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転職組のマーメイド ②

まだ明るさが残る時間だった。
前職のときから変わらず住んでいるマンションに着くと、玄関前にいつもの段ボールが届いていた。
中身は見るまでもない。米。
定期的に母親が送ってくる。
最初は鬱陶しく思った。しかし初めて成城石井で米の値段を見たときから、何も思わなくなった。
段ボールがいつもより重たく感じ、海を見ていただけの時間も、身体が疲労していたのがわかった。

リビングでしばらくyogiboの類似品のクッションに座ったあと、腹が減ったので台所に移動した。
一つしかないコンロに火をつけ、フライパンでウインナーを焼く。皮が破れないようにウインナーを焼くことが、この世でいちばん難しいことだと毎度思う。
その後、どんぶりに盛られた白米の上にウインナーを置く。
仕上げとして、焼肉のタレを気が済むまでかける。
米を口に放り込んだあと、思い出したように帰りにコンビニで買った500mlのストロング缶を開ける。プルタブを持ち上げるとCMのような気持ちのよい音が部屋に響く。
Netflixで適当に映画を観る。
そして、いつのまにか画面に『まだご視聴中ですか?』と表示され、一日が終わっている。


スマホのアラームが聞こえ、気づくと朝になっている。
カーテンを開けると、窓から電車の音が聞こえた。手を振りたくなる。でも一回もしたことはない。
シャワーを浴び、そのあと鱗にワセリンを塗る。乾燥が酷い鰭の裏には尿素クリームも塗る。顔には雑にハトムギ化粧水をつける。

今日は木曜日。段ボールを処分できる。
昨日届いたのを畳もうと米の袋を取り出すと、下に服が入っていた。
半袖のパーカー。
こんなの誰が着るのだろう。そう思いながら広げた。
新品のはずの半袖のパーカーから、微かに実家の匂いがした。畳とシーフードが混じった香り。





マーメイド都立大学から帰るとき、辺りは暗くなっていた。帰路をマンタが横切る。
アコヤガイのドアノブをひねって玄関を開けると、母親がホタテスープを作っていた。

「おかえり」
「またオカズにならないやつ」
「温まるしいいでしょ」
「いつも味が薄いからさ」
「父さん生きてたときは、文句言わずに食べてたわよ」
「父さんのこと言われても」

父親は自分が物心つく前に、ポセイドンとの闘いで命を落としたらしい。そこから母親は、貝殻衣服のクリーニング店のパートをしながら、ひとりで僕を育てた。

「味が濃いものばっかり食べてたら、身体壊すわよ」

母親には何を言っても、健康という盾で弾かれる。
味気ないホタテスープを飲みながら、母親に本当に話したいことを言うタイミングを伺っていた。

「そういえば明日、可燃ごみの日ね。母さん忘れちゃうから、あんたも覚えといてね」
「大学卒業したら、東京に行くから」

絶対に不正解なタイミングで口から溢れた。

「東京? 家を出るの?」
「うん」
「東京で働いてどうするのよ? あんた人魚でしょ」
「別にいいでしょ」
「ハープ、あんなに練習してたじゃない? 母さんあんた、てっきりハープを弾く人になるのかと思ってたわよ」
「ハープなんて弾きたくないし」
「別にハープを弾かなくてもいいじゃない。わざわざ東京行かなくても、ハープ弾く以外の仕事もあるのよ。弓矢を使う仕事とか」
「あのさ」
「隣のしーちゃん覚えてる? あんたが小さいとき遊んでくれてた。あの子もこの辺で弓矢とか……」
「ほっといてくれよ」

思わず大きな声が出た。普段は喉締め発声の自分が、腹式発声できたことに驚く。

「ここ以外の世界を知らないくせに偉そうなこと言うなよ」

母親は黙った。
無言のまま食器をかたづけはじめ、シンクに向かった。
そして、背中を向けたまま小さく言った。

「勝手にしなさい」

母親が、悲しんでいるのか怒っているのか、あるいは両方なのか。背中を見てもわからなかった。

そのあと、母は蛇口を少しだけひねり、少量の水でお皿を洗い続けた。
いつもならば、それ本当に洗えてるのかと声をかけたけれど、今日はやめておいた。

たいした理由なんてなかった。
免許証の住所を『東京』にしてみたかった。

どうせ同じ結末になったなら、クソババアと言っておけばよかった。





スマートフォンがスヌーズ機能で音を鳴らす。
待受画面に表示される時刻がさっきより一時間ほど経っていた。いつのまにか二度寝をしていた。
段ボールを捨てるのは諦めた。
慌ててネクタイを締め、尾鰭を左右に大きく振って家を出た。

