『水たまりの底』#シロクマ文芸部【ショートショート】
「待った待った。本当にやるのかい?僕たちは23歳だ。13歳じゃない」
「やるに決まってるわ。だって長靴を履いて大雨の中走りまわるなんて、童心に帰ったみたいでワクワクするじゃない」
彼女は言い出したら聞かない性格だ。
長靴を履いて1Kのアパートを飛び出した。
「ほらほら、こっちよ。早く捕まえてごらんなさい」
彼女は浜辺を駆け抜けるカラオケボックスの青春ムービーのように、雨の中を駆け出した。
僕も覚悟を決めて飛び出した。
泥が跳ねても彼女は気にする様子がなかった。熱帯魚が泳ぐように雨粒の中をすり抜けていく。
僕の目の前に大きな水たまりが現れた。これを避けるのは粋じゃないと思った。
「ええい」
ドボン。
僕は思いっきり水たまりに両足で着地した。
あれっ。
視界が真っ黒になり、落とし穴の奥深くへ沈んでいくような強烈な錯覚が全身を駆け抜けた。
「ねえ、どうしたの?」
トントンと肩を叩かれて、我に返った。
振り返ると、そこには雨の中で彼女が立っていた。
「急に黙り込んじゃって。びっくりした?」
彼女はいつものように笑っている。
部屋に戻って服を着替えても、すべては元のままだった。
アパートの前の景色も、窓の外の激しい雨もそのままだ。
……いや、本当にそのままなのか?
僕は確かに、あの水たまりの底に落ちた。何かが違う世界に来てしまったはずだ。何が違うんだ。どこに違いがある?
そう思い始めた瞬間、僕の慧眼は些細な変化に気がついた。
彼女の右目の二重の幅。いつもはもっと広かったはずだ。部屋の壁の傷の角度。コンマ数ミリ狂っている気がする。
「ここはどこだっ、本物の由香をどこにやった!」
突然両肩を掴んだ僕に、由香は本気で怯えた顔をした。
だが、錯乱した僕の目には、その純粋な恐怖の表情さえも「僕を騙すための精巧な演技」にしか見えなかった。
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