第35話 【7カ国目タンザニア】キリマンジャロ5日目③(UHURU PEAK5,895m)「ピュレグミとステラポイント」
「酸っぱい—」
白い粉を塗した紫色のグミの人工的な酸っぱさが口の中から全身を震わす。
標高5,000mを超えたキリマンジャロで僕は日本のグミに救われ次の一歩を踏み出していた—
ピュレグミのエナジー

次の休憩で僕は大合唱集団に追いついた。
白人の彼らは国籍こそは分からないが、家族のような感じでどこか楽しげだったのを覚えている。
「ありがとう。」
心で呟きながら、僕はシャリシャリの水筒を飲みほす。
「ははは。ここで凍った水飲んでるの俺だけじゃないか。」
歯に水の冷たさが染みて笑えてきた。
時刻は3時半過ぎ。
既に登り始めて4時間弱が経過していることにびっくりしたと同時に急激にお腹が減っていることに気づく。
登山的な感じで行くと「エネルギーが切れてきた」という感じだ。
かといって僕は補給食になるようなクッキーやフルーツを持っていなかった。
この時、朝食のクッキーを持ってこなかったことを深く後悔した。
ていうかそもそも、初日登る前にチョコレートやらドライフルーツやらの補給食を買っとこうと思わなかった自分に少し腹立ちを覚えた。
まー、怒っても仕方ない。
隣で緑のエナジードリンクを飲んでいるガイドはこの手のことには無関心である。
「さっきは青で次は緑かいな...ぷぷっ」
ちゃっかりエナジードリンクを色を変えて2本持ってきてるぶっきらぼうな僕のガイドに笑ってしまった。
(次ピンク出してきたら思いっきり笑ってやる)
そんなことを思った自分にも笑えてくる。
笑ってもお腹は減ったままだ。
仕方がないのでお守りのつもりで持ってきていた「ピュレグミ(グレープ)」を食べることにした。
これはケニアの日本人宿でEさんに貰ったやつだ。
まさかこんなところで食べることになるとは思わなかったが、こんなところに持ってきていた自分を褒めたくなった。
僕は手袋を外し、凍えて悴んだ手でピュレグミの袋を開ける。
1粒手に取ると僕の手の感覚がないからか、それとも冷たい空気のせいなのか紫色のピュレグミがいつもより硬い気がした。
そのまま口に放り込む。
「モッグ...モッグ...モグッ...」
ゆっくりと噛み締めると、ピュレグミのザラ付いた酸味の効いた粉が舌を刺激してくる。
その刺激は舌の根から奥歯の方に伝わり右頬を強制的に持ち上げる。
氷点下20度の極寒の中、ピュレグミの酸味でブルブルッと身体が震えた。
もう1粒袋から取り口の中に放り投げる。
「ピュレグミってこんなに酸っぱかったっけ...?」
身体を震わせながらいつもとは違うピュレグミに集中してみた。
口の中に広がるのは明らかに今の状況とは掛け離れたチグハグな味と食感だった。
例えれるならどんな感じだろうか。
映画館で小説を読むとか、
便器に座ってトンカツ定食を食べるとか、
真冬の真夜中の公園でラジオ体操第一をするとか、
服を着たまま温泉に入るとか。
そんなチグハグな感じ。
とにかく状況と恐ろしく似つかわしくない感覚だった。
ただ口の中に広がるいつもより強い酸味は僕のエネルギーが枯渇していることを教えてくれたし、いつもより硬い食感は自分が雪山にいるという現実を呼び覚ましてくれるようだった。
まあ要するに分かりやすい刺激が朦朧としていた僕の意識をはっきりさせてくれたのだ。だからピュレグミはお腹を満たす以上に気合いを入れ直すという意味で大きな効果を発揮してくれた。
