夜明けの鍵 『再会の雨、秘密の鍵』/『鍵を返す夜』/『閉じた扉の、その先で』続編
雨が止んだ朝、紗季は知らない天井を見上げていた。
カーテンの隙間から、薄い青色の光が差し込んでいる。昨夜まで窓を叩いていた雨は、いつの間にか静かになっていた。
隣には、まだ眠っている蓮がいた。
三十五歳の彼の横顔を、三十二歳の紗季はしばらく見つめた。
夜のあいだ何度も確かめたはずの温もりが、朝の光のなかでは、少しだけ違って見える。
衝動ではない。夢でもない。この人は、これからも自分の前にいるのかもしれない。
そう思った瞬間、胸の奥がくすぐったくなった。
紗季がそっと身を起こすと、蓮の指先が彼女の手首を掴んだ。
「帰るの?」
寝起きの声は低く、少し掠れていた。
「起こした?」
「ううん。……行かないでほしいなって思った」
紗季は笑った。
「まだ朝だよ」
「朝だから言える」
蓮は目を開けた。昨夜よりも無防備な眼差しで、紗季を見上げている。
「夜は、いろいろ言葉が足りなくなるから」
紗季は彼の隣に戻った。
薄いシーツの上で、蓮の肩に額を寄せる。
蓮の腕が、自然に紗季の背中を包んだ。
昨夜の熱とは違う、失くしたくないものに触れるような静かな強さがあった。
「後悔してる?」
紗季が訊くと、蓮は少し困ったように笑った。「してるわけない」
「即答なんだ」
「紗季は?」
「してない」
「本当に?」
「本当」
紗季が言い終える前に、蓮は額へ口づけた。
そこから頬へ、目元へ、そして唇へ。
朝の口づけは夜よりもゆっくりで、二人がまだここにいることを確かめるためのものだった。
蓮の指が、紗季の髪を耳にかける。
「紗季」
「なに?」
「好きだよ」
こんなにもまっすぐ言われると、紗季はまだうまく受け止められない。
「朝からずるい」
「朝だから言えるんだって」
二人は小さく笑った。
しばらくして、紗季は蓮のシャツを借りて、一階のキッチンへ降りた。
袖を二度折っても指先まで届かない。
蓮はその姿を見るなり、何かを言いかけて、結局黙った。
「なに?」
「似合ってる」
「それだけ?」
「それ以上言うと、朝ごはんが作れなくなる」
その言い方に、紗季の頬が熱くなる。
結局、朝食は簡単なものになった。
蓮が淹れたコーヒーと、トーストと、冷蔵庫に残っていた卵。
向かい合って座るのが照れくさくて、二人はカウンターに並んだ。
「今日、仕事は?」
「午後から」
「私は休み」
「じゃあ、店の手伝いをしてくれない?」
「私にできることある?」
「ある。昨日届いた本を棚に入れたい」
月白堂の開店前、二人は本の箱を抱えて店内へ入った。
朝の古書店は、夜とは別の場所のようだった。
窓から光が差し込み、背表紙の金文字が静かに輝いている。
紗季は一冊ずつ本を受け取り、蓮の言う棚へ並べていった。
何気ない作業なのに、隣に蓮がいるだけで楽しい。棚の高い場所に手を伸ばしたとき、背後から蓮の腕が伸びてきた。
「届く?」
「届くよ」
「危ないから」
蓮は本を取る代わりに、紗季の腰を軽く支えた。
触れられた場所から、昨夜の記憶が熱を持って戻ってくる。
紗季が振り返ると、蓮はいたずらを見つかった子どものように、少しだけ目をそらした。
「店の中だよ」
「ごめん」
「……別に、嫌じゃない」
その小さな声に、蓮の表情が変わった。
けれど彼は、今度はちゃんと手を離した。
そのことが、紗季には嬉しかった。
昼前、蓮はレジの引き出しから小さな封筒を取り出した。
「これ、渡したかった」
中には、月白堂の鍵が一本入っていた。
真鍮ではなく、銀色の、ごく普通の鍵だった。
「お店の?」
「二階も開く」
紗季は鍵を見つめた。
「重くない?」
蓮は静かに言った。
「ここに住んでほしい、とか、毎日来てほしい、とか。そういう意味じゃない。ただ、紗季が来たいときに、僕がいなくても入れるように」
「……本当に?」
「うん。君が自分で選んで、ここへ来られるように」
紗季は鍵を掌に乗せた。
小さくて、ありふれた鍵だった。
けれど、今まで受け取ったどんな贈り物よりも、彼の気持ちが伝わった。
「なくさないようにする」
「なくしても、また渡す」
紗季は笑って、鍵を握った。
窓の外では、雨上がりの街が少しずつ動き始めている。
二人の恋は、まだ始まったばかりだった。
けれどもう、夜に隠すためのものではない。
朝の光のなかで、何度でも選び直していけるものだった。
END
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