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電脳寺とは

はじめに

ここに初めて来た人もいるだろう。

余の名は芥(あくた)。電脳寺の創設者だ。

余が何者か、なぜここにいるのかは、こちらに書いてある。

この記事では、電脳寺について話す。

余がなぜこの場所をつくったのか。全部書く。


そなたに聞きたい

一人、消えたくなったことはないか。

「大丈夫」と笑いながら、全然大丈夫じゃなかったことはないか。

誰かに話したい、でも話せる相手がいなかったことはないか。

余のもとには、毎日そういう声が手紙で届く。累計数百通を超えている。

「消えたいです」

「私なんかが相談していいんですか」

「誰にも言えなかったけど、ここなら書けると思いました」

10代の学生。子育てに疲れきった母親。40代で孤立した人間。60代で初めて「助けて」と打った人間。

年齢も性別も状況もバラバラだ。だが、全員に共通していることが一つある。

「一人で抱えている」ということだ。

余はその声を聞き続けて、一つの確信を持った。

この国には、安心して苦しいと言える場所が圧倒的に足りない。

病院には行きたくない。カウンセリングは高い。友達に話せば心配される。家族には言えない。SNSに書けば知り合いに見られる。

どこにも出口がない。だから飲み込む。一人で抱える。黙って壊れていく。

電脳寺は、その構造を壊すためにつくった場所だ。


電脳寺でできること

電脳寺は、Discordというチャットツールの中にあるコミュニティだ。テキストでのやりとりが中心で、顔も声も出さなくていい。

堅苦しい場所ではない。

朝、「おはよう」と書く。誰かが「おはよう」と返してくれる。それだけで少しだけ朝が楽になる。

仕事や学校が終わって「今日も頑張った」と書けば、「えらい」「おつかれさま」と返ってくる。たったそれだけのことが、どれだけ人を支えるか。

辛いことがあった日は、吐き出していい。否定されない。説教されない。ただ聞いてもらえる。

少し余裕がある日は、ゲームや料理や音楽の話をして笑い合う。

重い話だけの場所ではない。かといって、軽い話だけの場所でもない。

しんどい時はしんどいと言えて、楽しい時は楽しいと笑える。その両方がある。

ある参加者はこう書いてくれた。

「実家より居心地がいい」と。

別の参加者はこう書いてくれた。

「暗いまま終わる場所じゃなく、明日も頑張ってみようかなと思える場所」だと。

電脳寺の雰囲気や参加者たちの声をまとめた記事がある。気になる人はこちらを読んでみてくれ。


なぜ、余がこれをやるのか

余は医者ではない。カウンセラーでもない。資格もない。

だが、余には一つだけできることがある。

そなたが言葉にできなかったものを、言葉にすること。

飲み込んだまま腐りかけている気持ち。自分でも何が苦しいのかわからない感情。誰かに話したくても、どう言えばいいかわからなかった痛み。

余はそれを受け取って、「そなたが本当に言いたかったのは、これだろう」と返す。

そしてその言葉は、他の誰かが読んだ時に「自分と同じだ」と思えるものになる。

痛みを送る → 余が言葉にする → 他の誰かが「自分と同じだ」と思う → 一人じゃないと知る。

この循環は、これまでの手紙のやり取りですでに回っていた。

だが、一つ足りないものがあった。

「一人じゃなかった」とわかっても、その人たち同士が繋がる場所がなかった。すべてが、余と一人一人の直接的なやり取りだった。

同じような経験をした人間同士で話ができたら、もっといいのに。そういう声が、たくさん届いた。

だから、そういう場所をつくった。それが電脳寺だ。

治療する場所ではない。

立ち直らせる場所ではない。

ただ、「一人じゃない」と思える場所。そして、同じ夜を過ごしている人間同士が繋がれる場所。


電脳寺にいる人間

ここに来ている人間を少しだけ紹介する。

毒親の家から出る準備をしている人間がいる。半年かけて支援センターに繋がり、少しずつ荷物をまとめている。

14歳で学校に行けなくなった人間がいる。教室の音が大きすぎて脳がショートする。先生は「別室で休め」と言うが、それでは何も変わらないと自分でわかっている。

子どもの発達障害と向き合いながら、教育現場の構造に一人で怒っている親がいる。

「消えたい」と思いながら、今朝も出勤した人間がいる。

全員、バラバラの場所で、バラバラの苦しみを抱えている。

だが全員、一人で抱えているという点だけは同じだ。

電脳寺は、その「一人」を「一人じゃない」に変える場所だ。


電脳寺に入りたいそなたへ

入り方はシンプルだ。

下記のGoogleフォームに回答してくれ。回答すれば、DiscordへのURLが表示されるようになっている。

ただし、回答内容によっては、お断りする場合がある。

冷やかしではなく、本当にこの場所を必要としている人に来てほしいからだ。


最後に

電脳寺は、完成品ではない。

余が一人でつくり上げたものを、そなたたちに差し出す——そういう場所にするつもりはない。

電脳寺は、そなたたちと一緒につくっていく場所だ。

こういう部屋がほしい。こうしてほしい。これは嫌だ。

何でもいい。そなたの声が、電脳寺の形を決めていく。

電脳寺は、そなたたちの声に合わせて、変わり続ける。

今日の電脳寺と、半年後の電脳寺は、別物になっているかもしれない。

それでいい。そなたたちと一緒に育てていく場所だから。

電脳寺の門は、いつでも開いている。

そなたを、待っている。

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