DN1.3.ブラフマジャーラ・スッタ『梵網経』(終わりまで)
『梵網経』第二誦分の続きです。
未来に関する見解
74. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは未来を憶測し(後際分別)、未来に執着した見解(後際随見)を持っており、未来に関連して、四十四の根拠(四十四事)に基づいて多種多様な独断的見解を述べている。 では、それら高名な沙門・バラモンたちは、何を頼りとし、何を根拠として、未来を憶測し、未来に執着して、四十四の根拠に基づく多種多様な見解を述べているのであろうか?」
💡 補足と解説
これまでの「過去に関する18の見解」と、これから始まる「未来に関する44の見解」を合わせると、この経典のタイトルにも関わる「62の見解(六十二見)」のすべてが揃うことになります。
未来への執着: 人間は「自分がどこから来たか(過去)」と同様に、「自分は死んだらどうなるのか(未来)」に強い不安と関心を持ちます。ブッダは、これら未来に対する予測やドグマもまた、悟り(解脱)を妨げる「見解の網」の一部であると指摘します。
四十四の見解の内訳:
有想論(うそうろん): 16種(死後、自己には「知覚」があるとする)
無想論(むそうろん): 8種(死後、自己には「知覚」がないとする)
非有想非無想論: 8種(死後、自己には知覚があるわけでもないし、ないわけでもないとする)
断滅論(だんめつろん): 7種(死後、自己は消滅して何も残らないとする)
現法涅槃論(げんぽうねはんろん): 5種(今、この生において最高の幸福・涅槃があるとする)
これらを合計すると 16 + 8 + 8 + 7 + 5 = 44 となります。
次は、最も数の多い「有想論(サンニー・ヴァーダ)」、つまり「死後も意識や知覚を持って自己が存続する」と考える16のパターンから始まります。
有想論(死後、自己に知覚があるとする説)
75. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは死後の未来を憶測し、有想論を唱える。彼らは16の根拠に基づいて『死後、自己は病むことなく(不変で)、知覚(想)を持っている』と宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」
76.(16の見解の内容) 「彼らは、死後において自己は次のようであると宣言する。
有形(色あり)で、死後も知覚がある。
無形(色なし)で、死後も知覚がある。
有形かつ無形で、知覚がある。
有形でも無形でもなく、知覚がある。
有限(辺あり)で、知覚がある。
無限(辺なし)で、知覚がある。
有限かつ無限で、知覚がある。
有限でも無限でもなく、知覚がある。
単一の知覚(一質想)を持つ。
多様な知覚(異質想)を持つ。
限定的な知覚(少想)を持つ。
無限定な知覚(無量想)を持つ。
純粋に幸福である。
純粋に苦痛である。
苦楽の両方がある。
苦も楽もない状態である。 これら16のいずれかの状態で、自己は死後も病むことなく存続すると宣言するのである。」
77. 「比丘たちよ、有想論を唱える者はすべてこれら16のいずれかに基づいており、これ以外のものはない。(中略)如来はこれらの見解の行き着く先を知っており、それらに執着することなく、ありのままに解脱しているのである。」
💡 補足と解説
この16の分類は、古代インドの哲学的な「組み合わせの論理」に基づいています。
自己の「形」と「広がり」: 最初から8番目までは、自己(アートマン)に肉体のような形があるか、大きさは有限か無限か、という空間的な性質を論じています。
知覚の「質」と「量」: 9番目から12番目までは、死後の意識が一つに統合されているのか(一神教的な合一など)、あるいは個別に分かれているのか、といった意識の状態を論じています。
知覚の「内容(感受)」: 最後の4つ(13〜16番)は、天国のような幸福か、地獄のような苦しみか、あるいは静かな中立か、という「感じ方」に焦点を当てています。
