否反応ってだけだから。
絵本がエンタメとして面白いのは間違いない。
そう、展示も面白いのは間違いない。
子どもたちは楽しんでましたから。
楽しいです。
そこは揺るがず、他の話を。
入口は大ピンチ展ですが、したいのは他の話です。
出口はきっと特にないです。
それで良ければお付き合いください。
2.テーマパーク?大型室内公園?
というわけで、体験型展示について。
いや、テーマパークなんですよ。
大ピンチというテーマで遊具を作りましたってこと。
なのでディズニーランドとかUSJと本質は一緒です。
他との比較で見えてくるものがありそう。
大型室内公園というのがあるじゃないですか。
ボールプールがあったりエア滑り台があったり。
規模感としてはこれと同じです。
でも大型室内公園って混んでいても居心地悪くならない。
何が違うんだろう。
時間制限と行列はあとに回すとして。
逃げ場所かな。
ベンチ?
だから展示ではないんですよね。
3.なぜ『作品』がないと、逃げ場がなくなるのか
以前、『大どろぼうの家』についての記事を書きました。
こちらは正しく美術館でした。
展示をしていました。
そこに大どろぼうというテーマを載せていました。
そういえばベンチもあった。
まあ混んではいませんでしたが。
混む要素も少ないかな。
ヨシタケシンスケさんの絵本を扱っていたけれど。
そして同じ高島屋でやっていて絵本も手掛けているクリエイターの展示。
『田中達也展 みたてのくみたて』。
作品の展示と、それがどんな発想から組み立てられるのかの謎に迫る仕掛け。
字の読める大人はその思想に入り込め、字に興味を持てない子どもはミニチュアが大きくなったオブジェの中に入り込む体験。
それが写真撮影という儀式で大人と子どもが合流する。
大ピンチ展でも絵本が大型オブジェになって入り込めて、写真撮影もあります。
もしかするとそれしかないのかも。
展示すべきものがない。
『みたてのくみたて』は約160点の作品があったそうです。
『大どろぼうの家』も美術館ですからもちろん作品がある。
作品がないのか。
だから逃げ場がない。
作品を逃げ場というのもどうかと思うけど。
4.そのレンズの向かう先には
片や作品となり、片やテーマとなる。
この境界はどこになるのだろう。
そうか、ここからが始まりだ。
大ピンチ展を入口にして考えたかったのはこれです。
美術とエンタメの境界線。
なんでしょうね。
『大どろぼうの家』も『みたてのくみたて』もエンタメ感がないかと言えばあった気がして。
だから普通の美術館でやる展示とは違った印象を受ける。
見せ方の工夫ということなのかな。
どの場合でも共通するのは撮影OKであること。
撮影の対象は違う。
フォトスポットの有無。
『大どろぼうの家』はヨシタケシンスケさんの展示の最後にフォトスポットがありました。
逆に言うならそこだけ。
大ピンチ展はそれぞれの展示がフォトスポットである。
ポーズをとって撮影するというものでなく、ただ子どもが遊ぶ遊具だとしても、その遊んでいる姿を撮影している。
作品の撮影とフォトスポットの撮影。
違いますよね。
対象が主体なのか背景なのか。
テーマパークってフォトスポットが豊富ですがあくまで背景。
エンタメって主導権が観客の側にある。
カメラのレンズは自分たちに向けられる。
美術は主導権が作り手の側になる。
カメラのレンズは作品に向けられる。
主導権という境界線はどうでしょう。
そうした時に、『みたてのくみたて』はその境界線がシームレスだった。
作品を撮影しつつ、フォトスポットで作品と合流する。
まあわたしはフォトスポットが不要なので『大どろぼうの家』が好きなんですけど。
後から写真見返したら作品の写真しかない。
子どもは大ピンチ展が好き。
後から写真見返したら子どもの映ってる写真しかない。
妻は『みたてのくみたて』が好き。
後から写真見返したら作品の写真も子どもたちの映ってる写真もどっちもある。
5.子どもの発達と「主導権」
子どもと大人の比較になり始めるのかな。
主導権を手放せるかどうか。
ここで子どもの発達の話が気になってくる。
保育士ですからね。
なんなら遊具としてどうなんだってのもあるのですよ、大ピンチ展。
それはあとに回して。
子どもの他者理解の話です。
もしくは子どもに主導権があるのかってことです。
主導権がないと他者も想定できないという話。
まず赤ちゃんは自分と他者というのが未分化です。
