『僕の自意識がシュヴァルツシルト半径を超えて世界を救う』④
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第4話:午前八時のレタスと、浮力に対する反逆的エントリーシート
1
朝、目が覚めると、枕元に巨大な爬虫類の顔があった。
それはジュラ紀の地層からそのまま切り出されたような、圧倒的な古代の現出だった。皮膚の皺の一つ一つが、人類がまだ誕生していなかった頃の地球の自転を記憶しているかのようだ。
「おはよう、赤城鏡也くん。朝食の時間だ」
局長(ガラパゴスゾウガメ)は、僕の顔の五センチ手前で言った。
吐息が生温かく、湿った土の匂い――雨上がりの森の腐葉土と、博物館の収蔵庫の奥で忘れ去られたミイラの包帯を混ぜたような匂い――がした。
「……おはよう」
僕は何万年もの時を超えて目覚めた化石のように身を起こし、寝癖がついたままの頭で状況を整理した。
「君が夢ではなかったことに、深い感銘を受けているよ。昨夜の僕は、ウィスキーの量を見誤ったわけではなかったらしい」
局長は、どれも親指のような均等な大きさの指で、しわくちゃの頭をポリポリと掻いた。その音は、乾いた流木同士が擦れ合う音に似ていた。
「夢ならもっとマシな脚本家を雇う。小松菜だ。スーパーのカット野菜は認めん。泥のついた新鮮なやつを所望する」
「小松菜だって?」僕は眉をひそめた。
「一人暮らしの貧乏学生の冷蔵庫に、そんな緑黄色野菜が存在すると思うか?あるのは賞味期限の切れたマヨネーズと、液状化したキュウリだけだ」
「なければ買って来れば良い」
「……」
僕は深く、長くため息をついた。それは六畳一間の酸素濃度を確実に一%ほど下げた。
だが、逆らう気力はなかった。彼の甲羅が放つ質量は、僕の部屋の重力係数を局所的に歪めている。逆らえばぺしゃんこにされるのは明白だ。
僕は洗顔もそこそこに、高校時代のジャージ(芋ジャージ)に着替えて、近所の八百屋へと走った。
世界を救うエージェントの朝は、小松菜の鮮度チェックから始まるらしい。ジェームズ・ボンドも毎朝マティーニのオリーブの品質にこだわっていたのだろうか。
八百屋の親父は、朝一番で泥だらけの小松菜を鷲掴みにする僕を、不審者を見る目――具体的には「野菜泥棒の下見」を疑う目――で見ていた。
しかし、僕はこれを「僕という器が、生命の根源(野菜)と向き合うための神聖な儀式」と解釈することで、精神的な優位性を保った。泥のついた小松菜。それは大地の恵みであり、僕たちが失いつつある「重さ」の象徴なのだ。
アパートへの帰り道、ビニール袋の中で小松菜がガサガサと音を立てた。
その音は、これからの僕の人生が、泥臭く、そして極めて面倒くさいものになることを予言するファンファーレのように聞こえた。
2
神聖なる小松菜の奉納を済ませ、亀の甲羅をタワシで磨くという、前世でよほどの悪徳を積まなければ回ってこないような労働に従事した後(局長は「もっと右だ、そこは第三腰椎だ。人間で言えばツボに当たる」と的確かつ傲慢な注文をつけた)、僕がようやくアパートを出たのは正午近くだった。
今日は、大手IT企業の一次面接がある。
その前に、エネルギーの補給と、同志たちへの状況報告が必要だ。
僕は大学裏の路地、都市計画の盲腸のような場所にへばりつく純喫茶『斜陽』の扉を開けた。
カランコロン、と真鍮(しんちゅう)のベルが鳴る。その音色は、百年前に沈没した客船の呼び鈴のように寂しげだった。
店内は相変わらず、時間の流れが淀(よど)んでいた。壁の古時計は、秒針が進むたびに「ガリッ」と不穏な音を立て、店内の空気を少しずつ削り取っている。
