足の親指が、「いったん止まれ」と言った
左足の親指が痛くて、車のクラッチを踏めない。
会社とアパートを往復するだけだった私が、足の親指一本のために、会社を休むことになりました。
悪名高い痛風発作です。
「これは本気で生活を変えないと、やばいやつや」
体に強制的に止められて、ようやく気づきました。
前回は、インドへの旅の始まりとなる話を先取りしました。今回から通常の連載に戻り、30代の私が抱えていた、体と生活のひずみについてお話しします。
「24時間戦えますか」の時代
20代は勢いだけで突っ走れます。しかし30代に入ると、それまでの無理や頑張りのツケが、じわじわと心身にこたえるようになりました。当時は「24時間、戦えますか」という栄養ドリンクのCMが流行していた時代です。社会全体に「働いてなんぼ」という空気が満ちていました。
現在、法定労働時間は「1日8時間・週40時間」ですが、週40時間制が全面的に適用されたのは、私が30代を過ぎた後のことです。当時は「36協定」を結べば時間外労働が認められ、現在のような罰則付きの上限規制もありませんでした。そのため、繁忙期には月100時間に及ぶ残業さえ、まかり通っていたのです。現場の空気は「限界まで働くのが当然」。建前と本音の落差に、苦笑いするしかありませんでした。
この背景には、人手不足に目をつぶったまま、製品のスケジュールが市場の要求だけで決まっていく構造がありました。工業製品はどの分野も競争が激しい。競合他社に後れを取るまいと、現場には限界を超えるような予定が組まれます。エンジニアの側にも、遅れを認めたくないという習性がある。そうして、無理をすることが「当たり前」になっていきました。
上司は「趣味は仕事」と、堂々と、あるいは誇らしげに宣言していました。社会全体にも、「男は仕事に打ち込むものだ」という無言の圧力がありました。
家に帰っても特にやりたいことはなく、製品の図面が頭から離れません。それなら、会社でぎりぎりまで仕事をして、帰ったら寝るだけという方が、精神的には楽でした。いま思えば、そこには自虐的な充足感すらあったように感じます。
20時までの残業は日常茶飯事。22時を過ぎると深夜残業扱いになるので、たいていの社員はその前に切り上げようとします。それでも、さらに働く者もいました。寮時代、隣室に住んでいた別部門の同期は、深夜2〜3時にタクシーで帰寮し、翌朝8時半にはもう出社していました。「大丈夫かいな」と半ばあきれましたが、本人はどうにか日々をこなしていました(笑)。
ソフトな社畜、という自覚のない沼
私自身はそこまでではありませんでしたが、次第に不規則な生活に陥っていきました。26歳で寮を出て一人暮らしを始めると、さらに拍車がかかります。休日出勤も多く、会社と家を往復するだけの毎日。外へ出かける気力すら失っていました。今にして思えば、ソフトな「社畜」状態に陥っていたのでしょう。誰かに強制されたわけではなく、自分で少しずつ、その状態に沈んでいきました。
食生活も乱れました。夜中にフライドチキンとビールだけ、という夕食が続き、運動不足も重なって、体重は右肩上がり。入社10年目には75kgと、入社時より20kg以上も増えていました。振り返ってみれば、あれが「不健康のピーク」でした。それにもかかわらず、そんな生活を続けられていること自体が、何かの免罪符であるかのように感じていたのです。しかし、そのツケは確実に、静かに忍び寄っていました。
足の親指に走った稲妻
最初の兆候は、左足の親指でした。曲げにくくなっていましたが、なぜかビールを飲むと少し楽になる気がして、そのまま放置していました。後から思えば、これが体からの最初の警告だったのでしょう。
そしてある日、左足の親指に、稲妻のような激痛が走りました。足を地面につけることすらできません。悪名高い痛風発作でした。血液中に増えた尿酸が針状の結晶となって関節にたまり、激しい炎症を引き起こします。その痛みは、それまで経験したどんな痛みとも違っていました。

患部は炎症を起こし、赤黒く腫れ上がります。発作の痛みや炎症を抑える薬と、再発を防ぐために尿酸値を下げる薬は、役割が異なります。薬を飲めば、すぐにすべてが治るわけではありません。私の場合、炎症が治まるまで数日から1週間ほどかかり、その間は眠れないほどの痛みが続きました。このときようやく、はっきりとした危機感を覚えました。
当時はマニュアル車で通勤していましたが、クラッチペダルを踏むことすらできません。数日、会社を休むしかありませんでした。
危機感からのリスタート
発作が治まった後、ようやく重い腰を上げ、ダイエットに取り組むことにしました。私は、切羽詰まらないと行動しない性格なのです(笑)。カロリーを消費し、基礎代謝を上げるため、筋肉を使う運動をすることに決めました。
普段運動をしていなかったので気づきませんでしたが、少し動くだけでひどく息が切れました。大きな筋肉を動かす方が、ダイエットには効率的だと考え、移動はなるべく自転車に切り替えました。最初は坂道どころか平地でも息が切れて大変でしたが、1ヶ月もすると、風を切るのが心地よく感じられるようになりました。大学時代に汗を流していたころの感覚がふとよみがえり、「自分はまだ変われる」と思えたのです。
それから、食事の管理にも手をつけました。当時の私は、摂取カロリーを消費カロリーより抑え、タンパク質を意識した食事にして、空腹も少し我慢しました。不思議なもので、続けるうちに、以前ほど空腹を感じなくなりました。ただ、無理をしすぎるのも体に良くないと感じ、あくまで「ほどほど」を心がけました。
半年で10kgの減量に成功しました。階段を駆け上がっても息切れせず、朝の目覚めも軽い。体だけでなく、気持ちまで軽くなっていくのが分かりました。「もう一度、リスタートできる」――そう思えた瞬間でした。
薬嫌いをやめたら、発作は止まった
その後も、薬を飲むのがあまり好きではなかったため、自己判断で薬をやめては発作を起こす、ということを何度か繰り返しました。我ながら、懲りない人間です(笑)。
それでも、ついに観念して、処方された薬を定期的に飲むことに決めました。再発を繰り返していた私には、継続的な管理が必要だったのです。今では発作もなく、穏やかな生活を送っています。良い薬が手に入る現代に生まれて、本当によかったと思います。
この痛風発作は、体からの強制的な「一時停止」だったのだと思います。無理を重ねている自覚すらないまま突っ走っていた私に、体そのものが「いったん止まれ」と突きつけてきた出来事でした。
そしてこの経験は、のちに私が「心と体の力を抜く」ということの意味を、頭ではなく体で理解していく、長い道のりの入り口でもありました。
みなさんにも、体からの小さな警告を、つい後回しにした覚えはないでしょうか。
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これまでの記事は、マガジン「70年かけて検証した――心と体、お金と人間関係、見えないもの」にまとめています。連載完結まで1年以上かかる予定ですが、週4回更新しています。
次回は、ストレスとの付き合い方についてお届けします。のちに管理職となった私が知ることになる、ある切実な数字の話から始めます。
