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DN1.2.ブラフマジャーラ・スッタ『梵網経』第二誦分

『梵網経』第一誦分の続き「第二誦分(二番目の朗誦単位)」です。


38-52.一部常住論(一部永遠論)

38. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは一部常住論者であり、4つの根拠に基づいて『自己と世界は、一部は永遠だが、一部は無常である』と宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」

39-42.(第一の根拠:大梵天の勘違い)
「比丘たちよ、長い歳月の果てに、この世界が収縮(崩壊)する時期が来る。その時、多くの衆生は『極光音天(光り輝く神々の世界)』に生まれ、心だけで成り立ち、喜びを食し、自ら光を放ち、空を自由に飛び、長く安らかな時を過ごす。 やがて世界が再び膨張(形成)を始めるとき、空っぽの『梵天の宮殿』が現れる。そこへ、寿命や功徳が尽きた一人の衆生が、極光音天から没して、独りその宮殿に生まれ変わる。彼はそこで、あまりにも長い間独りで過ごすうちに、寂しさと退屈からこう願う。 『ああ、他の衆生もここへ来てくれたらいいのに』と。 その時、たまたま寿命が尽きた他の衆生たちが、彼の宮殿に生まれ変わってくる。すると、最初に生まれた者はこう思い込む。 『私こそが梵天、大梵天、全能者、創造主、父である。私が願ったから、この衆生たちは現れたのだ。私が彼らを造ったのだ!』 後から来た衆生たちも、最初にいた彼の威光を見て、『このお方が私たちを造った創造主だ。なぜなら、私たちが来た時、このお方は既にここにおられたからだ』と信じ込んでしまう。」

43-44.(神の記憶を持つ人間)
「最初に生まれた(神となった)者は、寿命も長く、容姿も美しい。後から来た者はそれより劣る。 比丘たちよ、その後から来た衆生の一人が、そこでの寿命を終えて人間に生まれ変わり、出家して瞑想に励み、過去生を思い出したとする。しかし、彼は『神(梵天)の宮殿にいたこと』までは思い出せても、それ以前のことは思い出せない。 彼はこう宣言する。 『あの偉大なる創造主、父なる梵天は、永遠不変であり、常にそこにあり続ける。しかし、彼によって造られた私たちは、無常であり、寿命が短く、この世界へ送られてきたのだ』と。 これが第一の根拠である。」

45-46.(第二の根拠:遊びすぎた神々)
「比丘たちよ、『遊びに溺れる神々(ケッダーパドーシカー)』がいる。彼らはあまりに遊びに夢中になり、正気を失ってその世界から没し、人間に生まれ変わる。 彼が瞑想で過去を思い出したとき、**『遊びに溺れなかった神々は永遠だが、遊びすぎた私たちは無常となり、ここへ落ちてきたのだ』**と考える。これが第二の根拠である。」

47-48.(第三の根拠:怒りに染まった神々)
「比丘たちよ、『心が汚れた神々(マノーパドーシカー)』がいる。彼らは互いに嫉妬し、怒りを抱くことでその世界から没し、人間に生まれ変わる。 彼もまた、瞑想の記憶から『怒りを持たなかった神々は永遠だが、怒った私たちは無常な存在になったのだ』と考える。これが第三の根拠である。」

49.(第四の根拠:心身二元論の誤解)
「比丘たちよ、ある修行者は論理的にこう考える。 『眼、耳、鼻、舌、身といった肉体的な自己は無常で変化する。しかし、心(意、識)と呼ばれる自己は、永遠不変であり、常にあり続けるのだ』と。これが第四の根拠である。」

50-52.(如来の超越)
「(中略)如来は、これらの見解に執着すればどのような結果を招くかを知っている。そして、それ以上に、『感受(受)』の生滅と正体をありのままに知ることで、あらゆる執着から解き放たれているのである。」


