現場怪談#9大工のナベさん怪異録 :「おばあさんの屋根と奇跡の犬」 【創作大賞2025応募作】ホラー小説部門
「なぜそこまでやるんですか?もう、お金にもならないのに」
若い現場監督の言葉に、俺はこう答えた。
「犬が見とる。それにな…おばあさんは、きっと帰ってくる」
これは、小さな命がつないだ、ひとつの屋根の物語。
カーン、カーン。
玄能(金づち)の音が、朝の静けさにじんわり染みていく。久しぶりの音だ。けれど、身体は覚えている。音の返り、木の匂い、手の感触。懐かしい。
この家に戻ってくるのは、何年ぶりだろうか。
屋根の端っこが、少しだけ傾いている。外壁の塗装もずいぶん剥がれて、軒裏には燕が巣を作っていた。
「ナベさん、新しい垂木(たるき・屋根板の骨組み)の準備できてます!」
玄関先から声をかけてきたのは、高橋。うちの若い現場監督で、まだ三十前だったか。シャツはパリッとしてるのに、靴は泥だらけでちぐはぐだ。
「おう、手を付ける前に、ちょっと見てくるわ」
縁側の上に伸びる下屋(1階の屋根)の化粧垂木が腐ってきている。今回の仕事は下屋の屋根の葺き替えと垂木の交換だ。
家の裏手に回ると、小さな庭がそのまま残っていた。
草は伸び放題だったけど、懐かしさが勝った。
15年前か、棟を上げた日を思い出す。あの頃は、親方も元気だった。俺とふたり、屋根の上で汗を拭きながらタバコを吸った。
完成の日、この家の持ち主──あのおばあさんが、泣きながら何度も頭を下げてくれた。
「こんな立派な家になるなんて」って。
俺たちのほうが嬉しくて、笑いながら頭をかいた。
──ちりん、と鈴の音。
足元で音がして、ふと振り返ると、小さな柴犬がひょこっと現れた。
汚れた首輪と、赤い布。耳がちょっと垂れて、目元に白い毛が混じっている。
「お前……まさか」
しゃがんで手を差し出すと、犬は迷わず寄ってきた。
鼻先で俺の手をくんくんと嗅ぎ、尻尾をふわふわ振っている。
「タケか?……まだ生きてたのか」
そう呟くと、タケはまるで肯定するように、ちりんと鈴を鳴らした。
あの頃も、現場に来ればいつもいた。とても小さな仔犬だったが、人懐っこくて色んな職人に撫でられていた。
足場の下で昼寝して、職人たちのあいだをとことこと歩き回って、麦茶の差し入れと一緒にちゃっかり煮干しをもらっていたっけ。
俺の足元にくるりと丸まり、目を細めたタケを見ていると、胸の奥がほわっと温かくなった。
「よう覚えとるなぁ……」
あの家を建てた夏と、あの人と、あの犬と。全部が、ここにあったんだ。
垂木の交換もいよいよ本番に入ってきた。
一本一本、腐食した垂木を丁寧に外し、新しいものに交換していく。
ふと脚立の足元からちりん……と小さな鈴の音がした。
「ああ、タケか」
振り返ると、赤い首輪をぶら下げた柴犬のタケが、のそのそと門をくぐってきた。ヨボヨボの足取りでも、毎朝欠かさず来る。誰が言ったわけでもないのに、現場が始まる時間になると必ずやって来て、俺らが道具を持つのをじっと見つめている。
それから新しくなっていく垂木をじっと見て、小さく吠える。
「お前も現場の一員かい」
笑いながらそう声をかけると、尻尾をわずかに振って、日なたを選んでごろんと寝そべった。まるで、作業がちゃんと進んでいるか見張ってるかのようだ。
その日の午前、おばあさんが外に出てきた。久しぶりの再開だった。
「ナベさん……ナベさんよね」
「あんた…よか男になってから…」
そういっておばあさんが俺の手を握った。
いつものように帽子を深くかぶっていたけど、目尻が真っ赤だった。涙をぬぐう手が細くて、骨ばっている。
おばあさんは棟を上げた日のことを懐かしそうに語った。
「覚えてますとも。うちの親方と、15年前に建てたこの家。あの時も、差し入れ毎日ありがとうございました」
「……もう、夫もおらんくなってしもうてね。わたしひとり。だけん、屋根も腐ったままじゃ寂しかけん、思い切って頼んだとです」
おばあさんの声は弱々しかったけど、どこか安心したようでもあった。
その日から、タケはますます現場に張り付くようになった。朝は誰よりも早く来て、鈴の音を鳴らしながら、門のそばにちょこんと座る。作業が始まると、日陰に移動してこちらを見守る。
高橋も最初は「動物はちょっと苦手で……」なんて言ってたが、気づけば水をやったり、ぼそぼそと話しかけたりするようになった。
「ナベさん、この犬……賢いっすね。俺が屋根の工具取ろうとしたら、先に咥えて持ってきたんですよ」
「そうかい。きっと、おばあさんに似て働き者なんだよ」
