わたしに流れる赤川 第二話
老婆はふうっと息を吐き、ぽつりぽつりと話し始めた。
◆
わたしは山奥の貧乏な家で育ち、数えで十五になるころ東京のあるお宅で女中を始めた。家の手伝いばかりで尋常小学校にもろくに行かれなかったが、遊郭に売られなかっただけましだった。
女中先は財閥系の会社に勤めている旦那様、婦人会の活動に精を出している奥様、わたしより年上のご子息の三人家族。わたしは上野にあるその家に住み込みで仕事をしていた。
奥様に頼まれたことなら、なんでもやっていた。朝から木桶の中で洗濯物を揉み、広い屋敷の床を膝が擦り切れるまで雑巾で拭くそんな毎日。
「田舎にはこんなに広い床なんてないのかしら? いつも埃っぽいわ」
帰宅するなり小言をぶつけてくる奥様と、それに気づかぬふりで書斎にこもる無口なぼっちゃん。そんなわたしに「いつもご苦労さん」と、葉巻の煙をくゆらせながら微笑みかけてくる旦那様。
学校にもほとんど行かず畑仕事ばかりしていたわたしは、字もまともに読めず、息抜きに雑誌を眺めるなんてこともできやしない。台所の小窓から見える景色を眺め、故郷の山が見たいと思うことが束の間の休息。
そんなある日、女中先を出入りする酒屋の担当が変わった。いつも白髪を生やしたおじさんだったが、腰を痛めたとかで代わりに丁稚奉公人が来るようになった。
その日。「配達です」といつものおじさんの挨拶はなく、お勝手口からトントンという音が聞こえた。家人は誰もいないのに、と不思議に思いながら戸を開けると、知らない若い男性が立っていた。
「この家の女中さん? ただの酒屋の配達ですよ、驚かないでください」
目を丸くして口を覆うわたしを見て、その人はカラッと笑った。白い肌に赤い頬と、丸みを帯びたきれいな坊主頭。幼さを滲ませたその笑顔は、風が吹きぬけるように爽やかだった。
「名前は、なんて?」
「ナツコです」
「ナッちゃんって呼んでいい? 俺の名前はクドウ ユキヒコ。ユキヒコでいいよ」
馴れ馴れしい、いや、人懐っこい人だと思った。こちらが客って立場なのに、彼がわたしより一つ上ということがわかったら、しだいに敬語なんてまったく使わず話すようになった。
「ナッちゃん、俺が脅かしたら毎度驚いてくれるよね。本当に面白い」
「ナッちゃん字が読めないの? 今度教えてあげるよ」
彼はお勝手口の戸を叩いたあと、どこかに隠れてわたしを脅かしてきたり、奥様の帰りが遅くなるときはわざわざ縁側まで来て字を教えてくれたり、お茶目で面倒見の良いお兄ちゃんのような人だった。
「ここの配達はいつも最後にしてんだ。ナッちゃんと少しでも話したいからさ」
酒瓶の重みを受け取った手が、小さく震える。ちょっぴり赤ら顔の彼にそう告げられた瞬間、わたしは俯いてしまった。鏡なんてないから、自分の顔がどうなっているかはわからないけど、熱が顔の表面から指の先までじわじわと伝染していく。全身の血が沸騰したかのような熱さで。
耐えかねて顔を上げると、ユキヒコさんの背後には、真っ赤な夕陽が東京の空をてらてらと染め上げていた。
彼は岩手県の盛岡より北にある、鉱山が近い場所に故郷があるようだった。
「八幡平の山には街があって、人がたくさんいるんだ。松尾鉱山っていうんだけど、硫黄がたくさん取れてさ」
「山に大勢の人が住んでるの?」
「そうそう、誰も彼もが豊かでさ。そこは『雲上の楽園』って呼ばれてるんだよ。俺の親戚もみんな、そこで働いてるんだ」
「楽園……」
「俺は末っ子で、こっちの親戚に預けられて奉公しているわけさ」
わたしの田舎の山には、人よりもたぬきや猪の方が多く棲んでいて、山というのは獣の棲家という印象しかなかった。だから、なんて不思議な山があるんだろうと驚いた記憶がある。
「俺の住む村からは『岩手富士』って呼ばれる岩手山が見えてさ。大きくてきれいな山で、夏の青々しい岩手山も、頭が真っ白になった冬の岩手山もどちらも素晴らしいんだよ」
「いいわね。とってもきれいなんでしょうね」
「いつか、一緒に見ようね」
ユキヒコさんはまるで目の前に山があるかのように、遠くの空を見つめる。目を閉じると、ユキヒコさんと手を繋いで、青空の下の岩手山を見ているような気持ちになって、じんわりと温かいものが胸に広がった。
