転職組のマーメイド ⑤
入社してから二ヶ月ほど経った。
無断欠勤は、もう無かったことになっている。しかし、山本さんとは気まずい空気のままだった。
同行を重ねれば重ねるほど、aikoがSHISHAMOでSHISHAMOがaikoだった。
そして、そのまま山本さんとの同行期間も終了した。
何も身についていないまま、ひとりで営業をする日々になった。
「これシール帳です」
「見たらわかるけど。なんか特徴ある?」
「ないです」
「価格は?」
「そこそこ高いです。相場の五倍くらいします」
「質がいいってこと?」
「いや、他社のほうがしっかり作られてます」
「なるほどね。逆に成田さんだったらこれ買います?」
「買いません」
「あのね。成田さん、“営業”って知ってます?」
「営業?」
「営業って汚いんですよ。嘘ついたり、自分の利益のために平気で人を騙したりするんですよ」
「え」
「だから、正直に言うと営業マンが嫌いです」
「すみません」
「そういう意味でいうと、成田さんは営業マンじゃない」
「え」
「だから買うよ」
「ありがとうございます」
自分でもよくわからないが、何はともあれ初めて数字がとれた。
案件が決まると、教育係の山本さんへ報告に行くことになっている。
フロアに戻り、真っ先に山本さんに話しかける。
「山本さん。一件、決まりました」
「おぉ。やるやんけ」
山本さんの返しはあっけなかったが、表情は穏やかだった。
これを繰り返していけば、また一緒にタバコが吸える。
そう思うと、不思議と仕事が有意義なものに感じた。
単調な仕事の繰り返しでも、周りからは、ナリエルと声をかけてもらえる。
このあだ名が、自分に足りない愛嬌を補ってくれている気がした。
ある日、いつものように席に着き隣を見る。山本さんの机が不自然に綺麗になっていた。無印良品の展示品のようになった机を眺めていると、山本さんが話しかけてきた。
「今日、同行できるか?」
「はい」
急いで山本さんについていき、営業車に乗った。
久々の同行。
車内では、やはり会話が続かない。とりあえず窓を眺める。
コンビニ。コンビニ。歯医者。コンビニ。歯医者。歯医者。コンビニ。コンビニ。歯医者。歯医者。
「もう数えんでええよ」
山本さんは信号機が青に変わるのを待ちながら、小さく口を開いた。
「あのな。俺、辞めんねん」
「え」
鱗の奥がキュッとした。
「もうすぐ着くわ。ここナリエルに渡すわ」
山本さんが営業車をパーキングに停める。到着した先はハチミツコーポレーションだった。
受付の女性に、加藤さんに用があることを伝えると、また応接室に案内された。今回は確認されることもなく、机の上にお茶が置かれた。
加藤さんが現れると、山本さんはすぐに事情を説明した。
そして後任となる自分のことを、すごくできる奴のように紹介した。
僕はその間、ずっとお茶を眺めた。茶柱も立っていない、至って普通のお茶だった。
眺めれば眺めるほど、山本さんの言葉が説得力が無くなっていった。
顔を上げると、加藤さんは不安そうな顔をしていて、一方で山本さんは清々しい顔をしていた。
訪問を終え、パーキングに戻ると、山本さんが僕の肩を叩いた。
「ナリエル。後は任せたわ」
まだ辺りは明るかった。
これまで散々、山本さんに迷惑をかけたことを棚に上げて、最後にひとつ踏み込んでみることにした。
「最後に運転させてもらってもいいですか」
「なんやねん。急に後輩みたいなことして」
山本さんから鍵を受け取ると、ゆっくり車を発進した。
「ナビ入れてええで。道わからんやろ」
「大丈夫です」
「無理せんでええから。ここ右の方がええで」
「いや、真っ直ぐ行きます」
「いや、どこ向かってんねん」
「海です」
「は?」
「山本さんと、海が観たくなってきました」
潮の匂いが近づいてくる。