💡 補足と解説

この章は、宗教史的にも非常に風刺的で深い内容を含んでいます。

  • 創造主の正体:
    ブッダは「神が世界を造った」という信仰を真っ向から否定するのではなく、「最初に生まれた者が、寂しさゆえの願望とタイミングの重なりから、自分が造ったと勘違いした」という心理学的な説明を与えています。神自身もまた、輪廻の中にいる迷える存在にすぎないというわけです。

  • 限定的な超能力:
    過去生を思い出す力が中途半端であるために、「神」という不変の存在を想定してしまうという「認知の歪み」を指摘しています。

  • 心身二元論への批判:
    49節では、肉体は無常だが「魂(心)」は永遠だという考え方を否定しています。仏教では「識(意識)」さえも縁によって生じる無常なもの(縁起)であると教えます。

ブッダは「梵天」などの神々の世界を否定せず、あくまで「それらも変化し、寿命がある世界の一つ」として位置づけ、その「永遠性」という幻想を解体しています。


53-60.辺無辺論(有限・無限論)

53. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは辺無辺論者であり、4つの根拠に基づいて『世界は有限であるか、無限であるか』を宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」

54.(第一の根拠:世界は有限である)
「比丘たちよ、ある修行者が熱心な精進と正しい精神集中によって、ある種の心三昧(定)に達したとする。その安定した心で、彼は世界に対して『限りがある(有限である)』という知覚(想)を抱いて過ごす。 彼はこう宣言する。 『この世界は有限であり、周囲を囲まれている。なぜなら、私は集中した心によって、世界に限りがあることを実体験(知覚)したからだ。世界は有限であるというのが真実だ』と。 これが第一の根拠である。」

55.(第二の根拠:世界は無限である)
「比丘たちよ、また別の修行者は、同様の集中によって、今度は世界に対して『限りがない(無限である)』という知覚(想)を抱いて過ごす。 彼はこう宣言する。 『世界は無限であり、果てがない。「世界は有限だ」と言う者たちは嘘をついている。なぜなら、私は集中した心によって、世界に果てがないことを実体験したからだ』と。 これが第二の根拠である。」

56.(第三の根拠:上下は有限、横は無限である)
「比丘たちよ、また別の修行者は、同様の集中によって、『上下(垂直方向)には限りがあるが、横(水平方向)には限りがない』という知覚を抱いて過ごす。 彼はこう宣言する。 『世界は有限でもあり、無限でもある。有限だと言う者も、無限だと言う者も、どちらも嘘をついている。私は集中した心によって、上下には限りがあり、横には限りがないことを知ったのだ。ゆえに、世界は有限かつ無限である』と。 これが第三の根拠である。」

57.(第四の根拠:有限でも無限でもない)
「比丘たちよ、またある沙門・バラモンは、瞑想体験ではなく、論理的な推論(思索)に基づき、自らの知的な閃きによってこう宣言する。 『この世界は、有限でもなければ、無限でもない。有限だ、無限だ、あるいはその両方だと言う者たちは、すべて間違っている』と。 これが第四の根拠である。」

58-60.(如来の超越)
「(中略)如来は、これらの見解に執着すればどのような結果を招くかを知っている。そして、それ以上に、これらの見解の根底にある『感受(受)』の生滅と正体をありのままに知ることで、あらゆる執着から解き放たれているのである。」


💡 補足と解説

この章では、修行中の「ヴィジョン(主観的体験)」がいかに危ういものであるかが示されています。

  • 知覚(想/サンニャー)の罠:
    瞑想がある段階に達すると、意識の広がりがそのまま世界の広がりであるかのように感じられます。

    • 集中が特定の範囲に留まれば「世界は有限」だと感じます。

    • 集中が際限なく広がれば「世界は無限」だと感じます。 これらはあくまで「その人の意識の状態」であって、客観的な世界の形ではない、というのがブッダの立場です。

  • 不確定な問い(無記):
    仏教では、世界が有限か無限かといった問いを「解脱に役立たない問い(無記)」として、答えを出さないことが一般的です。なぜなら、どちらの結論も「執着(想)」から生じた妄想にすぎないからです。

