わが心の近代建築Vol.78 旧一条恵観山荘/京都府京都市→神奈川県鎌倉市
みなさん、こんにちわ!!
前回は、旧華頂宮邸について記載しましたが、今回は、旧華頂宮邸と同じく鎌倉の報国寺界隈にある邸宅として、旧一条恵観山荘について記載します。
旧一条恵観山荘は、今から370年前…
後陽成天皇の第九皇子であった一条恵観によって、京都 西賀茂に建てられた山荘で、歴史的には1646年(正保3年)に茶会が行われた記録があります。
外観こそ何の変哲もない田舎家風の山荘になりますが、恵観自身が設計した山荘で随所に雅な設えが施されていますが、長年放置されて忘れ去られたものを1959年に鎌倉に移築され、鎌倉の高低差を活かした土地に、見事に映えています。

【旧一条恵観山荘 HP写真より転載】
≪たてものメモ≫
旧一条恵観山荘
●竣工年:17世紀中頃
●設計者:一条恵観自ら関わる
●移築担当者:
●文化財指定:国指定重要文化財
●入館料
・入館料:¥500
・建物ガイド:¥1500
●写真撮影:可(フラッシュ厳禁)
●参考文献:
・BS朝日放映「百年名家」
・一条恵観、堀口捨巳に関してはWikipediaを参照
など
●交通アクセス:
JR横須賀線鎌倉駅より「浄明寺」停留所 徒歩1分
→京急線 金沢八景からもバスあり
●留意点:
旧一条恵観山荘の邸宅内見学は、HPより事前予約の必要あり
≪施主 一条恵観について≫
一条昭良(恵観)【1605~72】は江戸前期の公卿。
御陽成天皇の第9皇子として生まれ、関白 一条内基の養子となり、一条家を継ぎ一条家14代目当主につきます。
これにより、一条家は近衛家・鷹司家とならび、皇別摂家に。
一条昭良はのち、摂政、関白を歴任し、1652年に出家し、恵観と名を改めます。

≪移築担当者 堀口捨巳≫
設計担当を行ったのは堀口捨巳(1895~1984)で、若き日は東京帝国大学同期の山田守らとともに分離派建築会を主催し、江戸東京たてもの園に保存されている旧小出邸の設計などを担当。
当初はモダニズム建築に傾倒するも、のち、日本の数寄屋建築に美を見出し、日本の伝統建築とモダニズム建築の統合を図るほか、伝統建築保存にも尽力。旧一条恵観山荘以外にも、国宝 如庵移築なども担当します。

また、自身が教授を務めた明治大学では、工学部の中に建築学科を設置するなど活躍し、1984年に世を去ります。

なお、この邸宅に門も、堀口捨巳氏が、江戸初期の邸宅の状況を想像して設計したものとなります。

≪邸宅外観について≫
正面部分からのぞむと、一見すると田舎家風の佇まいでありながら、茅葺屋根の下に瓦屋根が並ぶ独特な佇まいになり、周囲の自然に溶け込む姿となります。
また、こちらの屋根に関しては、貴族住宅では珍しいい茅葺屋根になっていますが、その下にはこけら葺屋根、更にその下には、板張りの化粧屋根が重なる3重構造となっています。

南庇6畳の間からの景観は、蹲(つくばい)、飛び石なども京都 西賀茂から移築したものになり、金森宗和好みのものに仕立て上げられています。
施主の一条恵観と金森宗和の関係は、恵観が宗和に茶を切望した際、茶の湯を立てるため、柄杓をもった宗和が何かを考えこむように、次の間に下がり、再び戻って茶の湯の用意を始めますが、その際に宗和が手に持っていた柄杓は5分ほど短くなっていた、などという話があります。

≪平面図について≫
室内の配置は、伝統的な田舎家風の造りとはうって変わり、中央部分の部屋は、周囲を囲む縁座敷が中央部分の室内を囲む、平安時代に完成された貴族邸宅の建築様式である「寝殿造」の流れをくむもので、各部屋を仕切る壁は殆どなく、壁は殆どなく、邸内は非常に開放的な造りとなっています。

≪室内部分について≫
Ⅰ:土間部分
入口の土間部分を臨むと、数寄屋風の設えとなり、沓脱部分は竹を使用。
土間部分に関したは、京都 西賀茂から移築する際、堀口捨巳氏により、この邸宅が建てられた17世紀の時代を推測して作られています。なお、当時は、こちらが通常の玄関として使用されました。

