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「みいちゃんと山田さん」は、なぜ漫画ならよくてアニメだと問題なのだろう?

クーロンです。

『みいちゃんと山田さん』については以前、アニメ化反対の声が上がっていることをきっかけに原作を読み、noteにも感想を書きました。

そして8月19日、知的障害のある人やその家族などで構成される「全国手をつなぐ育成会連合会」が、アニメ化に対する意見書を公表しました。意見書では、一律に映像化へ反対する立場は取らないとしながら、原作者や編集部の過去の言動、「みいちゃん」という名前が知的・発達特性のある人への揶揄として使われている状況などに懸念を示しています。

意見書を読んで、僕が最初に感じたのは、

「それなら、なぜ漫画の時点で問題にならなかったのだろう?」

という疑問でした。

もう漫画は世の中に出て完結している

『みいちゃんと山田さん』は、アニメになって初めて世に出る作品ではありません。

2024年9月からマガジンポケットで配信され、単行本第1巻は同年12月に紙と電子版で発売されています。2026年8月には連載が完結し、9月9日には第7巻と絵本付き特装版も発売予定です。講談社の公式サイトでは現在も第1話を試し読みできます。

しかもアニメ化発表後には、マガポケ公式が「1巻分無料」のキャンペーンまで実施していました。作者自身もそのキャンペーンを紹介しています。

つまり、作品を広く読んでもらうための宣伝は普通に行われていたわけです。

もし作品の内容自体が、知的障害のある人への偏見を広げるほど危険なものなのであれば、漫画として販売され、無料で多くの人に読まれることも同じように問題になるはずです。

もちろん僕は、だから漫画の販売も止めろと言いたいわけではありません。

むしろ逆です。

漫画として世に出していいのであれば、なぜアニメになると話が変わるのか。

そこがよく分からないのです。

重い話を描くこと自体は問題だと思わない

『みいちゃんと山田さん』は、かなり重い漫画です。

講談社の公式紹介では、みいちゃんは「漢字も空気も読めない」新人として登場します。その後、DVや性風俗など、かなり過酷な状況に追い込まれていきます。

読んでいて気分のいい作品ではありません。

でも僕は、障害のある人が悲惨な目に遭う物語だからといって、それだけで問題作になるとは思いません。

漫画には、いじめも虐待も殺人も犯罪もありますし、救いのない話もあります。

いわゆる「胸糞が悪い話」を、あえて読みたいという需要だってあります。
ゲームでも「鬱ゲー」と言うカテゴリがあります。

フィクションは、正しい人だけを描き、正しいことだけが起きる世界である必要はないでしょう。

障害のある人について描くときだけ、悲惨な出来事や人間の醜さを描いてはいけないということになれば、それもまた不自然だと思います。

アニメの方が影響力が大きい。それは分かる

一方で、反対する側の理屈にも理解できる部分があります。

漫画よりアニメの方が、多くの人に届く可能性があります。

キャラクターに声が付き、動き、SNSでは映像が切り抜かれて広がります。

すでに「みいちゃん」という呼び方が、知的・発達特性のある人を揶揄する意味で使われているという指摘がある以上、アニメ化によってそれがさらに広がることを心配する人がいるのも理解できます。今回の意見書も、その点を懸念しています。

実際、製作委員会も批判を受け、7月27日に声明を発表しました。

原作のテーマやメッセージを尊重しながら、偏見や誤解を助長しないよう専門家の助言を得て、適切なレーティングや注意喚起を行う方針を示しています。

ここまでの対応には、僕も特に異論はありませんが、それでも最初の疑問は残ります。

問題なのは、漫画の内容なのでしょうか。それとも、アニメという媒体なのでしょうか。

「映像化には反対しない」に感じた違和感

今回の意見書では、一律に映像化へ反対する立場は取らないとしています。

もちろん、意見を表明することは自由です。

支援団体が当事者や家族の立場から懸念を伝えること自体を、やめるべきだとも思いません。

ただ、この言い方には少し引っかかりました。

原作はすでに完結しています。

登場人物もストーリーも結末も決まっています。

その状態で、アニメ版に対して「配慮」を強く求めた場合、制作側は具体的に何をすればいいのでしょう。

レーティングや注意書きなら分かります。

しかし物語そのものについて配慮するとなれば、セリフを変えたり、描写を弱めたり、原作よりマイルドにしたりすることにもつながります。

もし完成したアニメを見て、原作にあった強烈な描写が大きく変更されていたら、僕はたぶん、

「今回の騒動を受けて変えたのかな」
と思ってしまいます。

それは少し残念です。

そして気になる「作者の言動」

今回の意見書で、もう一つ気になったことがあります。

作品の内容だけでなく、原作者や編集側の過去の言動が「懸念される言動」として取り上げられていることです。

たとえば、認知機能や知的機能が低下した状態を「みいちゃん化」と表現したことや、過去のペンネームで特殊学級を否定的に扱った作品などが指摘されています。

それらの言動が不適切だったのであれば、批判されるのは当然だと思います。

でも、そこで僕は一度立ち止まります。

作者への批判と、作品への批判は同じなのでしょうか。

作者に問題のある言動があった。
だから、その作者が描いた漫画のアニメ化にも問題がある。

この二つがつながってしまうことに、違和感があります。

作品と作者は別ではないか

極端な例かもしれませんが、『塀の中の懲りない面々』という作品があります。

松竹の公式紹介によれば、原作者の安部譲二氏は元ヤクザで、通算8年の服役経験を持つ人物です。その経験をもとにした自伝的小説はベストセラーとなり、1987年には映画化されました。

もちろん今回のケースとは事情がまったく違いますが、僕が言いたいのは、作者の人格や経歴と作品の価値は、必ずしも同じではないということです。

作者について問題だと思うことがあれば、作者を批判すればいい。

作品について問題だと思うことがあれば、作品を批判すればいい。

でも、「この作者には問題がある」という評価を、
「だから、この作者の作品がアニメになることも問題だ」

というところまで広げるのは慎重であるべきだと思います。

本当に批判されているのは何なのだろう

今回の騒動を見ていて、僕が一番モヤモヤしているのはここです。

本当に『みいちゃんと山田さん』という作品そのものが問題なのでしょうか。

それとも、作者やスタッフの過去の言動への反感があり、その作品がアニメ化されるタイミングで、それらが一緒になって批判されているのでしょうか。

外から見ている僕には、本当の意図までは分かりませんし、「そうだ」と断定するつもりもありません。

ただ、作品そのものへの批判とは別のものが混ざっているようには感じます。

だからこそ、

「漫画はすでに世の中に出ているのに、なぜアニメ化で?」

という最初の疑問に戻ってしまうのです。

支援団体が意見を言う自由はあります。
作品を不快だと思い、批判する自由もあります。

同時に、作品を読みたい人、アニメで見たい人もいます。

僕は『みいちゃんと山田さん』に限らず、作者と作品は分けて考えたいと思っています。

作者に問題があるなら、作者について議論すればいい。

作品に問題があるなら、作品について議論すればいい。

その二つを一緒にしてしまうと、いつの間にか「嫌いな作者の作品だから、世に出てほしくない」という話に近づいてしまいます。

僕は、それには賛成できません。

作品と作者は別。

少なくとも僕は、そう考えて作品を見ていきたいと思います。

それでは、また!

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