いつもの一番奥の席に、彼らはいた。
「だから言ってるだろ!パンクってのは精神のバリケードなんだよ!媚びるな!破壊しろ!」
テーブルを叩いているのは、金髪ロン毛に安全ピンのピアスをした男、林田だ。文学部四年。
彼は今、就活のエントリーシートの「自己PR」欄に、極太の黒マッキーで『NOFUTURE』と書き殴っている最中だった。インクの有機溶剤の匂いが、コーヒーの香りと混ざり合って鼻をつく。
「林田君、君のその行為は、企業の選考プロセスに対する業務妨害、もしくは資源の無駄遣いに当たる可能性がある」
向かいで冷静に突っ込むのは、分厚い六法全書を盾のように抱えた男、田村。
二浪二留、公務員試験浪人三年目。彼の着ているリクルートスーツは、量販店の吊るしのはずなのに、なぜか中世の騎士が着るプレートアーマーのように重厚に見える。
「憲法は表現の自由を保障しているが、それはTPOをわきまえた上での話だ。それと、その君の書き殴った紙屑の繊維が僕のコーヒーに入りそうだ。もし混入したら、民法第七〇九条に基づき損害賠償を請求するぞ」
そして、二人の間でオロオロしているのが、一ノ瀬小春。
僕のサークルの後輩だ。今日も彼女のトートバッグは、家出少女の全財産のようにパンパンに膨らんでいる。中身の総重量は推定五キロ。彼女の華奢な肩が心配になるレベルだ。
「あ、赤城先輩!」
僕の姿を見つけると、小春はパッと表情を輝かせた。ヒマワリが太陽を見つけた時のような、直球の笑顔だ。
「お疲れ様です!どうでしたか、昨日の……例の『同居人』!」
三人の視線が集中する。
僕は重々しく頷き、彼らの席に合流した。椅子がギシりと音を立てる。
「ああ、彼のことか。実に興味深い人物だ。知識は深く、態度は大きく、そして皮膚が硬い」
「皮膚?」林田が怪訝な顔をする。
「なんだそいつ、アトピーか?それとも刺青でも入れてんのか?」
「いや、爬虫類だ」
僕は水を持ってきたマスターにアイスコーヒーを注文しながら言った。
「ガラパゴスゾウガメだ。推定年齢百五十歳。元・重力管理局局長らしい」
店内が静まり返った。
林田が口を開けたままフリーズし、田村が眼鏡の位置を指一本で直した。
「……鏡也」
林田が、捨てられた子犬を見るような、深く憐れむような声を出した。
「お前、就活のストレスでついに幻覚が見え始めたか?俺がいい病院を紹介してやるよ。受付が元パンクスで、モヒカンでも入院させてくれるんだ」
「違いますよ林田さん!」
小春が身を乗り出した。テーブルの上の砂糖壺が揺れる。
「先輩が仰りたいのは、その同居人の方が、まるで亀のように悠然としていて、歴史の重みを感じさせる大物だっていう比喩ですよね!さすが先輩、メタファーが高度すぎて凡人には理解できません!」
僕はアイスコーヒーをズズっとすすった。氷がグラスに当たる涼やかな音が、僕の正気を保証している。
僕は首を横に振った。
「いや、比喩ではない。実際に甲羅があるし、朝食には泥つきの小松菜を要求する。スーパーのカット野菜は認めないという食通だ」
僕はスーツズボンのポケットからスマホを取り出し、今朝撮影した局長の写真を突きつけた。
ちゃぶ台の前で、しわくちゃの首を伸ばし、小松菜を食む巨大な亀の姿が鮮明に写っている。背景には僕の哲学書の山。これ以上の証拠はない。
「……合成写真か?」
田村が写真を凝視し、片手で六法全書をめくった。
「いや、光の当たり方に矛盾がない。本物に見える。だとすると問題だ。ワシントン条約および種の保存法に抵触する恐れがある。個人での飼育には環境大臣の登録票が必要だぞ。許可は取っているのか?」
僕は目を細めて頭を振った。