笑いながら言ったけど、その日の午後、おばあさんは現れなかった。
次の日も、その次の日も、姿を見せない。
「……ナベさん、さっき近所の人が来て、言ってました。婆ちゃん、病院運ばれたって」
高橋が申し訳なさそうに言った。
「命に関わるようなもんじゃないとは思うんですけど、もう、工事も一旦止めたほうが……」
僕は言葉に詰まった。
高橋も黙り込んで、工具を握ったまま動けなくなっていた。
「……よし、今日はここまでにしよう。高橋、見舞いに行くぞ」
病院のベッドには、点滴と酸素チューブに繋がれたおばあさんが静かに横たわっていた。
目は閉じたまま、痩せた胸がかすかに上下している。
「……渡辺です。覚えてますか?十五年前に、家を建てた時の……」
声をかけてみたが、返事はなかった。
高橋が手を合わせ、小さく頭を下げた。
「……元気になってほしいですね。この人がいなかったら、あの家はもう……」
病室を出ると、空はどんよりと重く、風が吹き始めていた。
病院の自販機で缶コーヒーを買い、高橋と並んで無言で飲む。
「会社から連絡があって……工事、一旦ストップしてくれって言ってます」
高橋が言いづらそうに口を開いた。
「そうかい」
それだけ言って、僕は黙ってタバコに火をつけた。
湿った風の中、煙が細くたなびいていった。
その夜、大粒の雨が屋根を叩いていた。
食卓では、妻の美優が煮込みをよそってくれていた。
「今日はビール飲まないの?」
「ん……まあな」
箸を置いて、窓の外をちらりと見た。
屋根にはブルーシートを掛けてきた。作業は途中だが、急場は凌げるはずだ。
けれど、頭にこびりついて離れない存在がひとつ――いや、一匹。
赤い首輪。あのヨボヨボの足取り。タケの姿だった。
「……ちょっと現場、見てくる」
「え?今から?」
5歳になった娘の美弥が心配そうな目で見てくる。
「ごはん、まだだよ」と拗ねた声を出す。
「すぐ戻る。すまんな」
俺は美弥の頭をぽん、と撫でて携帯を手に取り、高橋に電話をかけた。
『……やっぱ、ナベさんも気になってました?俺も行こうと思ってたとこっす』
「じゃあ、合流しよう。……あいつ、雨に打たれとらんかが気になってな」
現場の方角に雷光が一閃、続けて雷鳴が轟いた。
(タケ……無事でいろよ)
俺は倉庫に寄って、コンパネを2枚と45×35の木材とルーフィングを軽トラに積んだ。タケに犬小屋を造ってやろう。
そして車のキーを回し、雨の中に出た。
軽トラックのワイパーが、濡れたフロントガラスを無理やり拭い続けていた。山道を登るにつれ、雨脚は強くなる一方だ。
タケのことがどうしても気になって、家でじっとしていられなかった。おばあさんの入院先からの電話もまだない。こんな時に限って、何もかも中途半端なままだ。
現場に着くと、高橋の車がもう停まっていた。俺が車から降りると、傘も差さずに彼がこちらに走ってくる。
「ナベさん! 屋根、養生は大丈夫です!」
「そうか……」少しだけ安堵する。
ブルーシートは風になびいていたが、しっかりと留め具が効いていて中に雨が入り込んではいなかった。ひとまずは安心したが、それよりも気がかりなものが目に入った。
庭の隅。老木のひとつが、途中から黒く焦げていた。幹に大きな割れ目が走り、煙のような焦げ臭さが雨と一緒に流れてきた。
落雷だ。
「……まずいな」
軒下に目をやると、小さな影が丸くなって震えていた。
「タケ……」
名前を呼ぶと、こちらをちらりと見てから、また顔をうずめる。身体が雨に濡れ、呼吸が浅い。
「高橋、投光器、持ってこい。あと、俺の軽トラから材料も運び出してくれ」
「え、今から何を……?」
「犬小屋を造る」
こんな日に?という顔をしていたが、高橋は何も言わずに車へ戻った。
軽トラの荷台から、合板と木材を引っ張り出し、軒下でふたり黙々と組み立てていく。屋根板にはルーフィングシートを貼った。腰袋から玄能を取り出し、ステン釘を打ち込む音が、夜の山間にコツン、コツンと響いた。
数十分ほどで簡易な犬小屋ができあがった。高橋が投光器を角度調整して照らす中、俺が最後の板を打ち終えると、タケはゆっくりと立ち上がり、よろよろと歩いて犬小屋の中に入った。
「……入った」
ホッと息をついたその時だった。ポケットの携帯が震えた。番号を見て、心がざわつく。
病院だった。
「はい、渡辺です……はい……ええ……今夜が……わかりました、そうですか。ご連絡ありがとうございます」
通話を切ったあと、雨音だけが耳に残った。
「おばあさん、どうだったんですか?」
「容態が悪化して……今夜が山らしい」
高橋は何も言えず、しばらく唇を噛みしめていた。