  • 第四の根拠(否定による否定):
    57節の「有限でも無限でもない」という主張は、他者の意見をすべて否定することで自分の正しさを守ろうとする論理的な態度(不可知論に近いもの)を指しています。


61-66.詭弁論(うなぎのような、はぐらかしの論)

61. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは詭弁論者であり、あちこちで問いを向けられると、4つの根拠に基づいて、うなぎのように言葉をはぐらかす。では、彼らは何を根拠としてそのようにするのであろうか?」

62.(第一の根拠:虚偽を恐れる)
「比丘たちよ、ある修行者は『これが善である』『これが不善である』ということをありのままに知らない。彼はこう考える。『私は善悪の正体を知らない。もし知らないのに「これが善だ」「これが不善だ」と答えて、それが間違っていたら、私は嘘をつくことになる。嘘をつけば後悔や苦しみ(憂悩)が生じ、それは修行の妨げになる』と。 彼は嘘をつくことへの恐怖と嫌悪から、『善でもない、不善でもない』とはぐらかし、どのような問いにもこう答える。 『そうとも思わない。さようとも思わない。別だとも思わない。そうでないとも思わない。そうでないのではないとも思わない』と。 これが第一の根拠である。」

63.(第二の根拠:執着を恐れる)
「比丘たちよ、ある修行者は善悪の正体を知らない。彼はこう考える。 『もし私が「これが善だ」と断定すれば、そこには欲(貪)や怒り(瞋)や執着が生じるだろう。執着は苦しみを生み、修行の妨げになる』と。 彼は執着することへの恐怖から、断定を避け、うなぎのように言葉をはぐらかす。これが第二の根拠である。」

64.(第三の根拠:追及を恐れる)
「比丘たちよ、ある修行者は善悪の正体を知らない。彼はこう考える。 『世間には智慧があり、鋭く、他者の説を論破するのに長けた学者がいる。もし私が未熟なまま見解を述べれば、彼らは私を追及し、やり込めるだろう。答えられなければ、それは私の苦しみとなる』と。 彼は論争や追及への恐怖から、言葉をはぐらかす。これが第三の根拠である。」

65.(第四の根拠:愚かさゆえの不可知論)
「比丘たちよ、ある修行者はただ愚かで、ひどく混乱している。彼はその愚かさゆえに、問いを受けるとこうはぐらかす。 『「来世はあるか?」と問われれば、もし「ある」と思えば「ある」と答えるだろうが、私はそうは言わない。そうとも思わないし、さようとも思わない……(中略:無数のはぐらかし言葉)……「如来(死後の修行者)は死後に存在するのか、しないのか」という問いに対しても、私は「存在する」とも「存在しない」とも、その両方だとも、どちらでもないとも言わない』と。 これが第四の根拠である。」

66. 「比丘たちよ、詭弁を弄する者は、すべてこれら4つのいずれかに基づいている。(中略)如来はこれらの見解の行き着く先を知っており、それらに執着することなく、ありのままに解脱しているのである。」


💡 補足と解説

このセクションは、当時の自由思想家の一人、サンジャヤ・ベーラッティプッタ(不可知論者)の学説を念頭に置いていると言われています。

  • うなぎ(Amarā)の比喩:
    掴み所がない、滑りやすい、という表現は、論理的な一貫性を保つことよりも、論破されるリスクを避けることに必死な態度を揶揄しています。

  • 知的な誠実さと、知的な逃避: 
    最初の3つ(62-64節)は、「嘘をつきたくない」「執着したくない」「負けたくない」という、一見すると修行者らしい慎重さから来ています。しかしブッダは、それを「真実を知らないことによる逃げ」であると見抜いています。
    最後の1つ(65節)は、論理的な思考そのものが欠落しているケースを指しています。

