笑いと僕 第1話:海老反り

僕のこれまでの人生は、「笑い」という得体の知れない怪物に右へ左へと翻弄されたものだった。笑いとはそう、人が面白いと感じたときに発するアレである。英語にしたら”laugh”(ラフ)である。

始まりは、中学に入学したあの春のことだった。

小学生の頃の僕は、間違いなく教室の「圧倒的リーダー」だった。 全校生徒を合わせても100人たらずで僕の学年には17人しか同級生がいない、そんな小さな小さな地元の小学校。勉強をやらせれば誰よりも解くのが早かったし、運動神経もそこそこ良く、同年代の男子の中では体も大きい方だった。他に僕を脅かすような秀才も、目立つスポーツマンもいない閉じた箱庭の中で、僕は6年間ずっと王様気分で過ごしていた。学級会でも、体育の授業でも、放課後の遊びでも常に輪の中心にいるのが僕の定位置だった。 卒業間近には、女子二人から告白までされた。自分はどこへ行っても主役で、周りに人が集まることが当然だと信じ込んでいた。

わずか半年間、日能研に通い難関の中学受験に合格したときも、「まあ、オレなら当然だな」くらいにしか思っていなかった。すこぶる、嫌な小学生だ。

しかし、中学の校門をまたいだ瞬間から、その自信は音を立てるように崩れ出していった。

最初の授業、数学の「正の数・負の数」でいきなり理解が追いつかなくなった。 マイナスを引くって、一体どういうことなんだ。数字から数字を引くのは分かるが、マイナスの状態を引くとはどういう現象なんだ。 僕が頭の中で霧のような混乱と格闘している横で、周りの同級生たちは鉛筆を小気味よく走らせ、何食わぬ顔で黒板の数式を解き進めている。授業のスピードは容赦なく、それに異議を唱える者はいない。教科書を流し読みするだけで満点が取れていた過去の栄光は、誰かがページをめくる音にかき消されていった。

教室での立ち位置も、小学生の頃と目に見えて変わった。それまで日常茶飯事であった、何かで目立ったり先生に褒められるということが一切なくなった。自分以外の誰かが名前を呼ばれ、黒板の前で称賛を浴びている光景を、僕は生まれて初めて「ただのモブ」として席から眺めていた。

自分より遥かに運動ができる奴、模試で平然と全国上位ランキングに名を連ねる奴、大人のような落ち着きで自然とリーダーになる奴、周りから勝手にイジられ愛される奴、かわいくて勉強もできる育ちの良いお嬢様。そんな人たちの中で小学校時代のように目立つことは到底できなかった。次第に僕は愛想笑いでやり過ごしたり、誰かの顔色を窺ったりという場面が増えた。

間違いなく、クラスの中では平均以下の存在。
昨日までは揺らがなかった万能感が、音を立てながらガタガタと崩れ落ちていった。 放課後、地下鉄に揺られながら僕は自分が一体何者なのか、自分のアイデンティティとは何なのか、漫然と考える日々が続いた。

透明人間になってしまうことが、怖かった。 このまま誰の記憶にも残らず、ただの背景として中学生活を終えるのか。 その焦燥感から逃れるように、僕は夜、親が寝静まったリビングのパソコンにかじりつくようになった。

青白い光の中に映し出されていたのは、『ガキの使い』のフリートークだった。 視聴者のハガキからトークを展開する昔のダウンタウンの映像がYouTubeにはいくつも上がっていた。松本人志はハガキに対してあらぬ方向へトークを展開していく。そして毎回常識の枠組みを根底からひっくり返すようなとんでもないオチをつける。そして浜田は、暴力的なツッコミをいれることで間を作り、ちょうどいいところで松本の暴走を止める。まさに彼らのトークは予測不能であり、刺激的であり、「面白」かった。まるで、見てはいけないものを見ているようだった。

なぜダウンタウンが面白いのか、その緻密な構造や技術なんて、当時の僕には何ひとつ理解できていなかった。ただ、「面白い」という圧倒的なカリスマに惹かれ、笑いが支配する空間を見続けていた。 「ここでこの言葉を挟むのか」「こういう時はこうボケるのか」。トークの勉強のつもりで、松本の口調や仕草を頭に焼き付けた。