まさかケニアで出会ったEさんも、ピュレグミが困難を乗り越えさせるなんて考えていなかっただろう。
「Eさん。ありがとうございます。」
僕は心で両手を合わせて呟く。
その後も何粒かを順番に食べた。その度に左右の頬筋が強制的に持ち上がり僕の身体をブルッと震わせた。
「じゃ行くかたけ。」
緑色の液体を飲み干したモーガンの声でエナジードリンクよりもエネルギッシュなピュレグミをリュックに戻すことにした。
「それにしてもピュレグミって美味しいな。」
標高5,300mで僕はピュレグミの美味しさに救われ次の一歩を踏み出していく—


5,756mステラポイント
正直この後のことはよく覚えていない。
"この後のこと"とは正確にいうと"2回目の5,500m辺りでの休憩から5,756mのステラポイントまで200mと少しのことだ。
どんな道をどんな気持ちでどんな風にに歩いて行ったのか思い出せない。
おそらく1時間以上は急斜面を登っていたとは思うけど、なんだかその道程だけが思い出せない。
この物語を書くために読み返している日記にも、この区間の部分の描写がほとんどない。
書いてあるのは、「いつの間にか先頭にぶつかって」という文言だけだ。
多分「無心」だったんだろう。
それくらいの疲労が僕を包み込んでいたことは間違いない。
ただ思い出せない道中の気持ちを「先頭にぶつかって」という1行を頼りに手繰り寄せてみようと思う—
止まらない放屁
2回目の休憩も10分ほどで切り上げた。
ホットドリンクで一息している大合唱の家族を追い抜き僕らは先頭に立った。
...と思ったが、少し歩くともう1グループ僕らの前に現れた。
ここからの道は前を歩く人達を追い抜くのが困難で、その少し後ろをトボトボと歩いていた。
これまでずっと早いペースで僕の5m先を行くモーガンだったが、先が詰まったせいで僕のすぐ1m前を歩いていたのを印象的に覚えている。(どんなガイドやねん)
何故印象的だったかというと、「おならが恥ずかしくなった」からだ。
実は昨日から放屁(おなら)が止まらなくなっていた。おそらく高山病のせいだ。(下山後調べたら本当にHAIFUという悪魔の高山病だった)
とにかく僕は、どんなにキツくて、どんなに寒くて、どんなにエネルギー切れでもおならが止めどなくでる放屁マシーンと化していた。
特に5,000m超えた辺りからは歩く度に「ブッ」と放屁していたと思う。
「はぁはぁ。キツイ」ブッ
「足が滑るぞ」ブッ
「寒すぎ凍っちゃうよ」ブッ
こんな感じ。
深刻な状況はお構いなしに軽快でヒップでポップな放屁音が雪道に溶けていく。
幸いモーガンは先に行っていたし、周りにも他の登山者はいなかったので心置きなく「ブッブッブッ」と放屁しまくっていた。
それが、ステラポイントまでの道のりで急に恥ずかしくなったのだ。
そのことをやたら覚えてる。
モーガンに放屁を聞かれたら恥ずかしい。出るならすかしっ屁で頼む—
今更なにを言ってるんだい...という感じなのだが、そう思った。
ただそれでもお構いなしに放屁欲が僕を襲う。
一度先頭集団が止まり仕方なく僕らも止まった時があった。
モーガンは一応ガイドとして振り返り僕に「大丈夫か?後少しでステラポイントだ」と言ってきた。
この時放屁しそうになった僕はお尻の穴を閉めてこう答えた。
「うん大丈..」ブッ(あっ...)
