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わが心の近代建築Vol.113 秩父宮記念公園/静岡県御殿場市

みなさん、こんにちわ。
今回静岡県御殿場市の箱根外輪山の麓、静岡県御殿場市の箱根外輪山の麓にありVol.62の東山旧岸邸の近くにある、秩父宮記念公園について記載します。秩父宮記念公園は昭和大帝の1つ下の弟君である秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひと殿下が労咳に侵されたのち、療養のために住まわれた場所で、1941年から、52年に鵠沼に移転するまで過ごし、終戦時の玉音放送についても、この邸宅で聞いたことが伝えられ、現在は主屋のほか、穀蔵、車庫、防空壕などが残されています。

箱根外輪山の麓から富士山を臨む
(御殿場市HP”御殿場の魅力”より転載)

【秩父宮記念館について】
秩父宮記念公園は、もともとは、血盟団事件で暗殺された大蔵大臣 井上準之助いのうえ じゅんのすけが別邸を構え、ゴルフ場なども保持し、その広さは18000坪になります。
秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひとが居を構えたのち、時代もあってかかつてのゴルフ場は、食糧難の織には一時農場として使用されました。
カボチャなどを栽培されました。
勢津子殿下も殿下の御介護の傍ら、自ら鍬を持ち従事し、一時的に病状が快復された殿下も近隣の農民とともに畑作業を行います。殿下夫妻は家畜飼育もおこない、羊毛生産の研究をし、乳しぼりまで習得し、両殿下は農業の実践や復興に励まれ、周囲からは「宮様の農事試験場」と呼ばれました。

農作業に従事される秩父宮両殿下
(邸内展示パネルより転載)

1950年には陶芸家加藤土師萌かとう はじめ(1903〜1968)により三峯窯棟が作られ、1992年にはご高齢になられた勢津子妃殿下のための新館が作られました。
秩父宮勢津子ちちぶのみや せつこ妃殿下の御遺言で、御殿場別荘は御殿場市に寄贈され、2003年より秩父宮記念公園として、一般公開されています。

秩父宮記念公園 全景
(邸内展示パネルより転載)

【秩父宮両殿下について】
秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひと殿下

1902年に、昭和大帝の一つ下の弟宮として生誕します。
昭和大帝絵と同じく、幼いころより沼津御用邸で過ごし、20歳の成人とともに秩父宮家を創立し、若き日の殿下はスポーツを愛好され、特にスキー・ボート・登山を好まれたほか、様々なスポーツの後進に尽力されたことから「スポーツの宮様」と親しまれました。
また、太平洋戦争より一貫して戦争拡大に反対し、労咳もあり、戦時中より御殿場に居を構え、御静養生活を送ります。戦後は執筆活動をなされ、その姿は国民から親しまれましたが、1952年に居を鵠沼に移し病状が悪化し、1953年に薨去こうきょされます。

秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひと殿下
(Wikipediaより転載)

秩父宮勢津子ちちぶのみや せつこ妃殿下
秩父宮勢津子ちちぶのみや せつこ妃殿下は、1909年に旧会津藩主 松平容保まつだいら かたやすの4男、松平恒雄まつだいら つねお氏の4女として生誕し、殿下と結婚の際に貞明皇后のお名前、節子とお名前が同じことから勢津子せつこと改名します。
学習院初等科時代には、白洲正子しらす まさこと御学友で、御殿場の樺山伯爵別邸でよく遊んだことが伝えられ、勢津子夫殿下にとり御殿場は幼少期より親しまれた土地となります。
殿下が薨去こうきょされたのちも、夏季を中心に御殿場で過ごされ、殿下が労咳に悩まされた経緯から、結核撲滅にご尽力され、1995年に勢津子妃殿下が薨去こうきょされたのち、お子様がいなかったことから秩父宮家は絶家します。

秩父宮勢津子ちちぶのみや せつこ妃殿下
(Wikipediaより転載)

❏建物メモ
秩父宮記念公園
●文化財指定:御殿場市指定有形文化財
●写真撮影:可
●入館料:¥300
●参考文献:BS朝日放映 『百年名家』など
●交通アクセス
 JR御殿場線 御殿場駅より徒歩25分
 (タクシーだと10分)
●留意点
 ・送迎バスあり
・西の間/サンルームについては、西側窓を開けての見学