まさに赤ちゃん自身とお母さんが一心同体。
そこからいわゆる2歳頃のイヤイヤ期(わたしはブラブラ期という言い方が好き)で別の存在だということに気づき始めます。
だとしてもこのあと、しばらくは自分中心で物事を考えます。
これ見てと絵を見せるとして、絵を自分の方に向けて相手に裏側を見せたりします。
自分に見えているものが相手にも見えていると思えるのですね。
それがだんだんと他人は違う見え方をしているんだと気づき始めます。
これを心の理論と言います。
自分と相手の見え方が違うから絵を見せるときには相手に絵を向けて見せないといけない。
自分と他者がやっと分化した状態。
でもあくまで自分を主観としてしか捉えられていない。
さらに進んで思春期に入ると、その他者が自分をどう見ているのかが気になるという時期に入ります。
評価を気にし始める。
恥ずかしいという気持ちが出始める。
集団の中での自分を意識して、客観で自分を見始めることができる。
客観性という自分と社会という対比が生まれ始める。
なんと懐かしい感覚よ。
40も過ぎれば折り返しで評価とか気にならなくなるけど。
社会とかどうでも良くなるよね。
客観とか知らん。
自分が主観でどう感じるかが全てじゃん。
ある種の開き直りで生きるのが楽になる。
あの頃、しんどかったよな。
うちの小4の9さいさん。
これから思春期。
さておき。
長々と話してきましたが、子どもをターゲットにした展示会。
この他者理解ができるかどうかってなかなかのポイントではないかしら。
赤ちゃんはさすがに対象からはずして、自意識はある幼児が対象だとしましょう。
自己はあります。
なので主導権は握れます。
しかし前述の通り他者はありません。
他者があったとしても自分を客観視できないので、他者も主観の中に取り込んでしまいます。
主観でしか捉えられない、つまり主導権を手放せないということ。
これが客観が気になり始めるとどうなるか。
思春期に入るとどうなるか。
大ピンチ展で絵本の男の子の髪型になれる帽子があって。
それをかぶって写真撮ったり遊べたりできるんですけど。
6さいさんは嬉しそうにかぶりましたが9さいさんはかぶりませんよね。
二人ともボールプールみたいなのでは遊んでいました。
これももう少し年齢が上がると列に並んでいる人の目が気になって遊べなくなるのではないでしょうか。
少なくとも子どもを手伝って遊んでいる大人はいましたが、遊具で遊んでいる大人はいませんでしたよね。
遊ぶにしてもこっそり別に楽しんでませんよってことを装ってますよね。
大人になると主導権を握っているのが丸見えなのは、逆に居心地が悪いのかもしれません。
そう、居心地が悪いのです。
主導権を持たざるを得ないのが。
6.大人は主導権を握りたい?手放したい?
大人においては主導権を持つことが不快になるとしました。
いや、本当かなと思いますが。
主導権を手放すということは外側の何かに支配されることですから。
そういうことでなら、子どもの方がまだまだ支配されているわけで。
支配という言葉に違和感があれば守られているという言い換えで伝わりますか?
大人は守られるのではなく守る側でしょう。
支配する側と言葉を戻してみましょうか。
エンタメ展示では子どもを支配する守る場面が多いのではないですか?
美術展示であれば、支配される守られる場面が生まれる。
大ピンチ展で大人が子どもに「あっち見に行こうか?」とか「(カメラを向けて)こっち向いて」とかいう声掛けが多かったような。
声掛けがあればまだ良くて、ルートを大人が決めてついてこさせるとか。
保護者のことだけでなく、空間もそのように設計されていますよね。
体験時間がタイマーで管理される。
順番に並んで待たされる。
遊び方が決まっている。
後回しにしていた話が出てきましたね。
まだ回収しません。
大人の主導権の話が終わっていないので。
ただ、運営側の問題だということだけ、ここでは残しておきます。
主導権、つづき。
はたして大人は主導権を握りたいのか手放したいのか、どっちなんだい!
どうですか?持ちたい?手放したい?
これ主導権を責任と言い換えてもいい?
いや、他にも候補はあるのかもだけど責任にする。
自己責任という言葉のしんどさが常々気になるから。
気になりますよね?
エンタメ展示やテーマパークの居心地の悪さと今の社会の息苦しさに共通するものがあるのではないか?