閉めていたお尻の穴が僕の意思とは無関係に開き、こっちを見るモーガンに聞こえる大音で放屁をかましやがった。(俺がかましたんだけどね)
あたかも屁で返事をしてしまったかのような感じである。
しかし、モーガンは僕の返屁(あ、返事)を聞くと何事もなかったかのように前を向き歩き出した。
「なんか言ってくれよ。笑うとかさ...」
...と、なんだか逆に恥ずかしかったが、目の前を歩く男が昨夜、真剣な顔で「明日はうんこを漏らしても良い」と言っていたのを思い出した。
それから僕は、心置きなく放屁をしまくることにした。
放屁の力なのか気がつくと頂上(ウフルピーク)前の最終チェックポイントのステラポイント5,756m地点に辿り着いていたのだ—

人が多く皆んなPeakSign(山頂標識前)で写真撮影をしていた
最後の戦い〜ウフルピーク〜
「たけ。まだ休みたいか?」
ステラポイントで5分ほど休んだ後、モーガンはこう聞いてきた。
そう聞くモーガンの姿は僕を急かしているようでもあった。
「いいや。いいよ。もう行こう。」
そう答えて僕らは集団を追い抜いて集団の先頭に立ち頂上を目指すことにした。
5分の休憩と他の登山者
ステラポイント(STELLA POINT)5,756m—
それはキリマンジャロ登山において重要なチェックポイントである。
頂上のウフルピーク(UHURU PEAK5,895m)前に訪れるその場所は、多くのルートが合流する。
そして、ここを境に道は緩やかになり200mの標高を2km程の道のりで登ると頂上ウフルピーク(UHURU PEAK)に到着する。
ほとんどの登山者にとってこのポイントは一旦の目的地+最後の休息場所となるのだ。
ちなみにここステラポイントまででも登頂証明書が正式に発行されるのである意味ゴールと言っても過言ではない。
その証拠に吹雪かれているステラポイント(STELLA POINT)のPEAK SIGN(山頂標識)の前では順番に写真撮影が行われていた。
どんなにぶっきらぼうで必要以上の事を言わないとしてもモーガンも一応ガイドである。
「たけ。写真撮影したいか?」
こう聞いてきた彼にとってステラポイントは一応ガイドをする上で無視できない場所らしい。
だがこの時の僕はステラポイントがなんなのかよく分かってなかったし寒すぎてそれどころではなかったので「いいや。」と答えた。
大きな岩陰には10人くらいの腰を下ろす集団を前にガイドのリーダーみたいな人がなにやら声を張り上げていた。
おそらくこんな感じ。
「後少しで頂上だ。気負うことはない。君たちはここまでまで来たんだ。まずはあったかい飲み物でも飲んで落ち着こう...」
...みたいなことを言っているのだろう。
それを聞いている集団の表情がどこか柔らかくてというか、ふにゃっとしていて同じ登山者には思えなかったことをよく覚えてる。
それをぼーっと見てる僕にモーガンが「まだ休憩するか?」と聞いてきた。
まだこのポイントについて5分しか経ってない。
モーガンの問いかけはほとんど「もう行こう。」と同義語だった。
僕もなんだかステラポイント(STELLA POINT)に漂う青春チックな雰囲気に居た堪れなくなって、「いいや。もういいや。行こう。」と答えた。
そうだ、ここまで俺はずっと一人だったんだ。
そう思うとなんだか元気が湧いてきた。
俺は自分を信じて進むだけだ。
このステラポイント(STELLA POINT)で全ての登山者を追い越して僕らは先頭に立った。
「そういえば登り始めた時は結構前にいたよな...」
そんなことを思ったが、目の前を行くモーガンのスピードに合わせてごぼう抜きしてきたことを思い出す。
とにかく沢山の登山者を僕は抜き去って進んできた。
他の登山者が休憩している岩陰を超えて最後の道の入り口に向かう。
既に登頂アタック開始から5時間半が過ぎていたが、まだ辺りはヘッドライトなしでは進めない。
日の出は5時半頃と聞いていたが、雪が舞うこの世界にはまだ陽の光は届いていなかった。

ステラポイントを抜けると目の前には180度の開かれた世界が顔を出してきた。
しかしその全てが真っ白で道の境目すら分からない。
「ああ、世界が一変しやがった。もう本当に頂上に指が掛かってるんだ。」
僕はそう呟いて最初の一歩を踏み出していった—
〜④に続く〜
キリマンジャロ登山④〜最後の戦い〜