「ナベさん……やっぱり、工事は打ち切りにしましょう。戻ってこれないかもしれない。これ以上やっても、残金は……」
俺は答えなかった。タバコを咥えたまま、ただ視線を犬小屋に向けた。
そのときだった。タケが小屋から出てきた。何かを咥えて、こちらにとことこと歩いてくる。
「……玄能?」
タケは俺の玄能を咥えていた。いつの間に持っていったのか。
「……そうやな。ここでやり遂げんと、大工じゃないよな」
俺はそっと玄能を受け取り、もう一度現場に向き直った。
タケは、嬉しそうに少しだけ吠えた。
ブルーシートを捲り上げ、腐りかけた垂木を外す。材料はすでに準備してあった。あと少しで垂木の交換は終わる。ひとりでの作業に戻った俺の背中に、ふいに声が飛んだ。
「こんな夜に、こんな雨降りの中…」
「どうして……どうしてそこまでやるんですか! もう、金ももらえないかもしれないんですよ!」
高橋だった。必死に声を張り上げていた。
「……関係ねえ」
垂木に釘を打ち込みながら、俺は答えた。
空を割るような稲光。すぐさま、腹の底まで響くような雷鳴が、雨の夜を揺らした。
「犬が──タケが見とる。それにな……おばあさんは、絶対に戻ってくる」
しばらくの沈黙ののち、ギシッと脚立の音がした。振り返らなくてもわかる。高橋が上ってきた。
「……破風の取り付けは、さすがにひとりじゃやれん。ありがとうな」
少し笑って、俺はタバコを1本差し出した。
雨の中、夜の山間の家にトントンと釘を打つ音と、ふたり分の呼吸が重なる音だけが響いていた。
朝になると、雨はすっかり上がっていた。
屋根は完成していた。夜通しの作業。野地板を張って、化粧破風も取り付いた。クタクタだったが屋根を見上げると、少しだけ心が晴れた。
空はまだ薄曇りだったが、あの嵐の夜が嘘みたいだ。
俺と高橋は、ぬかるんだ庭先で後片づけていた。濡れたブルーシートや道具を一つずつ拭き上げ、材料を軽トラに積んでいく。
ふと見ると、タケが犬小屋からひょこっと顔を出して、軒先をじっと見上げていた。
「良かったなあ、タケ。お前のおかげや」
タバコに火をつけて、煙を空に吐く。あいつは何も言わんけど、ほんまよう頑張った。
そのとき、俺のポケットの携帯が鳴った。病院からだった。
「……え? ほんまですか? ……はい、明日ですね。迎えに行きます」
通話を切ると、高橋が怪訝そうな顔をする。
「どうでした?」
「持ち直したんやって。明日、退院できるらしいわ」
「……奇跡ですね」
俺らは顔を見合わせて、笑うでもなく、ただ無言で頷いた。
それから翌日の昼過ぎ、二人で病院まで迎えに行った。
おばあさんは、車椅子に座りながらも、自分で歩く気満々みたいやった。
「…あんたたち、私が死ぬかもしれんかったのに、どうして……」
おばあさんの目に涙が浮かんでいた。
「タケが教えてくれたんです。おばあさんが帰ってくるって」
俺はそう答えた。あの晩、本当にそう思った。
帰ってきたおばあさんのまわりを、タケが嬉しそうにくるくる回る。
「ありがとうね……タケ、待っててくれたんやねぇ」
おばあさんは、何度も何度もありがとうと言った。
それから、少しして―――
タケがふと犬小屋に向かって歩いていった。
高橋が笑いながら後を追いかける。
「おい、せっかくおばあさん退院したんやぞ。戻ってこいや」
だが、犬小屋を覗いた高橋の顔がみるみる青ざめた。
「……ナベさん、タケが……いません」
あわてて三人で庭を探した。おばあさんは心配な顔をして今にも泣き出しそうだった。
そして、あの焼け焦げた木の下で、タケが倒れているのを見つけた。
まるで、ただ眠っとるようやった。
「お前……」ぐっと唇を噛む。
しゃがみ込んで、俺はそっと頭を撫でた。
「死んどったんか……。あの晩……」
「死んでなお、おばあさんを信じて、屋根を完成させたかったんやな」
俺の目から、知らん間に涙が流れとった。
高橋も、おばあさんも、ただ静かに泣いとった。
その日のうちに、庭の片隅に小さな墓を作った。
手を合わせて、線香を供えた。
その隣には、あの晩作った犬小屋が、静かに佇んでいた。
風に吹かれて、どこからかちりん、と鈴の音がかすかに鳴った。
高橋がふとつぶやく。
「本当に…不思議な犬でしたね、タケ」
俺は無言で頷いた。
俺は最後に一言だけ、タケに言った。
「お前は本当によう働く、ええ職人やったよ」
墓に添えた、タケの赤い首輪の鈴が、ちりん、ちりんと、いつまでも風に揺れていた。
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