「彼(亀)が言うには、彼自身が法律(ルール)そのものらしいから、問題ないそうだ」
「超法規的措置か……」
田村は唸り、少しだけ興奮した様子で手帳にメモを取り始めた。
「判例がない。『自称・法律そのものである亀』の法的地位……これは今年の公務員試験に出るかもしれんぞ」
「で、その亀が何だって?」
林田が胸ポケットからハイライトを取り出すと、そのままタバコに火をつけた。紫煙が天井のシミに向かって立ち上る。
「お前に竜宮城への招待状でも持ってきたのか?それなら俺も行くぜ。タイやヒラメとモッシュしてやる」
「いいや。もっと現実的で、かつ面倒くさいオファーだ」
僕はアイスコーヒーのストローを回しながら、声を潜めた。
「世界を救ってくれと頼まれた。どうやら、世界は今、軽くなりすぎているらしい。僕たちの『重さ』が必要なんだとさ」
僕の言葉が、彼らの耳から脳へと正確な情報信号として伝達するまでに少しの間があった。
林田が吹き出し、田村が呆れ顔で天井を仰いだ。
しかし、小春だけは真剣な眼差しで僕を見つめていた。その瞳は、信じる力に満ち溢れている。
「わかります……!世界、軽すぎますよね!最近、タピオカの粒も小さくなってる気がするし、教授の雑談も中身がないし、私の体重計も壊れてるのか数字が減らないし!」
「最後のは関係ないと思うが、あるいは君の質量が増大して計測不能になっている可能性もある」
田村が冷静に指摘する。
「でも先輩、私、感じてました。赤城先輩が、この世界の最後の砦なんじゃないかって。だって先輩、いつも荷物(自意識)多そうですもん!」
「失敬な」僕は苦笑した。
「だが、その通りだ。僕の存在質量が、この浮ついた日本を繋ぎ止める。今日はその第一歩として、敵の本丸に乗り込むのだ」
「本丸?」
僕はこみ上げる笑いを隠しきれず、クククと喉の奥で漏らした。悪役のような笑い声だが、今の僕には相応しい。
「大手IT企業『サイバー・フロンティア』だ。 効率化とスピードを崇拝し、すべてをクラウド化しようとする、現代の軽薄さの象徴のような会社だ。そこの面接で、僕の『重み』を見せつけてくる。彼らのサーバーをダウンさせるほどの重力をね」
その瞬間、林田が口角を上げて少年のように笑った。
「面白え。その面接官の度肝、抜いてこいよ。俺のパンク魂もお前に預けるぜ。面接で『御社の強みは?』って聞かれたら『俺だ』って答えろ」
「僕の法的解釈も持っていけ」
田村が六法全書を撫でた。
「労働基準法の遵守状況もチェックしてくるんだ。三六協定違反があれば即座に告発しろ」
「私は……」
小春がゴソゴソとバッグを漁り、巨大なタッパーを取り出した。
「お手製のおはぎです!物理的に重いので、懐に入れておけば浮かないと思います!もち米100%で、あんこは二度炊きしました!」
僕は三人の想い(と、ずっしり重いおはぎ)を受け取り、すっくと立ち上がった。
彼らは気づいていない。
自分たちが、この喫茶店の重力を通常の1.5倍に高めている発生源だということに。この空間だけ、時間の進みが遅いのは彼らの質量のせいだ。
「行ってくる」
彼らは僕を見送ると、すぐに林田のエントリーシートの推敲(?)作業へと話題を戻した。
「『NOFUTURE』のフォントはゴシック体であるべきか明朝体であるべきか」という不毛な議論が聞こえてくる。
喫茶店『斜陽』の重い木扉を開けると、そこには希薄な世界が広がっていた。
鼓膜がパチリと鳴る。気圧が違うのだ。
林田の怒号と、田村の六法全書、そして小春の過剰な愛情によって濃密に圧縮されていた空間から一歩出ると、外の空気は頼りなく、肺に入れても酸素が脳まで届かない気がした。