松本がいつもやっていた、ネクタイの端を制服のズボンにねじ込むのを真似して中学に行ったりもした。しかし、ダウンタウンを見ただけですぐに笑いが取れるようになるわけもなく、昨日深夜に見た覚えたてのワードをクラスで脈絡なくぶち込んでは、見事に空気をしらけさせた。同級生たちの「あ、、、」みたいな視線が突き刺さり、教室の温度が数度下がるのを感じるたびに、背中にはじっとりと冷たい汗をかき、家に帰ると後悔の念に押し潰され、またダウンタウンを見るのであった。

僕の言葉はなかなか、誰の心も震わせられなかった。それでも何とかして、笑いを取りたい。

その鬱屈したエネルギーがようやく爆発したのが、中二の秋の昼休みのこと。

班ごとに机を向かい合わせにして、弁当を食べる時間。 校内放送のスピーカーから、ももいろクローバーZの『行くぜっ!怪盗少女』が流れてきた。

僕がももクロを好んで聴いていることは、クラス内でもなんとなく知られていた。

――チャイムが鳴ったら急いで集合、宿題なんかはしている暇ない♪

派手なビートと早口のラップが、なごやかな教室の空気をピリピリと震わせた。その瞬間、クラスの陽キャグループのひとりがニヤつきながら箸を止め、僕を囃し立てた。

「おい! 流れてんぞ! やれよ、お前ならいけんだろ!!」

周囲の視線が一斉に突き刺さる。 「やれやれ!」「見せてみろよ!」 教室の空気が、僕という獲物を中心に急速に渦を巻き始めた。

かつての僕なら、そんな安っぽい煽りに乗ることはなかった。「なぜ俺がそんな下品な真似をしなきゃいけないんだ」と鼻で笑い、誰かにやらせるのが小学校のリーダー様だったはずだ。人に指を差されて芸を強要されるなんて、最も惨めな敗北だと思っていた。

だが、何者でもなくなった僕には、守るべきプライドなんて一欠片も残っていなかった。 欲しかったのは、ただひとつ。この教室の空気を一撃で塗り替える、圧倒的な音だけだった。

曲がCメロへと差し掛かり、ももクロ・百田夏菜子のソロが空気を切り裂く。

――無限に広がる 星空よりも キラキラ輝く みんなの瞳♪

僕は不敵な笑みを浮かべながら煽りに応え、席を立った。「いや、さすがに、さすがにしないよ」と言いながら教室のど真ん中に位置どった。

――何より愛しい宝物だから いつも全力で歌おう踊ろう笑おう♪

パンッ!!

曲中のけたたましい発砲音と同時に、ひざを曲げ、床を全力で蹴り上げた。 百田夏菜子が曲中でやるように、空中で、背骨がへし折れるんじゃないかというほど、身体を極限まで弓なりに反らせた。無様で、無謀で、命懸けのエビぞりジャンプ。

参考:ももクロ百田夏菜子さんのエビぞりジャンプ

空中で僕の身体がエビぞりの形になった瞬間、ドォッ! と教室の壁が吹き飛ぶかのような爆笑が炸裂した。

「ぎゃはははは! マジで飛びやがった!!」 「あっひゃっひゃ! やべえええ!!」

机を叩いて転がる陽キャたち。女子たちの引きつった笑い声。教室中のありとあらゆる声が混ざり合い、誰が笑っているのかも分からない巨大な濁流となって僕の全身を飲み込んでいった。

あまりにもウケすぎてしまったことに、どうしていいか分からなかった。 笑いの余韻に包まれながら、「……そんな面白かったですか?」と言わんばかりのすまし顔を作り、僕はコソコソと自分の席へ戻った。久しぶりに注目の的となり、妙に居心地の悪い空気の中で再び弁当を食べ始めた。

「おい、最高だったぞお前!」
陽キャとグータッチ。

口の中に運ぶ冷めたおかずを噛み締めながら、胸の奥底は高揚感に満ちていた。とてもとても、誇らしかった。皮肉にも僕に笑いを取らせてくれたのは、ダウンタウンではなくももクロだった。

トークではなく身を削り、成り振り構わず身体を投げ出して、ようやく他人の感情を自分の手で動かすことができた。自分が滑稽な「道化」になることで、空間全体が揺らぐほどの笑いを生み出すことができたのだ。そして陽キャやクラスの人達に認めてもらえた気がした。自らを犠牲にして笑いをとる「おいしさ」を、この時覚えてしまったのだ。

バカにされているのか、ウケているのか、その境界線はどうでもよかった。 ただ、自分が差し出した無様な海老反りと引き換えに返ってきたその爆音だけが、空っぽになった僕の輪郭を再び型取った。




いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集