転職組のマーメイド ③
白鳥シールは、小忙しい時間が流れている。
みんなパソコンに向かい、ショパンを演奏しているかの如くキーボードを叩き続ける。
ショパンたちの中で、山本さんだけがキダタローを奏でている。
ただ、自分には“浪花のモーツァルト”のほうが耳心地がいい。
営業部に本配属となり、正式な社員カードが発行された。
受け取りに総務部に向かうためにエレベーターを待つ。すると背後から白鳥部長が現れた。
「お疲れ」
「お疲れ様です。何階ですか?」
「同じ。六階。俺も総務部に用事あるから」
「了解です」
「会社慣れた?」
「少しずつですけど」
「それはよかった」
「山本と同行してどう?」
「勉強になります」
していないのと同じような薄い会話が続く。
エレベーターが到着すると、白鳥部長が切り出した。
「全然関係ない話していい?」
「はい」
「成田君さ、大学時代にテストとかあっただろ」
「ありました」
「周りにさ、授業は出てないくせに直前にちょこっとだけ勉強して、単位取ろうとする奴いなかった?」
「いました」
「いただろ? 60点分の努力しかしない奴」
「なんとなくわかります」
「わかる? そうだよな」
部長は笑った。あるあるネタを共有できたことが、よほど嬉しかったようだ。
「うちの会社で言うとさ、それが山本」
部長は急に真顔になった。もしかしたら、最初から目は笑っていなかったかもしれない。
途中の階で誰かが乗ってくるのを待った。そんなときに限って、誰も来ない。
「本当は山本以外の人を教育担当にしたかったけど。みんな立て込んでてな」
「はい」
「だから、山本が言うことは話半分で聞いていいから。反面教師だと思って」
からっぽの相槌を打ちつづけるのが精一杯だった。
いっそエレベーターの全ての階のボタンを押してみようかと思ったが、自分の中の常識が止めた。
「期待してる」
「はい」
白鳥部長のエールも同じトーンで相槌をうってしまった。
ひとりになってから、少し考えた。
部長は山本さんを誤解している。
おそらく山本さんは、講義を真面目に聞くタイプであるし、テストもいい点を取る。
言わないだけで、実は主席だったりする。
サークル活動にも積極的で、バスケットボールサークルに所属してる。
主将。
ポイントガード。
仮説を立てて満足すると、総務部から社員カードを受けとった。
帰りは部長と同じエレベーターに乗るリスクを避けて、階段を使った。
フロアへ戻ると山本さんが、カバンに商談アイテムを詰め込み外出の支度をしていた。
「そろそろ出るで」
席に座る間もなく営業車に向かい、いつも通り助手席に座った。
本当にこの人は60点の人なんだろうか。
「大学のときどんな感じでした?」
「大学か。ちゃらんぽらんやったな」
「単位とかは?」
「ギリギリやな。授業とか出とらんかったし」
「主席ですか?」
「そんなわけないやろ。なんやねん、その質問」
これ以上、質問するのをやめた。
信号が赤に変わった。山本さんはいつものようにタバコを取り出した。
「コンビニより、歯医者の方が多いって知ってるか?」
「よく聞きますね」
「俺、それ信じられんねん。絶対にコンビニのほうが多いやん」
「そうなんですかね」
「だからさ、俺が運転してる間に、どっちが多いか数えてくれへんか?」
60点に説得力がでるミッションが与えられた。
窓を一生懸命眺める。
コンビニ。コンビニ。歯医者。コンビニ。歯医者。歯医者。歯医者。コンビニ。歯医者。歯医者。コンビニ。歯医者。歯医者。コンビニ。コンビニ。歯医者。歯医者。コンビニ。歯医者。コンビニ。コンビニ。歯医者。コンビニ。歯医者。歯医者。コンビニ。コンビニ。
「コンビニがやや優勢です」
「ありがとう。帰りも頼むで」
山本さんは、満足そうだった。
追加ミッションを避けるため、次の話題を考える。すると、先に山本さんが別の話題をふってきた。
「そういえば、成田くん。結婚はしとるん?」
「いや、してないです。こっち来て更に諦めました」
「なんやねん、それ」
「結婚っていいもんですか?」
「めっちゃええもんやで。なんか、意外やろ?」
「はい。地獄とか言うタイプかと思ってました」
「俺どんな奴だと思われてんねん」
「すみません」
「人生のベストチョイス。いくつかあんねんけど、その一つが嫁を選んだことやと思っとんねん」
「いいですね」
「娘が産まれてから、余計にそう思うようになったわ」
「娘ですか」
「ちなみにやけど、白鳥シールに就職したのはワーストチョイスや」
「入ったばっかりの僕の前で、なんてこと言うんですか」
「俺、嘘つけへんから」
山本さんはケラケラと笑った。
「山本さんって、ずっと白鳥シールですか?」
「せやで。もう二十年くらいおるかな」
「長いですね」
「せやろ。意外と歳いっとんねん」
「今も同期っていますか?」
「辞めた奴もおるけど、みんな出世しとるな」
「なるほどですね」
「みんな媚売るのうまいねん。俺だけやで、未だに会社馴染めへんやつ」
山本さんは、自虐を言いながらも笑顔だった。もう、いろいろと諦めたのだろう。