駅のホームについた時点で、もう間に合わないとわかった。
走ったとしても。仮に、泳いだとしても。
途端に会社に向かうのがバカバカしくなり、代わりに遅刻の言い訳を考えた。

発熱した。
身内に不幸があった。
大事な鍵を無くした。
道中でお年寄りを助けた。
イタズラで玄関が開かなかった。
祝日かと思った。
犬に追いかけられた。
徳川埋蔵金を見つけてしまった。
桃鉄の辞めどきがわからなかった。

正直に白状したほうがよい案が量産されると、ちょうど山本さんから着信が来た。

「はい、成田です」
「今日、どないした?」
「徳川埋蔵金が」

急な問い詰めのせいで、精度の低い言い訳が口から飛び出そうとした。

「なんやねん徳川埋蔵金て。寝坊やろ。普通にアカンぞ」
「この場合、白鳥部長に連絡すればいいのでしょうか」
「アホか。そんなん正直に言うたらサラリーマン人生終わるわ。部長、寝坊とか一番嫌いやねんから」
「すみません」
「わかった。これから行く得意先の近く来れるか? そこで合流しよか」
「わかりました。どこ行けばいいですか?」
「御徒町の駅前でええか?」

乗り換えアプリを開く。
御徒町まで最短ルートを確認し、京浜東北線へ飛び乗った。
車内は想像より混んでいて座れなかった。この時間に出社している人もそこそこいることを知り、少し羨ましくなった。
しかたなく尾鰭を伸ばして立ちながら、車両の端の壁に体重を預けた。
すると、優先席の方から視線を感じた。

「どうぞ」

親切そうな女子大生に席を譲られた。
周りに向けて、できるだけ体調の悪そうに席に座った。

御徒町で電車を降りると、駅前で山本さんの営業車に拾ってもらった。

「白鳥部長、怒っとったで」
「え」
「冗談や。俺の指示で直行してることになってるから。安心せえ」
「よかったです」

安堵した勢いで、謝罪を忘れた。

パーキングに車を停め、オフィスビルが並ぶ方へ向かった。どうやら今日は本当に行き先があるらしい。

「お世話になっております。白鳥シールの山本です。近く寄ったので来ました。加藤さんおります?」

目的のオフィスに着くと、受付の女性に応接室に案内された。
高そうな茶色のソファに座る。
しばらくすると、さっきの女性が二つお茶を持ってきた。

「緑茶って、問題なく飲めますか?」
「はい」

女性は安堵した表情で応接室から出ていった。

お茶の温度を確かめるために口をつけようとしたタイミングで、山本さんが立ち上がった。

「加藤さん。お世話になっております」

山本さんに促され立ち上がった。そして、名刺ケースを取り出した。

「初めまして。新人の成田です」
「ハチミツコーポレーションの加藤です」
「よろしくお願いします」

もらった名刺を名刺ケースの上に置いた。

「山本さん。先日、OEMでキャラクターのシール帳作ってくれたじゃないですか。あれ、すぐに再販決まりまして」
「ホンマですか。ありがたいですね。加藤さんの売り込み上手いからやと思いますよ」
「いやいや、山本さんが色々と調整してくれたからですよ」

二日目にして、初めて山本さんが仕事をしているところを見た。

「この間、久々に大阪に帰りましてね。娘に御社のキャラクターの仕事やっているって言ったら、すごく喜んどって。加藤さんのおかげでやっとパパらしいことできましたわ」
「それは僕も嬉しいです。もしだったら、他のグッズ持ってくるので、後で娘さんに」
「いいんですか。ありがとうございます」

山本さんの気持ちの良いお礼に、僕も思わず頭を下げた。
この人、海ではしゃいでいた人と同一人物だろうか。
東京でなりたい姿。
まだ自分がなれる可能性が残されている人物の中だと、それが山本さんかもしれないと思った。

営業車に戻ると山本さんは、何もなかったような顔でタバコを取り出した。

「ごめんな。また吸うで」
「あの」
「やっぱタバコはアカンか?」
「一本もらってもいいですか?」
「えらい図々しいな。ええけどさ」
「ありがとうございます」

久々にタバコに火をつける。
煙が肺に入ると、自分が人魚だということを一瞬忘れる。

「この後は、別の客先とか行くんですか?」
「行かんよ。数字取れたし」

やはり山本さんは、昨日の山本さんだった。
でも、僕の中の山本さんは今日のままだった。



③へ続く

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