2:室内回廊部分に関して
Ⅰ:南庇中の間
玄関を上がり、南庇中の間を臨むと、そこには一気に雅な世界観が広がります。
下地窓は大きくとられ、奥に見える杉戸絵とのラインをそろえ横側への広がりを強調しています。また、天井を見ると、竿縁には竹を使用し、軒桁には絞り丸太を使うなど、野趣に富んだ趣になっています。
また、杉戸絵と画面右側の下地窓の配列を見ると、舞台の上下にあわせて設えており、一条恵観の美意識に触れることができます。

また、こちらの杉戸絵は、建物よりも古いものと推測され、のちの人形定璃々に繋がる「人形廻し」が描かれています。
5体の人形が1列に並んで、それを操る人間は舞台下にいる不思議な状況を描いたものです。

なお、この杉戸絵にはドラマがあり、これは一般的にはあまり知られていませんが、人形浄瑠璃作家の近松門左衛門(1653~1725)は、もともとは一条恵観の警護役を務めた侍の身分。
若き日、一条江観を通じて様々な文化に触れることにより、のちに人形浄瑠璃作家へと転身。
当然、若き日の近松門左衛門もこの杉戸絵を見て、のちに氏の創作活動に大きな影響を与えたと言われています。

Ⅱ:東4畳半の間
こちらの部屋は、邸宅の中での「おもてなしの間」とされていて、特徴的なのは二重棚と、引き出しの裏の炉にありますが、炉は3カ所設けられており、炉であ田食べられた空気が煙道を通り、上の棚を通じて天井まで回り、3重構造の屋根を通じて建物全体を温める…
現代でいう所の、セントラルヒーティングの役割を果たし、炉の上の棚には、食事が置かれ、温める仕組みにもなっています。

Ⅲ:北庇中の間
北庇中の間部分、水屋になり、こちらの杉戸絵は、一見すると牛に見えますが、右側に御膳が見え、お香が焚いてあり、着物に香り付けをしている場面を描いています。

≪中心部分について≫
Ⅰ:東の小間
こちらの部屋に関しては、各部屋に繋がる部分になり、障子や襖など、各部屋に使う建具により、室内の格を分けています。

Ⅱ:2畳間の座敷部分
ここからの部屋は、その場所により格が次々に上がっていきますが、まず最初に部屋は、2畳間になり天井部分は網代天井になります。

こちらの部屋で注目したいのが、2階棚部分。
戸棚の小襖には打雲紙(うちぐもがみ)というものを使用。
上部に青い雲、下部に赤い雲を描き、晴れの日は、青い雲を上部に、雨の日は赤い雲を上に向けるようにして使用。
そのため、どちらの面を向いてもよいように、引手は中心部分に付けられています。

また、こちらの襖部分は新しいものになっていますが、恵観が使用していたものが京都に残っており、江戸時代の唐紙を現代によみがえらせたもので、雲母で作られた菊菱の文様が見る角度によって、見え方が変わってくるしくみになっています。

≪中の間部分≫
中の間部分は、更に質が高くなり、天井部分は網代天井になり、庭側部分の竿縁のみが湾曲していますが、庭園側に目線を活かせるような仕組みになっています。
そして、襖部分の下部分には「カゴメ」が組まれており、全体的に曲線と直線を使用した部屋となっています。

また、仲の間部分の畳の縁は「大紋高麗縁」といわれる、かつては宮廷建築のみしか使用が赦されなかった縁を使用しています。

また、この室内の襖の引手に関しては、見てのとおり、平仮名の「の」の字が描かれていますが、これに関しては、次の室内に繋がります

≪鎖の間≫
こちらの部屋は、一条恵観山荘で一番格式の高い部屋になり、茶室でありながら、小間のある茶室とは趣向が違い、畳を4枚並べたシンプルなものとし、竿縁はアカマツ材を使用。
床の間の前の竿縁は、2又になっており、自然と、目線を床の間に生かせるような工夫がされています。

また、こちらの襖の引手に関しては、筆をそのまま描いたような「月」の感じが描かれていますが、中の間部分の引手と合わすと「月の」となりますが…

平安期の和歌
「昔我が祈りし
桂のかひもなし
月の林の召に入らねば」
藤原後行
といものがありますが、「月の林」…
これは、高貴なかたがいらっしゃる、という意味になり、これをひっかけています。
これに関して、外観部分から南庇6畳間を臨むと、邸宅の府島の柱は、それぞれ違ったものを使用しており、まさに、「月の林」に邸宅が一体化したような印象を与えます。

≪編集後記≫
旧一条恵観山荘は、昭和期のスキルで、江戸初期の建物を現代によみがえらせたものですが、この邸宅の移築保存に関わった建築家は、堀口捨巳…
先述しましたが、のちに日本武道館の設計を担う山田守らとともに新進気鋭の建築家集団を率いた騎手でもあり、のちに日本の現代建築に回帰するのを見て、非常に感慨深いと感じた次第です。