人々は、駅までの道を歩く歩道に乗っているかのように小走りで去っていく。彼らの足音は軽く、地面に痕跡を残さない。
駅に着くと、休む間もなく分刻みで電車が現れる。
僕は地下鉄に乗り込んだ。大手町へ向かう地下鉄の緑色の座席シートは、不愉快なほど滑らかだった。
尻の座りが悪い。摩擦係数がゼロに近い。
向かいに座るサラリーマンたちは、高解像度のプリンターから出力されたばかりの平面的な書き割りに見えた。彼らはスマホの画面を指でなぞっていたが、そこに触覚は存在しない。ツルツルのガラス板の上を、視線と指先が滑っていくだけだ。
僕はジャケットの内ポケットに手を入れた。 そこにある小春のおはぎだけが、確かな質量と熱を持って、僕の心臓の下で鼓動していた。
まるで、小さな暗黒物質(ダークマター)の爆弾のように。
これさえあれば、僕はどこへ行っても「僕」でいられる気がした。
3
オフィス街の交差点を渡る。信号機の青色が、プラスチックのおもちゃのように安っぽい光を放っている。
『サイバー・フロンティア』の本社ビルは、空に向かって突き刺さる巨大な墓標だった。表面を覆うガラス壁が、初夏の太陽を冷たく跳ね返している。
自動ドアが開く。音はない。
ロビーの空気は、精密機器の保管庫そのものだった。塵一つなく、湿度は完璧に管理され、人間の体温だけが排除されている。
足音がしなかった。
行き交う社員たちの靴底は、大理石の床を叩いているはずなのに、まるで消音モードの動画を見ているように、コツコツという音が吸い取られている。衣擦れの音もしない。咳払いもしない。
ここにあるのは「静寂」ではなく、「無音」という名の欠落だった。
受付のタッチパネルに触れる。指先に冷たさが走る。
「24階へお上がりください」
受付の女性が微笑んだが、その笑顔はあらかじめプログラムされた画像の表示に過ぎない。画素数が粗い気がした。
エレベーターホールには、六基の銀色の箱が並んでいた。
到着した箱に乗り込む。
扉が閉まると、そこは完全な密室だった。
鏡面仕上げのステンレスの壁に、僕の顔が歪んで映っている。その顔だけが、この無機質な箱の中で唯一、有機的な不純物として存在していた。
浮遊感が襲う。
胃袋が持ち上がるようなGではない。自分という存在の輪郭が曖昧になり、光ファイバーの中をデータとして転送されているような、頼りない軽さだ。
表示板の数字が、1、5、10……と、意味のない記号の羅列として切り替わっていく。
僕は壁に背を預けた。
このまま屋上を突き破って、成層圏まで射出されてもおかしくない。そんな妄想が頭をよぎるが、僕はそれを否定する。僕には重量がある。思考という名の錨がある。
24階で扉が開く。
そこは白一色の世界だった。
待合室のソファには、リクルートスーツを着た数人の学生が座っていた。
彼らは背筋を伸ばし、膝に手を置き、石膏像のように固まっていた。いや、石膏像ならまだ重みがある。彼らは量産型のビニール人形だ。靴紐を解けば、そのままヘリウムガスを含んだ風船のように天井へ張り付いてしまうだろう。
僕は空いている席に腰を下ろした。低反発のクッションが、音もなく沈み込む。僕の体重を受け止める気概のない、媚びへつらうような柔らかさだ。
「赤城鏡也さん、どうぞ」
座ってから三十秒もしないうちに呼び出された。
思考を深める時間すら与えられない。このスピード感こそが、現代社会の病巣であり、同時に彼らが誇る効率性なのだろう。
面接室に入る。
手術室のような照明が、部屋の隅々までを照らし出していた。影がない。隠すべき場所がどこにもない。
中央にガラスのテーブル。その奥に、一人の男が座っている。
面接官だ。三十代半ば。仕立ての良いスーツ。肩にはフケひとつ落ちていない。
