ふるいにかける論 ー勝者はどちらか?ー
台所で、小麦粉をふるいにかけながら、粉の落ちるさまを眺めていた。
窓からの光で、細やかな粉がきらきらと空気を含んでいくのが見える。
これが、美味しいパンになる。
だから。
落ちていく小麦粉は "勝者" だと、ずっと思ってきた。
『ふるいにかける』という比喩の話だ。
小麦粉がふるいを通って、細やかな粉になる。
ふるいを通らなかったダマは残り、パンに使われることはない。
選りすぐられて、ゴミ箱へ行かず、美味しいパンになったほうが "勝者"。
わかりやすい話だ。
けれど、人が選抜されるときなど、この比喩が使われる際の例文としては、
「ふるいにかけられて数名が残った」
という表現をよく見かけるような気がする。
これには逆に、"残ったもの = 勝者" のようなイメージがある。
おかしい。
そこで、ふるいにかけられるものを「小麦粉」でなく「砂と砂金」に変えてみると、つじつまが合う。
これなら、落としたいもの(砂)を落として、残したいもの(砂金)が残る。
けれど、まだ体感としては納得できない。
『選抜』という言葉は「何度も選りすぐっていく過程」というイメージをどうしても含む。
その過程が「だんだん細かい網にしていく」ことだとすると、残るものは "より小さい粒" になる。
けれど、砂金の例を考えるなら、残したいものは "より大きな粒" なのではないか。
だとしたら、「だんだん粗い網にしていく」過程は必要がない。
何度もふるったりせず、"望む大きさだけが残る網目" で一度ふるえば済む話だ。
それに、「だんだん粗い網にしていく」ことは、狭き門を通過していくイメージとも噛み合わない。
似ている英語の場合だと、『passed』は試験などを「通過する」から、通ったほうが勝者。
『filtered』と言うときフィルターに残るのは不純物で、通過するほうがやはり勝者になる。
だから、「ふるいにかけられて数名が残った」という言葉の持つ構造と、ふるいの持つ本来の性質との間には、矛盾があるように思う。
この場合、どちらにズレが生じてしまっているのかは明らかだ。
それは道具として機能しているふるいのほうではなく、「ふるいにかけられて数名が残った」という表現のほうだろう。
どうしてそうなってしまったかといえば、それもまた明らかで、
「選りすぐられた = ふるいにかけられた」は直感でつながりやすく、
「選抜された = 残った」もまた、直感的につながりやすい。
ここに、ねじれが起きてしまっている。
人間は直感を信じたい生きものだから、いちど信じてしまえば、そのことをあとからよく考えてこんなふうに疑い直したりはしない。(あれ…? じゃあ私は…?)
慣用句は、そんなふうに時代とともに本来の意味を失いながら、今の文脈に合っていればそれでいいという使われかたをするものだ。
だから、ぜんぜん悪くない。
これがある日突然、「今日から "右" と "左" は直感的に逆が正しいことにします」と言われるとさすがに困るけれど、そんなことは起こりそうにないし、パンはいつものように美味しく焼けるのだから、まぁ今日も言葉をこねこねして楽しい一日だったな、とひとり納得する午後なのでした。
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