  • 四句分別(しくふんべつ)の否定:
    「ある」「ない」「あり、かつ、ない」「あるのでもなく、ないまでもない」というインド哲学の四つの論理パターン(四句)をすべて否定して逃げる手法(五重の否定)を、「知的な不誠実」として退けています。

ブッダは、無益な論争は避けますが、真理については「これは苦である」「これは苦の滅である」とはっきりと宣言します。はぐらかし(不可知論)は、悟りの代替にはならないというのが仏教の厳しい視点です。


67-73.無因論(偶然発生論)

67. 「比丘たちよ、ある沙門・バラモンたちは無因論者であり、2つの根拠に基づいて『自己と世界は原因なく生じた』と宣言している。では、彼らは何を根拠としてそのように主張するのであろうか?」

68.(第一の根拠:無想天からの転生) 「比丘たちよ、『無想天(むそうてん)』と呼ばれる神々がいる。彼らに知覚(想)が生じたとき、彼らはその世界から没する。 比丘たちよ、ある衆生がその世界から没して人間界に生まれ、出家して精進し、正しい精神集中によって心三昧(定)を得たとする。彼はその心で、**『自分が今の知覚を得た瞬間(想の発生)』**までは思い出すことができるが、それ以前のことは思い出せない。 彼はこう確信する。 『自己と世界は原因なく生じた(偶然に現れた)。なぜなら、私は以前には存在しなかったが、今、存在しなかったものが存在するようになったのを実体験したからだ』と。 これが第一の根拠である。」

69.(第二の根拠:推論と論理) 「比丘たちよ、またある修行者は、瞑想体験ではなく、論理的な推論(思索)に基づき、自らの知的な閃きによってこう宣言する。 『自己と世界は原因なく生じたものである』と。これが第二の根拠である。」

70. 「比丘たちよ、無因論を唱える者はすべてこれら2つのいずれかに基づいており、これ以外のものはない。」

(過去に関する十八の見解の総括)

71. 「比丘たちよ、これら十八の根拠こそが、過去を憶測し、過去に執着する沙門・バラモンたちが述べる多種多様な見解のすべてである。これら以外のものはない。」

72-73. 「(中略)如来は、これらの見解をそのように握りしめればどのような結果を招くかを知っている。そして、それ以上に、これらの見解の根底にある『感受(受)』の生起と滅尽、その甘美さと災い、そしてそこからの離脱をありのままに知ることによって、執着なく解脱しているのである。 これこそが、如来が自ら悟り明らかにした、深遠で、推論を超え、賢者が知るべき真の法(徳)なのである。」

第二誦分(だいにじゅぶん)


💡 補足と解説

これで「過去に関する18の見解」がすべて出揃いました。今回の「無因論」は、現代の「唯物論」や「偶然論」にも通じる非常に興味深い内容です。

  • 無想天(アサンニャ・サッタ): 仏教の宇宙観では、意識や知覚が一時的に停止している高い天界があるとされます。ここから人間に転生した人は、「意識がなかった状態(無)」から「意識がある状態(有)」への切り替わりしか思い出せないため、「自分はゼロから偶然に生まれた」と勘違いしてしまいます。

  • 縁起(えんぎ)の否定: ブッダの教えの根幹は「因縁(原因と条件)」です。「これがあるとき、これがある」という法則を否定する無因論は、仏教において非常に強い警戒対象となります。

  • ヴェーダナー(感受)への帰着: ブッダは18の見解すべてを語った後、決まって「如来はヴェーダナー(感受)を知って解脱した」と繰り返します。これは、

    • 「世界がどうであるか」という議論自体が、感覚的な心地よさや不快さへの反応から生じている。

    • その反応(渇愛)を断つことこそが、空論を弄するよりも重要である。 という、極めて実践的なメッセージです。


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