彼は人間ではなかった。精巧に作られた自動応答装置だ。眼球の動きが機械的すぎる。
「お掛けください」
蝋人形で作られたようなその男は、声からも感情が完全に除去されていた。
僕はプラスチックの椅子に座った。冷たさがズボンの生地を通して肌に伝わる。
「赤城さんですね。エントリーシート、拝見しました」
男は手元のタブレット端末を指先で弾いた。
「……非常に、ユニークですね。『学生時代に力を入れたこと』の欄に、『自己の存在証明における形而上学的考察』とありますが」
「ええ」僕は頷く。
「簡潔にまとめるとそうなります。文字数制限があったので、かなり省略しましたが、本来なら広辞苑三冊分は必要です」
「なるほど。で、具体的には何を?」
「主に、『呼吸』です」
「呼吸?」
面接官の眉が、不具合を起こしたサーボモーターのようにピクリと跳ねた。
「はい。吸って、吐く。その単純な反復の中に、いかにして『僕』というオリジナリティを刻み込むか。その一点に四年間を捧げました。肺活量ではなく、吸い込む空気の『質』への挑戦です」
面接官はため息をついた。それは「不採用」というスタンプを押す音だった。
「君ね、うちはIT企業なんだよ。求めているのは、高速でPDCAを回せる人材であって、呼吸の深さを競う僧侶じゃない」
「速度とは、相対的なものです」
僕は即座に切り返す。
「御社のサーバーがいかに高速でも、そこに流れる情報の『質』が軽ければ、それは無に等しい。僕一人の思考の質量は、御社の全データセンターの容量を凌駕する可能性があります。ビットコインよりも価値のある『思考コイン』を採掘しているのです」
面接官は、憐れむような目で僕を見た。
「お帰りいただいて結構だ。君の話を聞いていると、頭が物理的に重くなる」
その言葉が、トリガーだった。
ゴゴゴ……という低い地響き。
いや、違う。音が消えたのだ。
重力という鎖が断ち切られた音がした。
面接官のネクタイが、ふわりと持ち上がる。
水中に揺れる海藻のように、空中で踊り始める。
「……え?」面接官が目を見開く。
次の瞬間、彼の手元にあったタブレット端末が、見えない手によって持ち上げられたかのように浮上した。
続いて、ガラスのテーブルが浮いた。
そして、面接官自身の身体も。
「う、わっ!?なんだこれ!地震か!?」
男が叫び、空中で手足をバタつかせた。
しかし、僕は動じなかった。
むしろ、「ようやく来たか」という静かな納得が腹の底に落ちる。
部屋中の文房具、クリップ、クリアファイルが、無重力空間のスペースデブリとなって漂い始める。
窓の外を見る。24階からの景色が、ゆっくりと下がっていく。
このビル自体が、地面という拘束を嫌って、空へと逃げ出し始めたのだ。
「システムエラーだ!」
面接官は天井付近まで浮かび上がり、蛍光灯のカバーにしがみついた。
「重力制御装置のバグか!?総務部!誰か!」
「無駄ですよ」
僕は床に座ったまま、天井を見上げて言った。
僕の尻は、しっかりと椅子に固定されている。懐のおはぎと、僕自身の思考の澱(おり)が、僕を現実に繋ぎ止めていた。
「助けてくれ!窓から放り出される!」
面接官の顔から、さきほどの精巧なアンドロイドのような冷静さが剥がれ落ち、恐怖に歪んだ人間的な表情が露わになっていた。
皮肉なものだ。彼がもっとも「人間らしく」なったのは、地面から足を離した瞬間だったとは。
「無駄ですよ」
僕は懐から、ラップに包まれた黒い塊を取り出した。小春のおはぎだ。
僕はそれをゆっくりと広げ、一口かじった。
甘い。
脳が痺れるような、破壊的なあんこの甘さ。そして、もち米のずしりとした密度。中性子星を食べているようだ。