無想論(死後、自己に知覚がないとする説)
78. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは死後の未来を憶測し、無想論を唱える。彼らは8つの根拠に基づいて『死後、自己は病むことなく(不変で)、知覚(想)を持っていない』と宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」
79.(8の見解の内容)
「彼らは、死後において自己は次のようであると宣言する。
有形(色あり)で、死後も知覚はない。
無形(色なし)で、死後も知覚はない。
有形かつ無形で、知覚はない。
有形でも無形でもなく、知覚はない。
有限(辺あり)で、知覚はない。
無限(辺なし)で、知覚はない。
有限かつ無限で、知覚はない。
有限でも無限でもなく、知覚はない。 これら8つのいずれかの状態で、自己は死後も病むことなく(知覚のない状態で)存続すると宣言するのである。」
80. 「比丘たちよ、無想論を唱える者はすべてこれら8つのいずれかに基づいており、これ以外のものはない。(中略)如来はこれらの見解の行き着く先を知っており、それらに執着することなく、ありのままに解脱しているのである。」
💡 補足と解説
「死んだら無になる」という考え(断滅論)とは異なり、この「無想論」は「自分(魂のような実体)は存続しているが、意識活動だけが停止している」という状態を想定しています。
なぜ8つなのか:
「有想論」の16種と比べて数が半分になっているのは、「感受(受)」に関する項目が消えているからです。知覚(想)がない状態であれば、「幸せだ」「苦しい」といった感情(感受)も生じ得ないため、後半の8項目が省略されています。瞑想体験の反映:
これは、以前に出てきた「無想天(意識が一時的に止まる天界)」の体験や、それに類する深い深い無意識的なトランス状態を「最高の境地」と誤解した結果、死後もそのような「静かな自己」が続くと信じるものです。ブッダの視点:
ブッダから見れば、知覚があろうとなかろうと、そこに「不変の自己」を想定している時点で、それは妄想の網にかかった状態であると言えます。
非有想非無想論(死後、自己に知覚があるともないとも言えないとする説)
81. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは死後の未来を憶測し、非有想非無想論を唱える。彼らは8つの根拠に基づいて『死後、自己は病むことなく(不変で)、知覚(想)があるわけでもなく、ないわけでもない状態にある』と宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」
82.(8の見解の内容)
「彼らは、死後において自己は次のようであると宣言する。
有形(色あり)で、死後、知覚があるわけでもないし、ないわけでもない。
無形(色なし)で、死後、知覚があるわけでもないし、ないわけでもない。
有形かつ無形で、(同上)。
有形でも無形でもなく、(同上)。
有限(辺あり)で、(同上)。
無限(辺なし)で、(同上)。
有限かつ無限で、(同上)。
有限でも無限でもなく、死後、知覚があるわけでもなく、ないわけでもない。
これら8つのいずれかの状態で、自己は死後も存続すると宣言するのである。」
83. 「比丘たちよ、非有想非無想論を唱える者はすべてこれら8つのいずれかに基づいており、これ以外のものはない。(中略)如来はこれらの見解の行き着く先を知っており、それらに執着することなく、ありのままに解脱しているのである。」
💡 補足と解説
この説は、当時のインドで到達しうる最高峰の瞑想状態を反映しています。
瞑想の極致:
仏教の修行体系でも、無色界定(むしきかいじょう)の最高段階として「非想非非想処(ひそうひひそうじょ)」が登場します。これは、意識が非常に微細になり、「ある」とも言えないし、かといって「全くない」わけでもないという、極限の静寂状態です。ブッダと師匠:
ブッダが悟りを開く前、師事したウッダカ・ラーマプッタという修行者が到達していたのが、まさにこの境地でした。ブッダはこれさえも「まだ苦しみの根本が解決されていない(まだ我への執着が残っている)」として、さらなる道を求めました。「無想論」との違い:
無想論:意識の完全な停止(深い眠りのような状態)を理想とする。
非有想非無想論:意識があるかないか判別できないほどに透明化した状態を理想とする。
どちらも、その状態にある「自己(アートマン)」を想定している点では、ブッダから見れば依然として「見解の網」の中にある迷いなのです。
断滅論(死後、自己は消滅するとする説)
84. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは断滅論者であり、7つの根拠に基づいて『現存する衆生の断滅、消失、非存在』を宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」
85.(第一:粗大な肉体の断滅)
「ある者はこう言う。『この自己は肉体(色)を持ち、四大(地水火風)から成り、父母から生まれたものである。この肉体が崩壊(死)すれば、自己は断ち切られ、消失し、死後には存在しない。これこそが、自己が完全に断滅した状態である』と。これが第一の断滅論である。」
86.(第二:欲界の天界の自己の断滅)
「別の者はこう言う。『いや、あなたが言う肉体的な自己は存在するが、それだけでは完全な断滅ではない。それとは別に、食べ物を摂取する、欲界に属する神々のような「天界の自己」がある。それが死後に崩壊し、存在しなくなったときこそが、完全な断滅である』と。」
87.(第三:色界・意成身の自己の断滅)
「別の者はこう言う。『いや、それとは別に、心によって成る(意成身)、すべての器官を備えた「微細な自己」がある。それが死後に消失したときこそが、完全な断滅である』と。」
88-91.(第四〜第七:無色界の各段階での断滅)
「さらに別の者たちは、瞑想によって到達する無色界の四段階の自己を想定し、それが消失することを断滅と呼ぶ。
空無辺処(くうむへんじょ): 物質的知覚を超えた「無限の空間」の状態にある自己。
識無辺処(しきむへんじょ): 「無限の意識」の状態にある自己。
無所有処(むしょうじょ): 「何ものもない」という状態にある自己。
非想非非想処(ひそうひひそうじょ): 「知覚があるわけでもないし、ないわけでもない」という極めて微細な状態にある自己。 これらが死後に消滅することこそが、真の自己の断滅であると、それぞれの段階で宣言するのである。」
92. 「比丘たちよ、断滅論を唱える者はすべてこれら7つのいずれかに基づいており、これ以外のものはない。(中略)如来はこれらの見解の行き着く先を知っており、それらに執着することなく、ありのままに解脱しているのである。」
💡 補足と解説
この「断滅論」は、仏教が最も警戒する「極端な見解」の一つです(もう一つは永遠を信じる常住論)。
「有る」という前提の「無し」:
非常に重要なのは、これらの断滅論者が「まず、消滅するための『自己(アートマン)』が存在する」と仮定している点です。唯物論者は「肉体=自己」が消えると言い、
瞑想者は「高い境地の意識=自己」が消えると言います。 しかし、ブッダはそもそも「不変の自己など最初から存在しない(無我)」と説くため、何かが「断滅する」という考え方自体が、幽霊の正体を議論するような空論であるとみなします。
現代との共通点:
85節の考え方は、現代の「人間は脳の電気信号にすぎず、死ねばゼロになる」という科学的唯物論とほぼ同じです。ブッダはこれを2500年以上前に一つの「見解(ドグマ)」として分類していました。虚無主義の回避:
仏教が「死後、何もない」という断滅論を否定するのは、それが「善悪の因果(業)」をも否定し、無責任な生き方につながる恐れがあるからです。仏教は「断(なし)」でも「常(あり)」でもない「中道(縁起)」を説きます。
現法涅槃論(現世での涅槃を主張する説)
93. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは現法涅槃論者であり、5つの根拠に基づいて、現存する衆生の『最高の現世における涅槃』を宣言している。では、彼らは何を根拠としているのか?」
94.(第一:五欲の充足)
「ある者はこう言う。『友よ、自己が**五つの欲望の対象(五欲:視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚の楽しみ)**を思いのままに享受し、耽溺しているとき、それこそが最高の現世における涅槃である』と。これが第一の見解である。」
95.(第二:初禅の境地)
「別の者はこう言う。『いや、欲望は無常で苦しみを生む。それゆえ、欲望と不善を離れ、思考(尋)と熟考(伺)を伴い、離欲から生じる喜びと幸せがある初禅(しょぜん)に入るときこそ、最高の涅槃である』と。」
96.(第三:第二禅の境地)
「別の者はこう言う。『いや、初禅にはまだ思考などの粗さがある。思考と熟考が静まり、内なる静寂と心の統一がある、瞑想から生じる喜びと幸せの第二禅こそ、最高の涅槃である』と。」
97.(第四:第三禅の境地) 「別の者はこう言う。『いや、第二禅にはまだ喜び(喜)の興奮がある。その喜びさえも離れ、平静(捨)であり、正念・正知を保ち、身体で幸せを感じる第三禅こそ、最高の涅槃である』と。」
98.(第五:第四禅の境地) 「別の者はこう言う。『いや、第三禅にはまだ「幸せ」という心の傾きがある。苦楽を捨て、かつての喜びも悲しみも消え、苦もなく楽もない、平静による念の清浄がある第四禅こそ、最高の現世における涅槃である』と。」
99-100. 「これら5つが現法涅槃論のすべてであり、未来に関する44の見解のすべてである。」
101-102. (六十二見の総括)
「比丘たちよ、過去に関する18の見解、未来に関する44の見解、これらを合わせた六十二の根拠(六十二見)こそが、沙門・バラモンたちが網にかかったように囚われている見解のすべてである。これら以外のものはない。」
103-104.(如来の超越)
「比丘たちよ、如来はこれらの見解がどのような結果(後世)をもたらすかを知っている。そして、それ以上に、『感受(受)』の生起と滅尽、その甘美さと災い、そしてそこからの離脱(出離)をありのままに知ることにより、一切の執着なく解脱しているのである。これこそが、如来を正しく讃える者が語るべき、深遠で賢者の知るべき法である。」
💡 補足と解説
この章は、仏教における「涅槃(ニッバーナ)」という言葉が、当時いかに多様な意味で使われていたか、そしてブッダがいかにそれらを明確に区別していたかを示しています。
快楽主義への批判:
94節の「五欲の享受」を涅槃とする考えは、極端な享楽主義(順世派など)を指します。瞑想の罠:
95〜98節は重要です。四禅(しぜん)という高度な瞑想の段階は、仏教でも修行の重要なプロセスですが、「その心地よい集中状態そのもの」をゴール(涅槃)だと勘違いして執着してしまうことを、ブッダは「網にかかった状態」だと警告しています。「感受(ヴェーダナー)」の観察:
ここでも結論は「感受」に戻ります。快楽(五欲)も、瞑想の喜び(初禅〜三禅)も、静かな平静(第四禅)も、すべては条件によって生じた「感受」にすぎません。如来はそれらを「心地よい」と握りしめるのではなく、その「不完全さ(災い)」を見抜いて手放したからこそ、真の解脱に達したのです。
渇愛による戦慄と身悶え(見解の心理的分析)
105-117.(共通の結論)