たぶんそんなことを語りたいんだと思います。
対して美術館というところが、それに対するアンチテーゼになるのではないか。
もっというと『みたてのくみたて』のような素敵な出会いもあるのではないかというところにいきたい。
頭の片隅にある参考文献たちを一回出そう。
東畑開人『居るのはつらいよ』。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』。
熊代亨『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』。
ちょっと話のスケールが大きくなっている気がする。
単に展示の話をしていただけなのに。
まとめきれる自信はもうありません。
失敗しても許してね。
なんで、選書した本を歩くための杖にさせてください。
一冊ずつ順番にいきます。
7.するといる:待ち時間
内容に触れ始めると長くなるので必要なことだけ。
「居る」ってつらいよねってことです。
わかるか!
「する」って楽だよねってこと。
だからわからんて。
「居る」と「する」。
「ケア」と「セラピー」と東畑さんは言い換えますが。
わたしに言わせると何者かにならなくていい「居る」とならなくてはならない「する」。
こう聞くと「居る」方が楽そうですか?
じゃあ何もしないで、ただそこに居てくださいね。
ありのままの自分でさらされていてくださいね。
どうですか、なんか周りからどう見られてるとか気になりませんか?
なんか「して」た方が楽じゃないですか?
そう。
「する」方が楽なんです。
評価を気にして競争してた方が楽なんです。
だから社会はそのようにできているんです。
剥き出しの自分で他者や世界と向き合うには大人は弱すぎる。
そこいくと大ピンチ展やテーマパーク、正解です。
まさに「する」しかありません。
子どもは遊具で遊ぶことを「する」。
大人は子どもを管理しながら写真撮影を「する」。
しかしこの「する」が滞る場面があります。
行列の待ち時間。
この時間「する」がストップされます。
待つは「する」になかなかなりません。
待つのはただ「居る」ことです。
大人はそれゆえスマホを取り出そうとしますが、そんなことしようものなら子どもが黙っていません。
かまえー、かまえー。
大人は黙らせますか?相手をしますか?
ね、「居る」のはつらいのです。
8.消費と浪費:時間制限
待つという退屈な時間の話が出たところで杖を持ち替えましょう。
これも内容全部は長いので一部だけ。
待つという退屈な時間、ただ居るのはつらいので何かをしたいですよね。
退屈しのぎをせざるを得ない。
となった時に時間を埋めるための行為に「消費」と「浪費」がある。
何が違うのと思うかもしれませんが、全然違います。
違うものとして國分さんは説明してくれます。
説明を聞きましょう。
「消費」は情報。
「浪費」は体験。
情報は受け止めても一瞬の刺激にしかならず、次から次へと新たな刺激を求めて終わりがありません。
体験は受け止めるためには時間がかかりますし刺激どころかストレスにもなりますが、それゆえ没頭でき満足感が生まれて終わりになります。
大ピンチ展です。
それぞれの遊具で(作品と呼ばないのです)体験しようにも制限時間が決まっています。
係の人がいて1分半たったら「では交代で」と声がかかり次の遊具へ移動することになります。
混んでいなければ好きなだけ遊ばせてくれるのかしら、わからんけれど。
でもGWのこの時期に展示しているわけで。
しかも会場が百貨店という、まさに消費の聖地。
次から次に刺激を与えることに抵抗がない場所ですよね。
テーマパークも一緒。
遊んでいるようで遊ばされている。
乗れる遊具って楽しいですけど乗らされているわけで。
勝手に進んで勝手に終わるわけです。
それこそ見えない制限時間が設定されている。
刺激であって体験ではない。
これ体験格差の話にもなりそう。
以前語ったことがあるからリンク貼っとこう。
時間制限のある遊びは体験できますか?
消費しているだけじゃないですか?
大量に遊具を用意して大量に消費してもらう。
大量にあればいいけど、遊具も少ないものね。
時間を制限することでそこを補って、何度も消費してもらう。
それは「する」を強要される「居る」ことのできない場所。
かといって何度遊んでも遊び方は同じで作業になっていく未来が目に見えている。
別の遊び方は許されません。
そう遊び方が決められているのです。
9.秩序ある天国という不自由:決められた遊び
健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて。
タイトル長いですけど、本当にこのままの内容についての本です。
ここでは秩序のことを話したい。
現代日本、特に都市部、言ってしまえば東京。
健康で清潔で道徳な秩序ある天国のような社会が実現しました。
天国ですよ。
良かったですね、地獄になるって言われ続けてましたから。
めでたしめでたし。
なんかじゃ終われません。
天国ですよ、確かに。
しかしそれは天国を居心地がいいと思える人にとっての天国。
その天国の住人であるためには、その住人にふさわしい者になることを約束、もっと言うなら契約せねばなりません。
つまり契約を結ぶにふさわしい人ですかと問いかけ続けられます。
あなたは健康ですか?