「俺の故郷にはくるみゆべしっていう、砂糖をたっぷり使った、くるみの入ってるお餅があるんだ。うんと甘くて、たまらなく美味しいんだよ」
ユキヒコさんは何かを愛でるようなやさしい表情を浮かべ、わたしの鼻にまで甘い匂いが漂ってくるようだった。
「今はこんな戦争で、砂糖の配給もありゃしないけど……戦争が終わったらさ、ナッちゃんにお腹いっぱい食べさせてあげたいよ」
ユキヒコさんはそう言って、霜焼けで赤くひび割れた手をわたしの右手にそっと重ねてくれた。その約束が甘ったるくて、わたしはそれだけでお腹も胸もいっぱいになった。
奥様は、ユキヒコさんとわたしが一緒にいるところを見かけるといつも眉根を寄せる。
「酒屋の丁稚と無駄話なんかしてないで、早く晩の支度をしてくださいな」
貧乏くさい物言いが、奥様のきれいなお召し物と相反してて、なんだか可笑しかったけれど。
ユキヒコさんが帰ってしまうと、変わらぬ灰色の日常。晩の支度をして、湯を沸かして。すべてが終わったあとも気は抜けやしない。
女中部屋の戸の内側に、木を斜めに立てかけないといけないのだ。戸が、決して開かぬように。
屋敷中の電灯が消え、夜の鳥が不吉に鳴くころ。トントンと木を叩く乾いた音が部屋に響く。すぐに女中部屋の戸ががたがたと微かに震え始め、入ろうとしてくる。
「ナツコ、ナツコ、開けてくれないか。ちょっと話があるんだ」
酒を飲んだ日の旦那様は、奥様にもぼっちゃんにも聞こえないような、けれど狭い女中部屋の空間には届くねっとりとした低い声を出す。
闇に目が慣れていく中、わたしはただ、じっと息を殺す。布団の端をむしるように握りしめて。
「ナツコ、聞こえてるんだろ。お前明日から出てってもらうぞ。いいのか。開けろ、開けろ」
こちらがどんなに息を潜めていても、いくら時計が時を刻もうと、旦那様は戸を叩くのをやめない。嵐が過ぎるのを待つかのように、ただ朝を待ち望んだ。
旦那様が晩酌する日は決まってその来訪があり、わたしの気持ちはまったく休まらなかった。
「ナツコさん、主人に色目を使ってるんですってね」
ある日、奥様にそう言われ、背中に包丁を当てられたようなヒヤリとしたものを味わった。どうせこの人に本当のことを言ったって信じてもらえない。ただ、頭を下げることしかわたしにはできなかった。
こんな場所から早く抜け出てしまいたい。行く当てもないけれど。小窓の外に、手を繋いだわたしとユキヒコさんが岩手山を眺めている景色を想像した。
わたしたちの目の前で山は季節を廻る。長い雪化粧から徐々に青い木々が萌え、秋には深い赤になり、「あっという間に一年が過ぎるね」なんてユキヒコさんと笑い合って。そんな夢物語で、旦那様の夜の訪問も、奥様からの嫌味も消し去るよう努めていた。
ユキヒコさんも奉公先で苦労しているようだった。ある日、顔にあざを作って配達に来たことがある。
「ナッちゃん、はいこれ」
「ユキヒコさん、それどうしたのよ」
「はは、これ? 若旦那に売上を盗んだって疑われてさ、殴られたんだ。だから、わざわざご近所さんにこの顔を見せてやってんのよ」
驚くわたしに、彼は清々しく笑った。その笑顔を見て、わたしたちみたいな身分は報われないのかと、やるせない気持ちになった。
戦況が悪化し、東京も何度か空襲にあったころ、ユキヒコさんがぽつりと言った。
「ナッちゃん。今度空襲があったら、どさくさに紛れて逃げちまおう」
思ってもみない提案に、わたしは耳を疑った。
「逃げちまうって、どこに」
「岩手山の見える俺の故郷にさ」
ユキヒコさんのその話に、岩手山を眺める空想が朧気なものから急に輪郭を帯びた。
「どうやって逃げるの」
「空襲があったら避難所に行かず上野駅に行くのさ」
「上野駅に? 駅も危ないわ」
「ほら、あそこには地下道があるから、爆撃機から隠れられる。そこで落ち合おう」
「でも……」
「あとは闇市で食い繋ぐなりして。上野駅から東北本線で北に向かおう。二人分の生活の蓄えならある。何日かかってもいい。なんなら、一緒に死んだっていい」