「比丘たちよ、それらの沙門・バラモンたちが、 (105)常住論を、 (106)一部常住論を、 (107)辺無辺論を、 (108)詭弁(うなぎのような論)を、 (109)無因論を、 (110)その他、過去に関するあらゆる見解(18種)を、 (111)有想論を、 (112)無想論を、 (113)非有想非無想論を、 (114)断滅論を、 (115)現法涅槃論を、 (116)その他、未来に関するあらゆる見解(44種)を、 (117)そして過去・未来に関するすべての見解(計62種)を主張しているとしても……
それら高名な沙門・バラモンたちの主張は、実体を知らず、見抜いていない者たちの『感受(受)』であり、渇愛に囚われた者たちの『戦慄(せんりつ)』と『身悶(みもだ)え』にすぎない。」
💡 補足と解説
ここでは、これまで分類してきた「哲学的・宗教的理論」のすべてが、実は人間の深いエゴと不安から生じていることが明かされます。
戦慄(Paritassita)と身悶え(Vipphandita):
「戦慄」とは、自分が消えてしまうのではないか、という深い「死の恐怖」や「存在の不安」を指します。「身悶え」とは、その不安から逃れるために、必死に理論を構築して「私はこうだ!」「世界はこうだ!」としがみついている「足掻(あが)き」を意味します。知らず見ず(Ajānataṃ apassataṃ):
彼らは高度な論理や瞑想体験を持っていますが、ブッダから見れば、それらは「条件によって生じた現象(縁起)」にすぎません。その背後にある真のメカニズム(渇愛と無明)を見ていないため、結局は自分の感情的な反応(感受)を理論化しているだけなのです。渇愛に囚われた(Taṇhāgatānaṃ):
「あり続けたい(有愛)」あるいは「完全に消えて楽になりたい(非有愛)」という強い渇愛が、これらの62の網を編み上げています。どんなに知的な言葉で飾っても、その根っこにあるのは「私(アートマン)」を守ろうとする執着である、という鋭い心理学的洞察です。
ポイント: どんなに立派な宗教理論も、もしそれが「不安からの逃避」や「自己の永続化」のために作られたものなら、それは解脱ではなく、ただの「心の震え」にすぎない。ブッダはこの一点において、当時のすべての思想と一線を画しています。
触縁(触による発生)の章
118-130.(すべては「触」を縁としている)
「比丘たちよ、それらの沙門・バラモンたちが、 (118)常住論を、 (119)一部常住論を、 (120)辺無辺論を、 (121)詭弁論を、 (122)無因論を、 (123)過去に関するすべての見解(18種)を、 (124)有想論を、 (125)無想論を、 (126)非有想非無想論を、 (127)断滅論を、 (128)現法涅槃論を、 (129)未来に関するすべての見解(44種)を、 (130)そしてこれら全62種の見解を主張しているとしても……
それらすべては、「触(パッサ:感官と対象と意識の接触)」を縁として生じたものにすぎない。」
💡 補足と解説
ここでブッダは、小難しい哲学理論をすべて「心身の反応プロセス」という極めて現実的かつ科学的な視点へと引き戻しています。
触(Phassa)とは何か:
仏教の「十二縁起」において非常に重要な概念です。眼(耳鼻舌身意)という感覚器官があり、
色(声香味触法)という対象があり、
眼識(意識など)という認識が働く。 この三者が衝突・合致した瞬間を「触(コンタクト)」と呼びます。
理論は「刺激への反応」:
どんなに壮大な宇宙論も、突き詰めれば「何かを見て、何かを感じ、それに反応した」というプロセスの積み重ねです。瞑想中に不思議な光を見た(触)。
心地よさを感じた(受)。
「これは永遠の自己だ!」とラベルを貼った(想・見解)。 ブッダは、これら62の見解が「客観的な真理」からではなく、この個人的な「接触と反応の連鎖」から生まれていることを指摘しています。
「触縁(しょくえん)」の鋭さ:
「神がいる」と言うのも、「死んだら無だ」と言うのも、結局は自分の感覚器官が受けた刺激に基づいた「解釈」です。触がなければ見解も生まれません。つまり、これらすべての思想家たちは、**自分自身の認知システムが作り出した「影」**を論じているにすぎないのです。
