現場怪談#8大工のナベさん怪異録 :「這う老婆」 【創作大賞2025応募作】ホラー小説部門
その老婆は、這いながら丸ノコに手を伸ばした──。
介護リフォームで入った現場で、俺たちが見たもの。
それは介護に不向きな間取りではなく、過去の“傷”だったのかもしれない。
“直せるもの”と“直せないもの”がある。この話は、その境界の話だ。
朝の空気は、まだ少し冷たかった。
軽トラのエンジンがゴロゴロと唸りながら坂を登っていく。
俺はハンドルを握りながら、今日の作業内容を頭の中で繰り返していた。
──介護リフォーム。
玄関にスロープを設け、廊下の段差をなくす。トイレは間取りを広げ、手すりをつけて、車椅子でも使えるように。
依頼は「同居している母親のために」という話だった。
「……住みながら工事、やりにくいんやけどなぁ」
俺はぼそりと独りごち、口に咥えたタバコをくゆらせた。
空を見上げると、真っ青な空にカラスが一羽。
見慣れた住宅地の景色の中、ナビの案内に従って曲がると、目的の家が見えてきた。
一帯は新興住宅地。白やベージュの家が並び、朝のにぎやかさがそこかしこに漂っている。
子どもの声、洗濯機の回る音、車のアイドリング。どこも生活の匂いに満ちていた。
──ただし、あの一軒を除いて。
目的の家は、同じような建売の一角にぽつんとあった。だが、そこだけまるで音が吸い込まれているかのように“静か”だった。
「……なんや、この空気」
俺は思わず窓を少し開けたが、変わらず無音だった。
家の前に高橋が立っていた。まだ若いが、真面目で気のいい相棒だ。
トラックを止めて降りると、高橋が小さな声で言った。
「なんか……ここだけ空気止まってません?」
「感じとったか、お前も」
ふたりで無言のまま、家を見上げた。
窓にはレースのカーテンがかかっていて、誰かの気配はあるはずなのに、家全体が“気配のない箱”のように見えた。
俺はタバコを手元で揉み消すと、いつものように呟いた。
「ようし、今日も一日、“壁を壊し”に行こか」
玄関の引き戸を開けた瞬間、ツンと鼻を突くアンモニア臭が広がった。
尿の染みついた布団、掃除の行き届かない床、混ざり合った生活のにおい──
言葉にしなくても、この家が“介護の現場”であることが伝わってくる。
「どうぞ……」
奥から出てきた女性が、俺たちに頭を下げた。
黒いTシャツに色褪せたスウェット。やつれた表情と、無理やり作ったような笑顔が痛々しい。
「藤原さん……でしたね?」
「はい、佐和子です」
名乗った彼女の目の下には濃いクマがあり、声もかすれていた。
すぐに「こちらです」と廊下を案内され、居間へ。
「工事の件ですが、まずは玄関にスロープを。あとトイレの拡張と、できれば浴室への動線も整理したくて……」 図面を指差しながら高橋と工事内容を改める。
「なるほど、じゃあ段差の確認と、開口部の調整も考えときましょか」
工事の内容は、介護にありがちなリフォームだった。
ただ、細かく話していても、どこか彼女の目が定まっていない。
「お母さんの部屋は、奥の和室です」
「いまもいらっしゃる?」
「……はい、でも今日は調子が悪くて……なるべく別室にいますから」
その言葉の裏にある不安定さを、俺は見逃さなかった。
何かを隠してるというより、何もかもが手に負えなくなってるような、そんな空気だ。
高橋はまだ工具を取りに車に戻っていて、室内には俺と佐和子さんのふたりだけ。
一瞬、空気が重たくなった気がしたが、俺はいつも通りの調子で言った。
「ま、無理せんでええですよ。こっちは慣れたもんですから。わからんことは、すぐ聞いてくださいね」
彼女は、少しだけ、ほっとしたような顔をした。
その“ほころび”を見逃さずに、俺は家の中の寸法を測り始めた。
朝の段取りを終え、俺たちは工事に取りかかった。
玄関の框(かまち)を起点に、スロープの角度を計算。
トイレは壁を抜いて拡張する。幸い、水道管の位置も読めそうだった。
「ナベさん、インパクト貸してください」
高橋が廊下から顔を出す。俺はケースから渡してやる。
「傷だけはつけんなよ。ここ住んどる家やけん」
そう言いながら俺は丸ノコを準備した。コード式たで型は古いが刃の切れ味はいい。いつものように、ガイドに沿って墨を打ち、スイッチを入れる。
――ギャァァアア……
回転音が部屋に響いたそのときだった。
「……うおっ!? ナベさんっ!!」
廊下の方から高橋の叫び声が響く。
振り返ると、そこに“這って”いる老婆がいた。
白髪はぼさぼさで、よだれ掛けのような布を巻いた痩せた身体。
手と膝を使って、ズルズルと音を立てながら、まるで何かを探すように、這っていた。
「タキさん……!」
佐和子の母親。認知症とは聞いていたが、こんな形で現れるとは。
高橋は工具を落とし、後ずさっている。
俺は慌てず、しかし慎重に声をかけた。
「タキさん、危ないですけん、こっちには来んほうがよかですよ」
が、彼女はこちらの声には反応せず、ふと顔を上げた。
その目は──白濁して、何も映していない。
いや、何か“見えてはいけないもの”を、じっと見ているような──そんな目だった。
その瞬間、彼女の手が丸ノコに伸びた。スイッチに指を掛け、作動する。
「おい!!」