真剣なユキヒコさんからの申し出に、わたしは嬉しくって何度も何度も頷いた。わたしの手を握るユキヒコさんの手はかじかんでいたけれど、「ナッちゃんの手は温いね」と言う彼の手を温められることが、この上ない幸福だった。
そのころは東京も雪が降るくらい寒くて、岩手に行ったら二人で雪景色の岩手山を見られるかもしれないと、淡い期待を抱いていた。
そして、あの日の夜。
夕食後、旦那様が酒瓶を開けているのを見て、わたしはいつものように女中部屋の戸が開かぬよう木の棒を斜めに立てかけ、布団に横たわった。
しんとした静けさがうるさいくらいの夜。旦那様は予想通りわたしの部屋の前に現れ、そして、いつもより激しく戸を叩いた。とんとん、とやさしい音ではなく、どんどんと容赦のない音で。
「いい加減開けろ、お前は強情っぱりだな」
旦那様は、奥様にもぼっちゃんにも聞こえるような大きな声でそう叫んだ。その声がわたしに届かぬよう、わたしがこれ以上傷つかないよう、きつく、ぴたりとわたしは耳を塞いだ。
「そんなんじゃ嫁になんか行けんぞ。男の経験のひとつやふたつしたらどうだ」
おぞましい、ただただ底知れぬ恐怖を感じる。自分の息子より歳下の女中に対して、何故そのような考えに至るのか不思議でたまらない。
きっと、戸の向こうには旦那様ではなく、般若のように恐ろしい顔の鬼がおり、わたしを喰おうと目論んでいるのだろう。
あぁ、この世に桃太郎なんて存在しない。桃太郎がいれば、こんな鬼を倒してわたしを助けに来てくれるはず。白いはちまきをしたユキヒコさんが犬や雉や猿を連れ、わたしを助けに来る馬鹿馬鹿しい想像をしながら、必死に目を瞑った。
少しばかりの静寂のあと、鬼が囁いた。
「ナツコ、お前、酒屋の丁稚とよろしくやっているみたいだけどな。あいつなんか、俺の力でどうにだってできるんだぞ」
金縛りのように身体が固まる。ユキヒコさんとわたしが会っているところを見られているのか。奥様が話したのか。「俺の力」で、ユキヒコさんはどうにかされてしまうのか。
考えを逡巡させているうちに金縛りが解け、ユキヒコさんが何かされてしまうなら、と縋るような思いで戸に近づいた。
立てかけた木を外そうとすると、「父さん、もうみっともないからやめなよ。部屋に戻ろう」と、ぼっちゃんのぼそりとした低い声がした。
どくどくと自分の鼓動の音がやかましい。乱れた呼吸を整えようと必死に深呼吸をしていると、鬼とぼっちゃんの足音は廊下の遠くに消えた。
学もない田舎娘のわたしが、ふたまわり以上歳上の人間にへんな目で見られていること。そのことをほかの人間に知られたことが、ただただ恥で仕方なかった。
たしかにぼっちゃんに助けてもらったには変わりない。だけれど、桃太郎の話で鬼に囚われた娘は、こんな気持ちではなかっただろう。
だって、ぼっちゃんは桃太郎ではなく、鬼の息子。鬼の血が流れているんだもの。
また鬼が来るかとしれないと身体が勝手に震え、興奮状態でまったく眠ることができなかった。時計がカチカチと鳴る音に無機質な永遠を感じていると、ボーンと0時の鐘が鳴り早く眠りにつかなければと目を閉じた。
サイレン。
それほど時が経たぬうち、つんざくような空襲警報が鳴り響いた。世界の終わりのような地響きと共に。
そのときのわたしは気が動転していたのか、恐怖よりも期待に満ちていた。鬼が戸を開けようとするガタガタとした音より、サイレンの方が幾分もいい音に聞こえてしまった。
それはきっと、「空襲があったら一緒に逃げよう」と言ったユキヒコさんの言葉を思い出したから。
わたしは飛び起きて簡単な荷物をまとめた。部屋を出ようとしたとき、ふと、暗闇の中で旦那様と奥様の寝室の戸が目に留まる。
――あいつなんか、俺の力でどうにだってできるんだぞ。
脳裏に、さっきの鬼の囁きが苦く蘇る。気がつけば、わたしは自分の部屋の戸を塞いでいた木の棒を、両手で固く握りしめていた。
迷いなく旦那様たちの部屋の重い引き戸枠に、外側から斜めに木の棒をはめ込んだ。ギチッ、と木肌が擦れる鈍い音。
そのまま、わたしは家を飛び出していった。赤く燃え上がる、東京の夜の底へ。