海に着くと営業車を停めて、ふたりで沖まで出た。
「いい景色ですね」
「いや、綺麗やけどさ」
山本さんは水に入ろうとせず、ただ遠くを見つめていた。
「聞いていいかわからないですけど」
「なんやねん」
「辞めるの、僕のせいですか?」
「はぁ? そんなわけないやろ」
「よかったです」
「なんで俺が人魚に人生左右されなアカンねん」
少し安堵しつつも、まだまだ気持ちは晴れない。
海は青々としているのに。
「辞める理由な。あんま周りに言わんといてな」
「はい」
「東京。パーキング高すぎんねん」
「え」
山本さんはため息をついた。
「娘や」
「え」
「この間帰ったらな、デカなっててん。こっちにおると、娘の成長を通り過ぎてしまうねん」
山本さんは指で柔らかい砂を掴む。
「運動会とかも行きたいねん。パン食い競争で一位とったら、褒めてあげたいねん。最下位でも褒めてあげたいねん」
砂がさらさらと指の間から抜けていく。
「大阪営業所に戻してもらうとかは」
「アホか。一回追い出されとんねん。戻れるわけないやろ」
何も言えずに、落ちていく砂を目で追う。
「たまに帰るやん。娘にうちで作ったシールとか見せると喜ぶねん。普段知らんぷりしかせんのに、そんときだけは『パパありがとう』とか言いよんねん。そこだけやな。心残りと言えば」
掌から砂が落ちきる寸前だった。
「最後にタバコ吸いませんか?」
「いや、あかんねん。俺、禁煙してんねん。向こう帰って娘の前で吸わんように、練習中やねん」
「そうですか」
「いや、ええわ。一本だけ吸うか」
「ありがとうございます」
「禁煙失敗したら、ナリエルのせいやからな。娘に人魚にそそのかされたってチクったるわ」
海はとても透き通っている。
山本さんは、タバコを吸いながら少しだけ笑った。
それでも、あのときみたいにスラックスを捲ろうとはしなかった。
「僕、ちょっと入ってきます」
タバコを吸い終えると、そのまま浅瀬に入った。
必死に水飛沫を上げてはしゃいだ。
「何しとんねん。風邪ひくで」
気づけば、ジャケットまで濡れていた。
結局、山本さんは海に入ってこなかった。
これが山本さんとの最後の同行だった。
そのまま山本さんはあっけなくいなくなった。
会社携帯でしか繋がっていない関係だったことに気がつき、今更になって少し虚しくなった。
あれから一ヶ月。
山本さんの机は無くなり、不自然なスペースが生まれてた。床はそこだけが綺麗で、確かに山本さんがいたことを物語っている。
人が減ったことも関係してか担当先が増え、自分も徐々にショパンになっていった。
気づくといつも夜だった。コンビニの明かりが見えた。
いつものようにストロング缶をレジに持っていくと、ミノタウロスがいた。
今日はなんだか、彼と話したかった。
「お疲れ様です」
「コンビニバイトに話しかけてくるタイプなんですね」
「いえ、今日だけです」
「人魚さん、よく来ますよね。ボク、顔覚えるの苦手なんですけど、すぐ覚えました。人外のお客さん、人魚さんくらいなんで」
“人外”と言われたことに少し引っかかったが、否定する言葉はなかった。
「よく話しかけてくれましたね。ボク、結構怖がられるんで」
「そんなことないと思います。セルフレジに勝ってる瞬間を見てました」
「セルフレジに勝ってる? あ、そういうことですか」
ミノタウロスは笑いながら首を横に振った。
「人間って最初のひとりについていくだけなんです。セルフレジにひとり並んだらみんなそっちに並ぶし、ボクのレジに並んだらボクの方に並ぶし」
話していたら、後ろに人が並び始めた。確かにミノタウロスの言う通りなのかもしれない。
ストロング缶を受け取る。
帰ろうとして、振り返った。
「もしよかったら」
「はい」
「ご飯でも行きませんか」
なんだか今日は誰かとご飯が食べたかった。
ミノタウロスは大きな目を少しだけ丸くした。