俺は咄嗟に飛び込んで、電源コードを引き抜いた。
ギュイン、と音を立てて止まる刃。
間一髪だった。
タキは、俺の腕をまるで“邪魔者”のように払い、再び床に這いつくばった。
何も言わず、ただただ廊下をずるずると、和室の奥へと戻っていった。
……その背中に、悪意があったかどうかはわからん。
ただ、あの目だけが、妙に引っかかった。
「ナベさん……今の……」
高橋が、声をひそめる。
俺はふっとため息をつき、言った。
「気にすんな。怪我がなくてよかったやん」
けれど、俺の胸の中には、工具よりも冷たい“何か”が、居座っていた。
夕方、工事の手をいったん止めて、道具を片付けていたときだった。
ふと振り返ると、佐和子が和室の入口に立っていた。目は腫れていて、泣いたあとか、それとも泣けないだけか。
「……母が、すみません」
消え入りそうな声だった。
「いえ、ええ、怪我もなかったですけん」
俺は言葉を選びながら、そう返した。
「……昼間、丸ノコを触ったって聞いて。あの人、昔は器用だったから……もしかしたら……」
そこまで言って、ふっと言葉を止めた。
何を言いたかったのか。言ってはいけないと思ったのか。
俺は、黙って玄関にまわり、靴をそろえる。
外からは子どもの笑い声が聞こえる。だが、この家の中は、ずっと、しんとしていた。
「昔はよく木工をしてたんです。棚とか、飾り台とか……」
ぽつり、ぽつりと語るその声は、遠くを見ているようだった。
「でも、あるときから……何をしても気に入らないって怒鳴られて。私、ずっと、“母が怖い”って気持ちを持ったままで……それが、今も残ってて……」
言いながら、彼女の目にまた涙が溜まっていった。
「何をしても、報われない気がするんです。介護って、いつか終わるって思ってたけど……気づいたら、自分がどこにいるのか分からなくて……」
高橋は何も言わず、玄関脇でそっと工具を拭いていた。
俺はタバコに火をつけようとして、やめた。道具箱の縁に腰を下ろす。
何も言わずに彼女を見つめ、頷く。
──何を直しとるんやろな。
この家の段差か。古びたトイレか。
それとも、母と娘の間にできた、深い、深い“距離”か。
工事で直せるものだけじゃない。
それでも俺たちは、それを“仕事”だと思って、ここ現場に立っとる。
佐和子は、泣いたまま小さく頭を下げた。
それは「助けてほしい」という声じゃなかった。
ただ、ほんの少し、誰かと目を合わせたかっただけ──そんなふうに見えた。
その夕暮れ、風が強かった。
工事現場に立てかけていたベニヤ板が、バサッと音を立てて倒れる。
家の裏手から、笑い声のようなものが、風にまぎれて聞こえた気がした。
タキの声だったのかもしれない。
けれど、俺は──聞こえなかったふりをした。
工事は、予定通り終わった。
玄関には緩やかなスロープ。
広くなったトイレには手すりが付き、廊下の段差もすべて消えた。
俺たちなりに、できることは全部やった。
「ありがとうございます」
佐和子さんは、書類にサインをしながらそう言った。
でもその口調には、感謝でも安堵でもない、ただ義務的な響きだけがあった。
それでも俺たちは頭を下げて、現場をあとにした。
玄関先で、佐和子がこちらを見ていた。
車椅子に座ったタキが、傾いた首の角度のまま、俺を睨みつけている。
そのまま、ふたりはリフォームされたばかりの家へとゆっくり──
まるで吸い込まれるように、消えていった。
俺は、最後まで振り返らなかった。
けれど、背後の気配が肌に残るような、そんな感覚だけは妙に鮮明だった。
軽トラに乗り込むと、高橋がぽつりとつぶやいた。
「……あの人ら、これで楽になれるんですかね」
答えは返さなかった。
エンジンの音が虚しく響いた。
大工じゃ直せんものがある──そんなこと、とうに分かっとる。
でも俺たちは、それでもやるしかない。
ただそれだけの話や。
ふと、バックミラーにちらっと映った、あの家の玄関。
カーテンの隙間から、タキさんの顔が見えていた──ような気がした。
あれは、本当にそこにいたのか。
それとも、俺の目が作った幻だったのか。
俺と高橋は、また明日の―――誰かの現場のために車を走らせた。
📘あとがき
このエピソードは、僕が実際に携わった介護リフォームの経験をもとに描いたものです。
現場で施主さんの希望通りに工事を進めても──それだけでは解決できない問題が、確かにありました。
どこまでが「仕事」で、どこからが「心の問題」なのか。
大工として直せるもの、直せないもの。
その境目に立たされたとき、職人として何ができるのか。
ナベさんのように共感力のある職人は、
ただ工事をこなすだけでなく、目の前の“暮らし”に対して、いつも何かを感じ取っています。
介護という過酷な現場において、
ほんの少しでも、その人の負担を減らせたなら──それだけでも意味があるのかもしれません。
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▼全シリーズまとめはこちら👇
https://note.com/alert_toad1029/n/nca1d216420dd
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