「そんな中で、成田君、めっちゃ会社馴染むの早いな」
「そうですかね」
「部長も褒めとったし。ほいで成田君、みんなから“ナリエル”って呼ばれとんやな」
「ナリエル?」
山本さんが不思議なことを言ったあと、一転して気まずそうな表情をした。
「なんか、ごめんな」
山本さんに少し遅れて、自分も察した。
みんな、忙しく仕事をしながらも、この尾鰭を陰で面白がっている。
それに気づいたら、うまく喋れなくなった。
「みんな意地悪やな」
後ろからクラクションが鳴った。すでに信号は青に変わっていた。
「俺はええと思うで。“ナリエル”かっこええやん」
「山本さんもイジってます?」
「ちゃう。これ真面目な話、むしろこっちから名乗っていったほうがええと思うわ。俺も今度から成田君のこと、“ナリエル”って呼ぶわ」
会社に戻るころには、すっかり夕日が出ていた。
帰りのコンビニと歯医者の数は、同数だった。
仕事終わりに同期という存在が急に恋しくなった。前職で唯一、連絡先を知っている同期の田中に久々にLINEを送ると、そのまま会うことになった。
日比谷で降りるのは初めてだった。
田中が予約してくれた店をMAPアプリで再確認しながら歩いた。
日比谷公園の前を通ると、知らない名前のアーティストが書かれたTシャツを着た人で溢れていた。
それを見ていたら、なんだか無性にそれが欲しくなり、グッズ売り場に並んだ。黒のTシャツにピンクの文字でアーティスト名が書かれている。文字を崩しすぎて読めない。現金を渡し、そのTシャツを受け取った。
そのせいで少しだけ遅刻した。
待ち合わせの店の前には、もう田中が立っていた。
「成田、久々だな」
「田中も元気そうでよかったわ」
遅刻を指摘されないくらいの遅れに留まったようで安堵した。
「ちょうど成田と飲みたいと思ってたんだ。今回そこそこボーナス出たし、今日は俺が出すわ」
「いやいや、そんなつもりじゃ」
「気にすんなよ。同期の仲だろ」
「おぉ、悪いな」
相場より一つ少なめのラリーで奢ってもらうことにした。
「最初、ビール? つまみは適当に頼むわ」
「おう」
「すみませーん」
田中の声がよく通る。
「生二つと、お刺身の盛合せと、寿司の五種盛りと、焼き魚もアリだな……」
田中は魚ばかりを頼みはじめた。
人魚を前にどんなつもりだろうか。
「とりあえず乾杯するか」
「うん」
「成田の転職を祝って、乾杯」
田中は一気にジョッキを飲み干した。
なぜ田中は自分に会いたかったのだろうか。
その理由はなんとなくわかっていた。
「田中、会社辞めるの?」
「うん。なんでわかった。マーメイドの能力?」
「いや、上半身だけの勘」
仮に自分の尾鰭が、すね毛ボーボーの二本足だとしても、当てられた。
「なんか成田が辞めるってなったとき、急に羨ましくなってさ」
「羨ましいかね」
「ぶっちゃけ転職してどう? 職場の空気とか」
「アットホーム」
「地雷の求人に書かれる文言そのままだな」
「周りから陰でナリエルって呼ばれている」
「ナリエル? いい名前じゃん」
「どこが」
「好きの反対は無関心っていうだろ? 成田、嫌われてるわけじゃないと思うぜ」
「じゃあ、“タナカマキリ”って呼ばれたらどう思う?」
「タナカマキリ?」
「うん」
「だったら無関心のほうがいいわ」
「だろ」
「成田、もしかして転職、後悔してる?」
質問に答えなければいけないはずなのに、急にビールが美味しくなった。すぐに飲み干し、すぐにまたおかわりをオーダーした。
ビールが進む、進む、進む。
ジョッキをあげる動作を、人の上半身も魚の下半身も制御ができなくなった。
目がくるくると回りはじめ、視野が徐々に真っ暗になっていった。
真っ暗の世界の中、知らない自分の声が頭の中で響き続けた。知らない自分はオートマチックに田中との会話を続けた。どんな話をしたのだろう。
どれくらい時間が経ったのだろう。吐き気とともに目が覚めた。
気づけばスーツがゲロにまみれていた。手遅れだったようだ。
田中が会計を済ませ、自分に懸命に水を与え続けていた。
田中のおかげもあり、少し落ち着いてきた。
トイレで残りのゲロを吐き、汚れたシャツをビニール袋に入れ、さっき買った知らないアーティストのTシャツに着替えた。
そして田中とともに店を出た。
「成田、帰れる?」
「多分」
「ダメそうだな。公園で少し座ろう」
田中に肩を担がれた。
田中の肩がすぐに限界を迎え、適当に地面に下ろされた。
遠くのライブの音漏れを聴きながら、田中が買ってくれた水を飲んだ。
「田中、すまんな」
「気にすんな。色々、参考になったわ」
「何か言ったっけ?」
「俺、やっぱ仕事辞めないことにしたわ」
「え」
「成田の話を聞いて、全然、今の職場でいいわって」
田中はそう言って、水を置いて去っていった。
音漏れが終わったころ、たくさんの同じTシャツを着た人に混じりながら家に帰った。
次に気づいたときは朝になっていた。
寝落ちした瞬間は覚えていない。
それなのに、田中の最後の言葉が、激しい頭痛とともに残った。
