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追っかけ

何年もヨガを習い、心から尊敬している師がいる。その師の紹介でワークショップの通訳をやらせていただいた師の友人が、師のことをある覚者の「追っかけをやっている」と言ったのを聞いて衝撃を受けた。以来、自分がやっていることは他者から見れば「追っかけ」と感じるかもしれないという自戒がある。

私が応援しているスポーツ選手は長男と同じ年なのだ。14歳の時に初めてパフォーマンスを見た。いまは25歳になった。14歳の頃は無名と言ってよかったが、活動が長くなるほどファンも増え、知られるようになってきた。スター選手と呼べるかはわからないが、人気がある選手の一人だと思う。

ファンアカウントの運営にかかわるようになり、途中で投げ出すのが嫌だという理由だけで今年でもう10年目に入る。3年前から英語で更新するアカウントを別プラットホームに開き、そちらは一人で続けている。

できる限り試合やショーを見に行くようになって久しい。6年ほど前から合宿の見学もさせていただけるようになった。こうやって行く先々に姿を現すのは、まさしく追っかけではないのか。

その迷いがあるから、なるべく接触しないことで引け目の帳尻を合わせている。連絡を取ることはできるのだが、用がないのにこちらから連絡することはない。彼がスタッフと滞在しているホテルがわかっていても、そこに泊まることはしない。相手の準備ができていないときに顔を合わせないように神経を使う。直接会う回数も観戦や見学する回数よりはるかに少ない。

顔と名前がそれなりに知られている立場として、いつも礼儀正しく感じ良くするように、という教育を彼は受けている。ロシアのファンに写真を断ったという書き込みを見たことがあるが、それ以外にそっけない対応があったという話は耳に入ってきていない。

だが私は、彼は本当はつきまとわれるのを好まないのではと感じている。会って話をするのは嫌ではないようだが、ファンアカウント用に写真を撮らしてもらおうとすると、ここでは嫌だ、いまはそういう気分ではないと断られることがあるのだ。だから頼む回数をなるべく少なくするようになった。

ファンとの交流を好む選手もいるし、折に触れファンへの感謝を投稿する選手も少なくない。しかし今の彼は、パフォーマンスの場以外での交流がなくても構わないのではないか。私にはそう感じられる。

元からそうだったわけではなく、初期のファンミーティング後は感激して喜んでいた記憶がある。何度も同じことを繰り返すうちに慣れてしまったのか、それとも別の理由があるのか。

そろそろ引退後のセカンドキャリアを考える時期にいるが、引退してしばらく時間がたち、写真やサインを頼まれることも、プレゼントや手紙を受け取ることもない生活の中で、昔を懐かしく思うのだろうか。見も知らぬ相手に深い思い入れを持たれる生活に、ノスタルジーなど感じないものなのか。

その答えを私が知ることはないはずだ。彼が現役を終える時、私の活動も終わる。