【主屋について】
❏田舎家移築に関して

昭和初期に茅葺屋根の邸宅を移築することがブームになりますが…
①カントリーハウスを表すものとして
②民芸運動の一環として
③野趣に富んだ茶屋建築として
といった3つの側面がありますが、御殿場御別邸は、殿下がイギリスに訪問した際に見たカントリー・ハウスに見立てて作られたタイプになります。

田舎家移築の例と用途
(自身で作成)

邸宅は、馬屋部分と土間部分を井上準之助が住むにあたり洋間に改造し、炉の間、西の間部分はもともとの小宮山家の意匠を大きく残し、殿下の療養の場として、式台部分をサンルームに改造された部分を張り出すことにより、日差しが入りやすくしました。

主屋平面図
(邸内展示パネルより転載)

【主屋外観について】
❏主屋全景を臨む

主屋部分は寄棟の茅葺屋根となり、御殿場市の深沢界隈の有力な名主だった小宮山家の邸宅として1723年に建立されたのち、1927年に移築されます。
主な部分としては、井上準之助邸時代に改造された部分を基調としています。

主屋全景を臨む

❏南東外観部分
土間や馬屋などが置かれていましたが、井上準之助の別邸として移築された際に改造されました。かつての馬屋などは、洋間に改造された際に、窓が付けられ、窓ガラスにはステンドグラスがはめ込まれています。
現在の出入り口はもともとは大戸で家族が使用した出入り口になります。

南東外観を臨む

東側にも窓ガラスが設けられ、こちらにもステンドグラスが取り付けられています。写真右端はレンガ壁が付けられていますが、邸内には暖炉が取り付けられ、元々は煙突が付けられていましたが、現在は撤去されています

東側の窓枠とレンガ部分を臨む

❏西側部分
写真右側部分は、小宮山家時代は濡れ縁になり、左側には式台玄関が付けられていましたが、両方とも井上準之助が移築した際に改造されました。
写真左側はサンルームに使われていたものの、秩父宮殿下が静養するため、サンルーム部分を更に張り出した形になっています。

写真左側を臨む

サンルームの土台下にはトロッコが付けられています。
戦時・戦後にかけての栄養不足が社会問題化し、秩父宮邸でも、野菜などを敷地を利用し、自給自足にしましたが、それらを運ぶ際に運搬用に使用しました。
なお、農作業も、殿下の体調の良い日には、自ら製作活動に勤しみました。

玄関西側からトロッコを臨む

西側部分からは富士山を臨めますが、邸宅の座敷部分から眺めることができるように配置されました。
なお、目の前はもともとはゴルフ場だったものを、戦時・終戦直後には野菜を栽培して自給自足の生活が行われました。

西側部分から富士山を臨む

西側脇にある銅像は、秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひと殿下の銅像になり、作者は朝倉文夫(1883~1964)の作品になります。
先述のように、殿下は結核に侵される前は自身でスポーツを行い、特に登山を好まれたことから、登山をされる姿が描かれています。

西側に置かれた秩父宮雍仁ちちぶのみや やすひと殿下の銅像

【邸内について】
❏玄関部分

先述の大戸だった個所に付けられた玄関から邸内に入ると、スロープが付けられていますが、こちらで靴を脱ぎます(現在は記念館より入場)両サイドを壁で仕切っており、壁の反対側が先述の東側部分になり、洋間が付けられています。

玄関部分を臨む

❏居間部分
これがかつて、農家の馬屋と疑いたくなるような高級感あふれる意匠になります。この部屋を上手にアレンジしたのは井上準之助になり、両殿下はこちらの部屋をそのまま使用しました。
柱などの骨格に関しては、使用した小宮山家の意匠を活かした造りになり、机などはイギリス留学時と同じく斜めに置いています。

居間を臨む

柱部分はケヤキ材を使用し、梁部分はマツ材を使用しているほか、壁部分に葉柱を飾り、イギリスのハーフティンバー様式風にしています。窓ガラスはひし形のステンドグラスを貼り、腰壁を設けた洋間になります。

居間部分の柱と梁

インテリアにも目を見張るものがあり、オックスフォードに留学した際に使用したものを持ちかえったもので、勢津子妃殿下もロンドン郊外で生まれたため、御夫婦ともイギリス文化に精通していました。

殿下がイギリス留学時に使用していたソファー

この部屋で最大の特講ともなるのがレンガ積みの暖炉で、室内の奥まった部分に置き、天井を医1段低くし、両サイドに椅子を置く、イギリスの伝統建築のイングルヌック風にしています。

