転職組のマーメイド ⑥
ハズレの営業車は、そのまま自分に割り振られた。
バンパーの傷は、時間が経てば味になるかと思っていたが、全くそんな気配は訪れなかった。
適当な時間に行っても会ってくれるという理由で、ハチミツコーポレーションに今日も通う。
「ごめんね。提案してくれた水族館のシール、決まらなかった」
テーブルの向こうで加藤さんが申し訳なさそうに笑った。
「そうですか。残念です」
「やっぱり価格がね」
「そうですよね。また何かあれば声かけてください」
「あ、忘れてた。ごめん。ちょっと待って」
加藤さんが一旦、席を外す。
封筒を持って戻ってきた。
「これ」
「現金ですか?」
「そんなわけないでしょ」
中には水族館のチケットが二枚入っていた。
「先方がくれたんだけど行かないから。よかったら」
「いや、そんな」
「有効期限もあるし」
二枚。牛の顔が浮んだ。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
チケットをカバンにしまって、営業車に戻る。
エンジンをかける前にタバコを一本吸った。
灰皿の中に吸い殻を無理やり詰める。
ミノタウロスが言っていた華やかな仕事というものは、きっとここには落ちていない。
夜、コンビニへ寄る。
今日もストロング缶を持って有人レジへ行くと、いつもどおりミノタウロスがいた。
「またストロング缶?」
「うん。またストロング缶」
「身体壊すよ」
「これで壊れるなら本望」
「ボク、後三十分でバイト上がる」
「ファミレス行く?」
「うん」
「先行っとくわ」
いつものようにファミレスでドリンクバーを頼む。
ミノタウロスが来る前に、自分も飲み物を混ぜてみた。
コーラとオレンジジュースとメロンソーダ。
アップルジュースと野菜ジュースとジンジャーエール。
カルピスと爽健美茶とココア。
ミノタウロスが来た。
今日は水色のワンピースだった。
「何してるの?」
「研究」
「成果は?」
「世界が終わったような味」
「よかった」
「何が?」
「ナリエルも生きているんだね」
ミノタウロスは満足そうにコーンスープを注文した。いつもみたいにスープを撒き散らしながら啜る。
完食して、しばらくしてから言った。
「ナリエル、相談していい?」
「なに?」
「今日泊めてもらえない?」
ミノタウロスは、何もためらう様子もなく言った。
「なんで」
「電気止まった」
「お金ないの?」
「ない」
「貯金は」
「ゼロ」
「すごいな」
「褒めないで。照れる」
断る理由も思いつかず、結局、泊めることになった。
「朝、すぐ出てくから」
「気にしなくていいよ。明日休みだし」
ミノタウロスは部屋へ入るなりジロジロと観察しはじめた。
「思ったより普通」
「どんな部屋を想像してた?」
「海藻とか生えてるのかと」
「人魚を何だと思ってるんだよ」
風呂を沸かす。
「着替え持ってきてる?」
「無いけど着てる服をもう一回着る」
「貸すけど」
「ほんと?」
「着てないのあるから」
「助かる」
「タオルと一緒に、洗面所に置いておくから」
先にミノタウロスが風呂に入る。
湯が身体にあたっている音が聞こえた。
なんとなく落ち着かない。
種族が違うから何も起きるはずはないのに、少し緊張した。
ミノタウロスは鬣をドライヤーで乾かしながら、戻ってきた。半袖のパーカー姿。
「なんでこんな服買ったん?」
「買ってない。もらった」
「誰に?」
「母親」
「なんか、ごめん」
部屋に微妙な空気が流れた。
「なんか適当にくつろいで」
「わかった」
ミノタウロスと入れ替わりで風呂へ入る。
誰かが入った後の風呂に入るのは、実家にいたとき以来だった。
ドアを開けると温かい湯気が出てくる。
湯船には細かい茶色の毛がたくさん浮いていた。
風呂にいても落ち着かず、いつもより早くシャンプーを切り上げた。
風呂から上がると、ミノタウロスが何かに息を吹きかけている。
紙コップと割箸で作った風車だった。
「使い方合ってる?」
「合ってる」
「イラストはナリエルが描いたの?」
「そう。下手だろ」
「うん」
「否定しろよ」
「ボクも描いてもいい?」
ミノタウロスはマジックを手に取った。
迷いなく線を引く。
青の棒人魚の横に茶色い小さくデフォルメされたミノタウロスが現れた。
「うまっ」
「でしょ」
ミノタウロスが風車に息を吹く。
青と茶色が回る。
二つの色が混ざる。
青い人魚と茶色いミノタウロスが、何度も入れ替わる。
そのまま見ていた。
気づくと眠っていた。