「いいですね」
ミノタウロスは笑って答えた。
「もうすぐ上がりなんで、二十分くらい待ってもらえます?」
「じゃあ立ち読みしてます」
「ごめんなさい。うち立ち読み禁止なんです」
しかたがないので店を出た。
駅前のファミレスへ向かった。
窓際の席に案内される。
ドリンクバーだけ注文して待った。
しばらくするとミノタウロスがやって来た。
ピンク色のワンピースを着ていた。
「あれ」
「どうかしました?」
ミノタウロスは慣れた顔で笑った。
「多分、勘違いしてましたよね?」
「勘違い?」
「ボク、メスなんです」
驚いた勢いで、ストローから泡が飛び出た。
「すみません」
「たまに間違えられるで、気にしないでください。骨格ストレートだから」
「いや、一人称が」
ミノタウロスが店員を呼び、ドリンクバーとコーンスープを頼む。
店員とのやりとりのあいだ、気づかれないように、そっと胸元を見た。胸筋のようにも見えたものは、あきらかに柔らかそうで、動くたびに微かに形状を変化させた。
「社会出てから“ボク”にしたんです」
「なぜですか?」
「なんとなくです」
何か話題を変えようと考えていたら、まだ名前を知らないことに気づいた。
「名前、なんて言うんですか?」
「名前はないんです」
「役所の手続きとか困りませんか?」
「とても困ってます」
「やっぱり」
「でも、いいんです。ミノタウロスでわかるから」
「そうですか」
「人魚さんは?」
「成田って言います。周りからはナリエルって呼ばれてます」
「いい名前ですね」
料理が来た。
ミノタウロスはコーンスープを信じられないくらい下手に飲んだ。
口に入る量よりピンクのワンピースに飛ぶ量の方が多かった。首元から胸元の内側にもコーンスープが流れていた。
ミノタウロスはコーンスープを飲み終えてから言った。
「あの」
「はい」
「敬語、疲れません?」
「疲れます」
「じゃあ、やめません?」
「あ、そうしましょう」
そう言ったのに、そのあとも少し沈黙が続いた。
敬語をやめても会話が増えるわけではなかった。
とりあえず、仕事について聞いた。
「なんでコンビニで働いてるの?」
「お金のためかな」
「それ以外は?」
「思いつかない」
「そっか」
「華やかな仕事が見つかったら辞めると思う」
「華やかな仕事って?」
「わかんない」
ミノタウロスは笑った。
「ナリエルは何の仕事してるの?」
「女の子向けのシールとか、雑貨とかそういうの作る会社の営業かな」
「楽しそうな仕事だね」
「いや、全然」
「じゃ、どうしてそこで働いているの?」
「わからない」
「それなのに、よく働いてるね」
ミノタウロスは、ドリンクバーのおかわりを取りに行った。
知らない色に濁ったドリンクを持って戻ってきた。おそらく色々、混ぜてきた。
「それ美味しい?」
「わからない」
「飲んでみて」
「不味い」
「なんで、そんなの飲むの?」
「これ飲むと味覚がゾワゾワして、生きてるって感じるんだよね」
ミノタウロスはそう言いながら、一気に飲み終えた。
「あ、ごめん。続き。親は反対した?」
「した」
「でも東京来たんだ」
「うん」
「すごいね」
「別に」
「親に仕事の話はする?」
「しない。最近、今の仕事に転職したけど、それも言ってない」
「そっか」
気づくと僕ら以外の客がいなくなっていた。
やたらお皿を下げにくる店員をみて、帰ることを促されてることにようやく気づいた。
「とりあえず僕が払うわ」
「え、いいのに」
「たいした額じゃないし」
「じゃ、次はボクが払う」
ファミレスを出て、駅前で別れた。
「じゃあまた」
「また」
「次はコンビニ?」
「コンビニからのファミレス」
ミノタウロスはそう言って歩いていった。
ツノが街灯に照らされていた。
人混みに紛れても、しばらくはどこにいるのかわかった。
