プロベーション・レポート ~新入社員の四カ月~ 第四章1
第四章 第一話「リセット不能」
「シャチョサーン、オキテー、オミセオワリヨー。」
重い身体を無理やり起こし、手慣れた手つきで会計を済ませると私はいつもの公園に向かう。
ここで酒が抜けるまで過ごすことも私の日課だ。
思えばもう何年も家には寄りつかない生活をしていて、娘に至ってはいくつになったかもわからない。
大学生くらいだろうか。
ここまでの生活をしておいてなお、離婚届を突きつけられているわけでもないのだから、つくづく妻には頭が上がらない。
それとももういないものとされているだけかもしれないが。
・・・夏の始まりと言うには、まだ少し肌寒い。
私はポケットから煙草を取り出し、愛用のジッポライターで火をつける。
紫煙が揺らめき少しの眩暈を覚え、あぁこのまま楽になれれば、などと良からぬ考えがよぎり、パトカーの姿を捉えた私は煙草の火を消す。
こんな平日の早朝に、未だ酒の抜けきらない初老の男が公園に佇んでいるのだ。
彼らとて本心ではこのような人間に関わりたくもないだろうが、仕事であるから仕方がないというところだろうか。
「すみません。少しお時間よろしいですか?」
「はい。」
と答えたものの何を聞かれているのかは未だ朦朧とするこの頭ではわからず、ひとしきり業務的な質問を終えたのであろう警察官達の姿が見えなくなるのを見届けた私はようやく会社へと向かう。
「・・・・・・・」
午前6時。
何人もの社員がこの時間に集まり、その日の仕事を始める。
私だって例外ではない。
しかし、共に働く人間など私にはいないのだ。
パートの方々に手伝ってもらってはいるが、彼女達にまでこんな時間に出社させるほどこの会社も狂ってはいない。
つまり営業だの精米だのという連中と違い、私は挨拶する相手すらいないということになる。
しかし今日はいつにも増して頭が痛い。
給与明細を渡さなければならない日だから、というのが原因ではある。
何故こんなものを作らなければならないのか。
何故こんなものを渡さなければならないのか。
渡しさえしなければ、給料など現金を適当に振り込むだけにさえなれば。
『私の罪の証拠を残さずとも済むのに』
朝礼の時間に無言で明細を配る。
烏丸の意向で私は無言でなければならないし、受け取る側も『ありがとうございます!』と言わなければならないという不文律がある。
馬鹿馬鹿しいとは思わないか?
私たちが若い頃だって、こんなくだらないことをさせる会社はそう多くはなかったろう。
残念ながら我が社はその少数派であったのだが。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
虫唾が走る。
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ありがとうございます!」
「ふふっ、面白いっすねこれ。」
シン・・・とした静寂が事務所に響く。
「小林ィ!返事は!!」
烏丸の怒号が壁を、床を、従業員を震わせる。
「あざっす。」
火に油だ。
「小林ィ!ふざけてるのか貴様ァ!!」
「いやマジでふざけてないっす。なんすかコレ?」
二課長の顔が青ざめている。
「すんません。来月までには考えときます。とりあえずお客さん待たせるのアレなんで行きますねー。」
小林という新入社員は朝礼の終了を待たずに部屋を出た。
あいつはなんだ?
私は夢を見ているのだろうか?
それから私は、酷く落ち着かないままに周囲の様子を伺うようになった。
この事務所は烏丸によって支配されている。
私たち事務はもちろん営業部、精米工場まで奴の支配下にあると言っていい。
なにより私のデスクのすぐ隣には奴の執務室への扉があるのだから、私が烏丸を酷く恐れる理由もそこにある。
いつ不機嫌に飛び出してくるのか。
いつ怒鳴られる者を見なければならないのか。
いつ私が謝罪させられるのかを、私は恐れた。
営業部が出発してしまうと事務所は閑散とし、物音すらまばらになる。
私は朝礼の光景を思い出し、一人でこの席に座り続けることに耐え難い苦痛を覚えた。
酷く重い足取りで、喫煙所に向かう。
煙草に火をつけ、深く息を吸うとざわついた心も多少は落ち着くものだ。
ガラガラッ!
「事務長、こちらでしたか。」
大きな男が入ってきた。
営業部の二課長だ。
「あぁ、何か用件でも?」
「はい。この度は部下が大変失礼いたしました!!」
胸が痛い・・・心がざわつく。
「いやいいんだ。顔を上げたまえ。別段私に忠誠など誓って欲しいわけでもない。あんなものは烏丸が勝手にやっていることだということくらいは君もわかっているだろう?」
「まぁ・・・それはそうなんですが、私も上下を重んじろと教育された身なので。」
愚かな男だ・・・謝罪すべきは私だ。
などと口に出すことも出来ず、煙草を勧める。
「しかし私としては事務長も随分と無理をしていらっしゃるように見えますし一度常務と・・・」
「無理だ!!」
「あ・・・すまない・・・つい声を荒げてしまって・・・私は奴に逆らえない。もう・・・染み付いてしまっているんだ。あんな茶番をやらされて。気づけば私の周りには誰もいなくなった。
それはそうだろう?私に話しかける者などもはや君ぐらいしかおらんのだよ。」
本当ならあんな茶番の件などより、もっと酷く君を裏切っているぞ?
と言って楽になりたかったんだがな。
私は臆病で、罪を懺悔する勇気もない男なのだ。
すまない・・・すまない・・・
「わかりました・・・事務長が本当に困った時は頼ってください。若造ですし、どうしても常務に頭が上がらないのは私も同じですが、放ってはおけなかったんです。」
「ふふ・・・ありがたく気持ちを受け取っておく。お互い奴を恐れる必要のない人間になりたいものだな。」
そう言い残して、私は喫煙所を立ち去った。