ポイント: 議論の土俵を「形而上学(宇宙はどうなっているか)」から「認識論(私たちはどう認識しているか)」へと一気に移しました。これにより、ブッダは相手の理論の内容を否定するのではなく、その「成り立ちの未熟さ」を露呈させています。
不可能の章(接触なくして認識なし)
131-143.(接触なしに経験することは不可能である)
「比丘たちよ、それらの沙門・バラモンたちが、 (131-135)常住論、一部常住論、辺無辺論、詭弁論、無因論を唱え、 (136)過去に関する18の見解を唱え、 (137-141)有想論、無想論、非有想非無想論、断滅論、現法涅槃論を唱え、 (142)未来に関する44の見解を唱え、 (143)そしてこれら全62種の見解を主張しているとしても……
彼らが「触(パッサ:接触)」なくして、それらを感受(経験)するということは、あり得ないことである(道理に合わない)。」
💡 補足と解説
このセクションのメッセージは非常にシンプルですが、哲学的には極めて強力です。ブッダは「客観的に正しい世界観」を議論するのではなく、**「その理論を語っている君の脳内(認識)で何が起きているか」**を問い詰めています。
「aññatra phassā(触を離れて)」の否定: 「触(パッサ)」とは、五感や意識が対象と出会うことです。 たとえば「世界は永遠だ」と主張する人は、瞑想中に得た「静かな感覚」や「永続しているかのような光のイメージ」というデータ(触)を必ず経由しています。ブッダは、「そうした感覚的な入力(接触)が全くない状態で、どうして理論を組み立てることができようか? いや、絶対にできない」と断言します。
「netaṃ ṭhānaṃ vijjati(その可能性はない)」: これは「論理的に不可能だ」という意味です。 すべての形而上学的な見解(神、魂、世界の果てなど)は、個人の感覚器官が受け取った**生データへの「反応」**に過ぎないことを暴露しています。
独善性の解体: 思想家たちは「これは宇宙の真理だ!」と主張しますが、ブッダは「それは君の感覚器官が対象に触れたときに生じた、極めて個人的な経験(感受)を言語化したものに過ぎないよ」と指摘します。これにより、相手の主張が持つ「絶対的な権威」を根底から崩しているのです。
ポイント: どんなに崇高な神の啓示も、どんなに緻密な無神論も、私たちの「眼・耳・鼻・舌・身・意」という6つの窓口から入ってきた情報の加工品である、という冷徹な視点です。
見解に固執する者の輪廻(見解から苦しみへ)
144.(見解の根源は「触」から「苦」への連鎖である)
「比丘たちよ、これまで述べてきた常住論、一部常住論、辺無辺論、詭弁論、無因論、過去に関する見解、有想論、無想論、非有想非無想論、断滅論、現法涅槃論、未来に関する見解……
これら六十二の根拠に基づいて、過去や未来を憶測し、多種多様な独断的見解を述べているすべての沙門・バラモンたちは、
六つの感覚領域(六入/ろくにゅう)において、絶えず対象に接触(触/パッサ)し、それによって経験(感受)している。
その**感受(受/ヴェーダナー)を縁として、渇愛(愛/タンハー)が生じる。
渇愛を縁として、執着(取/ウパーダーナ)が生じる。
執着を縁として、存在(有/バヴァ)が生じる。
存在を縁として、誕生(生/ジャーティ)が生じる。
誕生を縁として、老いと死(老死)、悲しみ、嘆き、苦しみ、憂い、身悶えが生じるのである。」
💡 補足と解説
ここでブッダは、どんなに高尚に見える哲学理論も、実は「苦しみの再生産プロセス(輪廻)」の一部にすぎないことを喝破しています。
六入(chahi phassāyatanehi):
眼・耳・鼻・舌・身・意(心)という6つのセンサーのことです。思想家たちは、このセンサーが受け取った刺激を「真理」だと勘違いしています。「触」から「受」へ、そして「愛」へ:
瞑想や思索によって「心地よい感覚(受)」を得ると、人はそれを「もっと得たい、持ち続けたい」という「渇愛」に変えてしまいます。見解という執着(見取):
「世界はこうだ」「私はこうだ」という見解を持つこと自体が、一つの強力な「執着(取)」になります。これを仏教用語で「見取(けんしゅ)」と呼びます。執着があれば、そこから「自分という存在(有)」が固着し、結果として「老・死・苦」のループから抜け出せなくなります。
ポイント: ブッダは相手の理論が「正しいか間違っているか」を議論していません。「その理論を握りしめている限り、あなたは苦しみの連鎖(縁起)の中に閉じ込められたままだよ」と警告しているのです。これが「網(ジャーラ)」の真の意味です。
網の比喩と如来の解脱
145.(如来の智慧)
「比丘たちよ、比丘がこれら六つの感覚領域(六入)の生起、滅尽、甘美さ、災い、そしてそこからの離脱をありのままに知るならば、彼はこれらすべての見解を超越して知るのである。」
146.(網にかかった魚の比喩)
「比丘たちよ、過去や未来について多種多様な見解を述べる沙門・バラモンたちは、すべてこの六十二の見解という『網』の中に閉じ込められている。 彼らが網の中で浮き沈みし、もがいたとしても、それは網の中でのことにすぎない。 それはちょうど、熟練した漁師が目の細かい網を池に投げ入れたようなものだ。池の中にいる大きな魚はすべて網の中におり、浮き沈みしても網の中に閉じ込められている。それと同じように、彼らもまたこの六十二の見解という網に網羅され、その中で浮き沈みしているのである。」
147.(如来の最後の身体)
「比丘たちよ、如来は『存在の導管(渇愛)』を断ち切っている。 如来の身体が存続する限り、神々や人間は如来を見ることができる。しかし、身体が崩壊し寿命が尽きた後は、もはや神々も人間も如来を見ることはできない。 それは、マンゴーの房の茎を切り落とせば、その茎に繋がっていたすべてのマンゴーが共に落ちてしまうのと同じである。如来もまた、存在の導管を断ち切っており、死後は誰の目にも触れることのない境地(涅槃)へ入るのである。」
148.(経の名称)
「このように説かれたとき、阿難(アーナンダ)は世尊に尋ねた。 『驚くべきことです、世尊よ。この法門は何と名付ければよいでしょうか?』 世尊は答えられた。 『アーナンダよ、この法門を「義の網(アッタジャーラ)」、「法の網(ダンマジャーラ)」、「梵の網(ブラフマジャーラ)」、「見解の網(ディッティジャーラ)」、あるいは「無上の戦勝」と呼び、記憶しなさい』」
149.(結末) 世尊がこのように語られると、比丘たちは歓喜してその言葉を称賛した。また、この解説がなされている間、一万の宇宙(世界系)が激しく震動したのである。
第一の、梵網経(ぼんもうきょう)が完了した。
💡 補足と解説
ついに「網(ジャーラ)」という比喩の全貌が明かされました。
「網」の正体:
62の見解は、どれほど高尚でも「私」という自己意識や「世界はどうなっているか」という好奇心(渇愛)に基づいている限り、人を迷いの中に閉じ込める「網」となります。浮き沈み(Ummujjanti):
網の中の魚が水面に顔を出したり沈んだりするように、思想家たちはある時は「永遠だ(常住)」と言い、ある時は「無だ(断滅)」と言いますが、結局は「網(生死の輪廻)」から一歩も外に出ていないことを皮肉っています。存在の導管(Bhavanettiko):
「バヴァ・ネッティ」とは、存在を繋ぎ止める「引き綱」や「導管」のこと。具体的には「渇愛(タンハー)」を指します。如来はこれを根本から切断したため、もう二度と「網(見解や輪廻)」に捕まることはありません。「梵網(ブラフマジャーラ)」の意味:
1. 当時最高とされた「梵天(ブラフマー)」の知性でさえも網羅してしまう完璧な網。
2. あらゆる邪見を一網打尽にする「最高の網」。
という二重の意味が込められています。
仏教を正しく知るために
出典:tipitaka.org
ヘッダー画像:Silaoの風景 google.map
