わたしに流れる赤川 第三話
「それって、旦那様と奥様が外に出られないようにってことですか?」
老婆はわたしの質問には答えず、ただに静かに口角を上げる。ゴーッという腹に響く音と共に、新幹線は暗いトンネルに差し掛かろうとしていた。
◆
ユキヒコさんが言っていた集合場所、上野駅は女中先から近かった。すぐにでも会いたいと、はやる気持ちで駆けていく。
照明弾のせいで、夜の街は昼間のように明るい。空を支配する夥しい数の爆撃機。
それまでの空襲とは、明らかに様子が違っていた。何の抵抗もできない蟻の巣に、嬉々として水を流し込む子どもの無邪気さを思い出す。爆撃機から見れば、逃げ惑うわたしたちなんてきっと蟻のよう。
鼻をつく焦げた匂い。竈の中に入れられたような熱気。逃げ惑う人たちをかき分け、のぼせ上がる頭で、わたしは何とか上野駅の地下道へ滑り込んだ。
悲壮、恐怖、戸惑い。様々な暗い顔がその地下道を埋め尽くす。そこは、わたしのように火から免れようと逃げてきた人たちで溢れ返っていた。
「ハナエさん?」
「ゆりちゃん、生きとったかね」
肩が当たれば人違いをされる。わたしもそのうちの一人で、藁にもすがる思いで爽やかな風を出す人間を探し続けた。
ユキヒコさん、ユキヒコさん、ユキヒコさん。
声を枯らすほど、何度もその名を呼んだ。わたしに気づいてもらえるように。
地下道を端から端まで歩いてみたが、空襲から逃げてきた人たちだけで、爽やかな風を出す人間なんてどこにもいない。ユキヒコさんは迷っているに違いない、明日には会えるだろう、とわたしは呑気に考え、地下道の冷たい地べたに座り込み抱え膝で眠り込んでしまった。
「ナッちゃん、ナッちゃん起きて」
優しく肩を叩かれ目を覚ますと、目の前にはユキヒコさんがいた。わたしが声を出す前に、「すぐに列車が出るよ」とわたしの手を取りすぐ列車へと駆け込む。
「ねぇ、ユキヒコさん今までどこにいたの?」
「心配いらないよ。ここにいるから」
ユキヒコさんは、わたしがずっと見たかった笑顔を浮かべていた。
列車は海岸沿いを通って、何時間も何時間も飽きもせずわたしたちを北へ運んでいく。海は夏のように爛々と光を放っていた。不思議と乗客はおらず、最近よく耳にする列車爆撃もなくて、何もかもがすんなりと進んでいくよう。
「ナッちゃん、食べる?」
ユキヒコさんは向かいの席から、あるものを渡してくれた。
「これは?」
「ほら、くるみゆべしだよ」
いつか縁側で教えてくれた、たっぷりの砂糖とくるみが入った餅菓子。
「これ、どうしたの? どうやって作ったの?」
「ナッちゃん、俺は何だってできるよ。さぁ、食べて」
満面の笑みのユキヒコさんを前にそれを一口頬張る。くらくらするほどに甘い。さつまいもより、いや小さい頃に一度だけ食べたキャラメル以上にとびきり甘かった。
「あっちに行ったら松尾鉱山で働こう。親父に話をつけてもらうよ。そしたらさ、一緒に住むんだ」
「わたしたち、二人で?」
「そうだよ。こんな戦争きっとすぐ終わるよ。そしたら、一緒になろうね」
海から金色の陽を浴びて、ユキヒコさんの身体の輪郭は、白くぼんやりとしていた。いつかのように何度も頷きながらも、わたしの目からはボロボロと大粒の涙が溢れてくる。
「泣かないでよ、ナッちゃん、泣かないで」
ユキヒコさんがわたしの涙を拭う。あぁ、冷たくも温かくもない。
列車が爆撃されないなんて、ひとっこ一人いない列車なんて、甘い甘いお菓子が食べられるなんて、これはきっと。