目を覚ましたときには、昼に近かった。
カーテンの隙間から、強い陽が入る。
隣にミノタウロスはいなかった。
半袖のパーカーが綺麗に畳まれてクッションの上に置かれている。
風呂場を覗く。茶色の毛はきちんと処理されていて、掃除したことのない排水口まで綺麗になっていた。
玄関を見ても、彼女の靴は無かった。
そこには自分のカバンだけが昨日の状態のままで置かれている。水族館のチケットがチャックの隙間から少し見えた。
リビングに戻るとテーブルの上に紙切れが置かれていることに気づいた。
『電気代の目処がついたので帰ります』
字はあまり上手くなかった。
しばらく紙切れを眺めながら、隣に置いたままの風車に息を吹きかけ、回る色をただ眺めた。
習慣になりかけた日々は、そう簡単に定着しなかった。
忙しい日々は、落ち着くことはなかった。
気づけばフロアに残っているのは自分と数人だけだった。
パソコンを閉じるころには、あのときファミレスで会計をしていた時間だった。
それでも、コンビニに行く。
やはり、ツノはどこにもない。
代わりに若い店員が手際がよさそうに商品を袋に詰めていた。
何も買わずに店を出た。
次の日も。
その次の日も。
気づけば、水族館のチケットの有効期限が今週末まで迫っていた。
仕事は片付いていないが、早めに上がる。
コンビニまで走るとガラス越しに見慣れたツノが見えた。
店内に入り、ストロング缶を持ってレジに並ぶ。
「久しぶり」
「うん。待ってた」
ミノタウロスは笑いながら、ストロング缶のバーコードをスキャンした。
「ストロング缶さ。どうせ毎日買うなら箱で買えばいいのに」
「ここ高いじゃん」
「毎日買うなら一緒じゃん」
ミノタウロスは、僕の顔を見ずに言った。
「遅いよ……」
「え」
「ボク、今日でコンビニ最後だから」
「クビ?」
「違う」
まだ後ろに誰も並んでいないことを確認して、会話を続けた。
「次はどこのコンビニ?」
「なんでコンビニ限定なの?」
「コンビニ以外、想像つかないし」
「コンビニじゃないよ」
「じゃあ何するの」
「ナリエルにだったら言ってもいいかな」
ミノタウロスは少し考えるように間を置いた。
「ボク、ストリッパーになるの」
ストリッパー。
ストリッパー。
ストリッパー。
頭の中で何度か繰り返す。
「この前さ。街歩いてたらスカウトされて」
「絶対やめとけ」
反射的に言っていた。
「なんで?」
「なんでって」
うまく言葉が出てこない。
でも、ただ嫌だった。
「そいつ、絶対ミノタウロスを見せ物にしたいだけだよ」
言った瞬間、ミノタウロスは固まった。
「見せ物?」
「だってそうだろ」
少し沈黙のあと、静かに聞かれた。
「ナリエルさ」
「なに?」
「ボクの身体見たことないよね」
「え」
「ボク、自分の身体結構好きなんだよね」
ミノタウロスは少し笑った。
確かに彼女の顔とツノと、コンビニの制服姿と私服のワンピースしか知らない。
「でもみんな勝手に可哀想って言うんだ」
何も言えなくなった。
「ボクの身体も見たことないくせに、偉そうなこと言わないでよ」
「そういう意味じゃない」
「そういう意味だよ。結局、ボクをよくない目で見てたんでしょ」
「違う。心配なんだよ」
「なんで?」
また答えられなかった。
ミノタウロスはため息をつく。
「じゃあ、ストリッパーになるって親に言えるのかよ」
「言えないよ」
「ほら。そんな仕事したらダメだって」
「でもさ、ナリエルも親に今の仕事の話してないんでしょ」
「それとこれとは全然違う」
「違うかな。ボクは“言えない”。でもナリエルは“言わない”。ボク、そっちのほうが不幸だと思うな」
コンビニのBGMが急に聴こえなくなり、ミノタウロスの声だけが聞こえた。
声は、そのままクレッシェンドしていき、僕の耳を支配していく。
僕はストロング缶をカバンに入れるついでに、水族館のチケットも奥の方にしまった。
ミノタウロスは、そのまま渡すはずのレシートを裏返すと、ボールペンを取り出し何かを書く。
「何してんだよ」
「ボクの身体が見たかったらおいでよ」
店の名前と住所だった。
「行かないよ」
「そうだと思った」
「なんだよ」
「自分と離れそうな人を追うのが恥ずかしいんでしょ。そりゃ孤独になるよ」
ミノタウロスは笑った。
何も言わずにコンビニを出た。
マニュアル通りの、ありがとうございましたが聞こえる。
捨てればよかったレシートを二つに折り、財布にしまった。
家までまだ距離があるが、ストロング缶を開けた。
炭酸の泡が口の中で痛く弾けた。