イングルヌック風にした暖炉

❏炉の間
炉の間は、両陛下が靴楼だ室内になり、15畳の室内になります。
妃殿下は毎朝水質の良い中坪の井戸から水を汲み、お茶を淹れました。殿下は日用品に「用の美」を見出し、素朴でドッシリした民芸派の器を好んで使用しました。

炉の間 全景

炉の間で注目したいのが、天井部分で長年にわたり燻された煤竹を使用していますが、こちらは小宮山邸時代のものと言われています。
また、天井の梁部分には曲がった材ではなく、角材を使用していることから。小宮山家の財力を伺い知ることができます。

天井部分

なお、炉の間の鉄器に関しては、秩父宮殿下とも昵懇の間柄だった河井寛次郎かわい かんじろう(1890-1966)の作品になります。
河井寛次郎は、初期こそ中国古陶器に倣った華麗な索引を作成していましたが、柳宗悦らと『民藝運動』を推進し、作風は素朴な作品に変わり、「用の美」を推進。また、幾度も人間国宝に推薦されますが、全て辞退し生涯を一陶工として終え、現在は自宅兼仕事場を記念館として公開しています。

河井寛次郎が作成した鉄器

❏北側部分
炉の間の奥側は、夫人室などに使用されました。
この部屋の奥はかつての小宮山家時代に使用された上段の間の後が残されています。

炉の間反対側の部屋

❏西の間
縁側部分を臨むと、床板は縁側に沿って1枚板が敷き詰められた、切れ目縁という、室内に直角になるように配置された意匠になりますが、他の床部分と比較し、更に高級な材を使用しています。窓は2重サッシとなり、移築時に、この縁側部分から富士山を臨むことができるように配置されています。

西の間縁側

次の間部分を臨むと8畳間となります。
竿縁や天井部分などの細かい部分に関しては、繰り型が付けられるなど、秩父宮時代に改造されたと推測されます。その一方、宮廷建築にしては、非常にシンプルな造りとなります。

次の間部分

座敷部分も8畳間になります。 
殿下はこちらを居室とし、床柱は絞り丸太とし、床脇部分も天袋てんぶくろがあり蚤の非常にシンプルな室内になっています(書院部分は写せず)。
隣の室内は看護師の方の待機所となり、殿下の急な体調変化などがあった際にも応対を可能にしていました。
なお、1945年の8月15日での玉音放送を殿下夫妻はこの部屋で聴いたことが伝えられています。

西の間 座敷を臨む

❏サンルーム
小宮山邸時代は、式台玄関が設けられていました。
井上邸時代にサンルームに改造されましたが、殿下の静養のため、更に陽が入るように張り出して付けられました。
これにより、元々の状態より更に陽が入っるようになりました。

サンルームに改造された部分

【庭園について】
❏杉並木部分
秩父宮記念公園に入る前に並木道になっていますが、御殿場の景観を愉しむことができます。邸宅はここよりさらに奥まったところにあり、別邸へのアプローチを愉しむことができます。

邸宅へ続く並木道

❏東屋
東屋部分は妃殿下が、皇族や外国の来賓を招いたとき、ここでバーベキューのおもてなしを愉しまれました。
石の水溜め部分には箱根の山の水をためてビールやワイン、おしぼりを冷やすために使用されました。
屋根は定期的に檜の皮で吹き替えが行われました。

東屋部分

❏防空壕部分
邸内に防空壕は、両陛下のもの、将校のもの、民間人のものの3つが備えられ、現在、両陛下のものと将校用のものが一般公開されています。
両陛下の防空壕は、1945年3月に造成を開始し、6月に完成します。
その後。7月30日の御殿場駅周辺を襲った空襲時に退避されるのに使用され、8月15日に終戦を迎えました。

両陛下が使用した防空壕

設計工事には当時の地元生徒が参加し、室内は特殊掩体とくしゅえんたい(かまぼこ型の大きな強度の建物)になり、躯体に遮断層として1.5m程度積み、その上に土をかぶせたものになります。
両陛下の避難場所に爆弾が届かないよう、防空壕内はジグザグに組まれています。

防空壕内部

❏編集後記
御殿場御別邸については、いままで存在は知っていましたが、今回改めて訪問しましたが、非常に見どころ多い邸宅でした。
また、イギリス郊外のカントリーハウスの意匠と日本の茅葺の田舎家を融合させた邸宅で、秩父宮殿下の生活とともに今後さらなる研究が行われる邸宅と強く感じました。
改めて再訪問したい、そんな場所になります。

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