「ナッちゃんは泣き虫だね」
ユキヒコさんは幼児をあやすよう困ったように笑い、わたしの頭を撫でる。必死にこの世界にしがみつこうとした。わたしの作り出した、この世界に。
「おい、おい起きろ」
肩を叩かれ目を覚ますと、強い喉の渇きを感じた。
「お前、無事だったんだな」
わたしの目の前には鬼の子、いや、ぼっちゃんがいた。一瞬にして血の気がサーッと引き、疲れて眠いはずなのに冷や水をかけられたように目が覚める。
くるみゆべしの甘さなんて、口には微塵も残っていなかった。
「ぼっちゃん、どうしてここに」
「この辺の人間は、何かあったら上野駅の地下道に逃げようとなってるからな」
ぼっちゃんは寝巻きに半纏を着ていて、着の身着のまま逃げてきた様子が窺えた。
「あの、旦那様や奥様は?」
「……お前さ、わかってるだろ?」
その冷徹な目は、わたしに向けられた鋭利な小刀のようだった。思わず息を呑む。わたしの脳内に空襲警報が響き、旦那様の部屋の戸に木を立てたときの、あの乾いた木の感触が手に蘇ってきた。
飛ぶ蝶を追うように目が無造作に動いてしまう。ぼっちゃんに動揺は悟られた、全ての罪を知られてしまった。そう思った瞬間、心臓が嫌な音を立てて跳ね、指先からじわじわと体温が奪われていく。
数分前までの甘い夢から、一気に底なしの暗闇へと突き落とされたようだった。
「あの……これからどうすればいいですか?」
「あんなんじゃ助かるはずもない」
ぼっちゃんはわたしの言葉に被せるようそう言った。
「え?」
「俺が逃げようと思ったときは、もう両親の部屋は火が回ってたんだ。お前の部屋と、俺の部屋が幸い火の手が回ってないだけだったんだよ」
ぼっちゃんはそう言うと悔しそうに歯軋りをし、その表情は優しい鬼のように思えた。この人はわたしがしたことを知らない。ただその安堵も束の間で、次にぼっちゃんが口に出した言葉がわたしの細い首を絞めた。
「そういや、ここに来る途中酒屋の方は火の海だったな」
「え……」
「でも、父も母も酒屋の丁稚も、ここじゃなくて、違うところに逃げてるかもしれない」
膝を抱えてうなだれるわたしの前に立ち、懸命にそう気遣いの言葉をかけてくれた彼を、初めて人間だと感じた。ぼっちゃんは「またここで落ち合おう」と言って去っていった。
わたしは空襲の明くる日も地下道を往復し、「ユキヒコさん、ユキヒコさん」と名前を呼んで歩いた。何かが焼けた匂いが鼻をつき、「熱い」「喉が渇いた」「水をくれ」などという声が飛び交っている。
地上に出てみるとそこは地獄絵図で、何もかもが焼けた街は色を失っていた。記憶を頼りに酒屋の方に行こうと試みたが、どこが酒屋だったのか、どこが道だったのかさえ判別のつかない状況だった。
近くの避難所をいくつも回り、ユキヒコさんの名前を呼ぶ。皆すすけた黒く暗い顔をして東京の街を彷徨っていた。
「心当たりのある場所は大体回ってきた」と言うぼっちゃんも何も手掛かりはなさそうだった。わたしたちは来る日も来る日も探し続けたが、一週間経っても二週間経っても手掛かりは一向に見つかりそうにない。
冷たい風が頬をかすった。
脳裏に大きな岩手山が浮かんだ。あぁ、もしかしたらユキヒコさんは先に約束の場所へに行っているのかもしれない。きっとわたしが来るのを待っているに違いない。
焼け野原を見つめるぼっちゃんの裾を引っ張り、わたしは一縷の望みにかけてある提案をした。
「ぼっちゃん……。いやヒロシさん」
初めてその名を口にすると、彼はこちらを凝視した。