あなたは清潔ですか?
あなたは道徳を守れますか?
あなたは秩序を維持できますか?
つまり、あなたは社会人ですか?
いかがでした、天国。
そう、大ピンチ展も天国です。
遊び道具を壊さないために注意書きがあります。
それぞれの遊具の前には遊び方の指示書きがあります。
迷惑なこと、トラブルが起きないように警備員がいます。
順番が守られるように、時間で交代できるように係員がいます。
保護者は社会人でいられます。
自己責任を問われながら。
まさに天国。
だーーーーー!!
不自由。
10.美術館というアジール(避難所)へ
実は大ピンチ展で勤務先の保育所を利用するご家族に出会っていて。
そりゃあいさつはします。
でもなんか保育所の先生モードなり、家族連れの休日の先生モードなりで少しぐらい会話することもできるのでしょうが。
全くできなくて。
これ人見知りモードが発動してたのかと思っていたけど。
多分違う。
社会人を強いられている状況で心が精一杯だったんだ。
あくまで想像だけど、大どろぼうの家で出会えていたら、どうだろう。
まず行列がないから空いたスペースで少しくらいの立ち話ができたかも。
そして会話内容としても、美術館って何にひっかかって来たのかみたいなことがあって。
作品の受け止め方に多様性があるから、そこを交換しあえる。
なんなら実際見てみての感想が言えるかも。
そう、多様なんです。
何かであることを手放せる場なんです。
美術館とは避難所(アジール)なのです。
アジール。
歴史的には世俗や権力や法律が及ばない寺社仏閣。
日常のしがらみや支配から自由になれる「無縁の場」。
そう、無縁なのだからご家族に会って、一瞬先生になったとしてもすぐにしがらみから逃れることが自然にできる。
相手もしがらみを感じたくないのだから。
美術館は「しない」でただ「いる」場所。
主導権や支配を手放して、作者が主導権を持って作品に守られる。
作品の前で勝手に足が止まり、ただ立ち尽くして居続ける。
美術館は「消費」でなく「浪費」の場所。
わかりやすい情報を渇望するのではなく、わからない体験で満足をする。
作品の何がそこに居させるのか、作者は何をもって創作したのか、わからない、わからないがゆえに充実していく。
美術館は「天国」ではなく「アジール」。
正解の決まった社会契約という集団の中の自分から解き放たれ、シンプルな「わたし」を取り戻す。
作品とわたしだけが世界の全て。
「わたし」は「わたし」として、いまここにいます。
11.『みたてのくみたて』
どうですか?まとまりました。
まあこんなもんです。
わたしの見立てはこんなもんです。
これだけ語ってきましたが大ピンチ展もテーマパークも嫌いじゃありません。
何度も言います。
楽しい。
さすがエンタメ。
社会に絶対必要。
「する」も「いる」も。
「消費」も「浪費」も。
「天国」も「アジール」も。
どっちも必要。
どっちもあって理想の社会が実現する。
問題はバランス。
あまりにもすること、消費、天国が重視されすぎていて。
息苦しくて不自由。
どっちかっていうとただ居れて、浪費できるアジールになれば。
肩の力も抜けて自由になれる。
そんな組み立てを目指したい。
『みたてのくみたて』。
作者の発想法を思想として知り、実際のミニチュアを眼の前で見て楽しめるという展示。
作者の発想法。
ブロッコリーを木に見立てる。
青いハンガーが並んで海の波に見立てる。
形、色、暮らし、スケール、動き、擬人化、世界。
これらを視点を変えることで別のものに見立てて組み立てる。
わたしたちの持つモノも視点を変えて見立ててを組み立て直せば、天国でアジールな社会も実現可能じゃない?
だってまさにその展示で天国とアジールが幸福に出会っていたのだから。
大人は思想というアジールに逃げ込み、子どもは天国というエンタメを楽しむ。
そして写真撮影という儀式で合流する。
大人も子どももない。
ただ人がいて、にこにこ笑っていた。