「わたし、岩手県のある鉱山に知り合いがいるんです。あの、仕事の話をつけてもらいますから、一緒に行きませんか?」
ヒロシさんは、まるで見たこともない生き物を目の当たりにしたかのような顔をしている。
「……岩手なんて辿り着くのにどんだけ時間がかかるんだよ。ましてや、わけもわからない鉱山をあてにするなんて」
わたしは生きよう、どんな手段を使ってでも。ユキヒコさんに逢うために。
「その鉱山、家も食べ物も娯楽も何もかもがあるそうです」
十代の女がひとりで遠くまで行くなんて心許ない。この男も身寄りがないのは同じ。わたしは鬼の子を存分に利用させてもらうことにした。
ヒロシさんは少し考え「……稼げるのか」と聞いた。確証もなくわたしは頷いた。
そのあと、わたしたちは焼け野原に立った闇市で、出所もわからない干し芋を分け合い、泥のように濁った水を交互に飲んだ。わたしは月々の給金を溜め込んでいたから金だけはあった。
動き始めた列車は、ガラスの割れた窓から容赦なく冷気を入れる。ユキヒコさんの話していた八幡平、松尾鉱山という言葉だけを頼りに、わたしたちは長時間列車に揺られひたすら北を目指した。
車窓から射す光は、向かいでうたた寝するヒロシさんの輪郭はくっきりと浮かび上がらせる。光の方向に目をやると、見える波面にはパチパチと光が散りばめられていた。
持参した硬い干し芋を口に運び、目を閉じる。夢の中のくるみゆべしを思い出すように丁寧に咀嚼すると、のみくだす前に口の中ですでに溶けていた。
その土地には、列車を乗り継ぎ辿り着いた。既に四月が近づいていたが、息を吐くと東京よりも遥かにはっきりとした白い息が空気に溶けていく。
「ナツコ、すごいぞ顔上げてみろよ」
そこには、岩手山が存在感を放っていた。誰が言わずともこの土地の主であるということを示しているように。
前に広がる雄大な土地は白銀に染まっている。聳え立つ姿は、想像以上に気高く目に映った。
雲一つない冬の青空の下、空っ風がぴゅうとわたしたちの前を駆け抜ける。襟巻から出たわたしの頬を刺すその寒さに、ユキヒコさんの冷たい手を思い出した。
「あの、クドウ ユキヒコさんはこちらにいらっしゃいますか」
風呂敷に包んだ荷物を担ぎ、ヒロシさんと松尾鉱山の事務所でその名を訪ねた。受付の男性は訝しげにこちらを見る。
「あんた誰だい。それ知って、どうすんだ?」
「その人と、一緒に働く約束をしているんです」
男性は眼鏡のレンズの隙間から見上げる形でこちらを見る。
「うちは何千人も働いてるから、時間かかるぞ」
そう言って、受付の奥に入っていった。
「ナツコ、クドウ ユキヒコって誰なんだ?」
「わたしの知り合いです」
ヒロシさんは納得したように頷き、立ったまま壁に体を預け目を閉じた。
昼前に事務所を訪ね、その答えを何時間も待った。事務所前を行き交う人々は空襲後の東京のような黒く汚れた格好をしている人たちばかりだが、東京と違って生きる活力に満ちた空気が流れている。
窓から射す光は段々と傾いていき、ヒロシさんの所在なげな影が伸びる。
その影を見ながら、彼を哀れに思った。まんまとこんな北の土地へ連れてこられ、なんてかわいそうな人。あなたの両親はわたしに殺されたに違いない。ここでユキヒコさんに会えれば、この男ともお別れだ。
唾を飲み込む。すると、ほのかに溶けていった干し芋の味がした。
ガチャリ、という音で自分が事務所の前で眠っていたことに気がつく。
外は、黒い闇に包まれていた。