「ん……悪くない」
僕は咀嚼しながら、天井の面接官を見上げた。口の端に、あんこがついているかもしれないが、今の僕にはそれすら勲章だ。
「騒ぐような異常事態ではありませんよ。これは極めて真っ当な物理現象です。君たちの魂の質量が、大気の浮力にすら負けるほど軽薄になってしまった結果だ。中身のない風船は、空へ飛んでいくのが自然の摂理でしょう?」
「ぐぬう」
「助かる方法は一つです」
僕は足を組み直し、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「僕の話を聞くことです。それも、とびきり長くて、退屈で、生産性の欠片もない、僕という人間の詳細なディテールについて」
「な、なんだっていい!早くなんとかしろ!」
「では、始めましょうか」僕は喉を鳴らした。
部屋の空気は、真空のように希薄だった。だが、僕が言葉を発するたびに、そこに「意味」という粒子が満たされていく。
「僕が今朝、近所の八百屋で小松菜を選んだときのことです。その小松菜の緑色の鮮やかさが、いかにして僕の少年時代の記憶――具体的には小学三年生の夏休みに祖母の家の庭で見た、雨上がりのアマガエルの背中の色――とリンクしたか。そこには、色彩心理学では説明のつかない、ある種の運命的な符合があったのです……」
「……ぐぅ」面接官が呻く。
僕の言葉は、物理的な質量を持った鉛の礫(つぶて)となり、彼の鼓膜を叩いた。
「いいですか、その緑色はパントーンの色見本で言うところの368Cに近い。しかし、雨上がりの湿度が光を屈折させることで、僅かに青みがかる。祖母の家の縁側は南南東を向いており、午後二時の日差しは、そのアマガエルの表皮の粘膜を、神々しいほどヌラヌラと輝かせていました。僕はその粘膜の輝きの中に、宇宙の……」
「や、やめろ……!」
面接官が耳を塞いで呻く。
しかし、僕の言葉は物理的な質量を持った鉛の礫(つぶて)となり、指の隙間から彼の脳髄へと侵入していく。
それは、最新鋭のクラウドサーバーには決してアップロードできない、泥臭く、非効率で、愛すべき不純物の塊だった。
僕は語り続けた。アマガエルの次は、その日の夕食に出たナスの煮浸しの食感について。そして、祖母の家の柱時計が刻むリズムの不規則性について。
十分後。
ドスン!!!
という激しい衝撃と共に、部屋が元の位置に着地した。
浮いていた家具も、面接官も、床に叩きつけられる。
「ぐえっ」とカエルのような声を上げて面接官が這いつくばる。
僕は、乱れたジャケットの襟を直し、ゆっくりと立ち上がった。
部屋の空気は、すっかり淀んでいた。湿っぽく、重苦しく、しかし確かに「地に足のついた」空気だった。
「どうやら、少しは重みを知ったようですね」 僕は床にへばりつく面接官を見下ろして言った。
彼は恐怖と疲労で白目を剥いている。これ以上、僕の話を聞かずに済んで安堵しているようにも見えた。
「今日のところはこれで失礼します。合否の連絡は不要です。御社の器では、僕という質量の保存は不可能だと判断しました」
僕は踵(きびす)を返し、重力の戻った部屋を後にした。
僕は窓の外を見た。
東京の街並みは、相変わらず不安定に揺らいで見える。
だが、僕が歩く一歩一歩が、確かにこのビルを地面に縫い付けている。靴底が床を捉える感触だけが、この世界で唯一信じられる真実だった。
これが、世界を救うということか。
案外、地味で、そして腹の減る仕事だ。
僕は、おはぎの残りを口に放り込んだ。
もち米100%。あんこは二度炊き。
改めて味わうと、その過剰なまでに濃縮された甘さと密度は、単なるカロリーを超えた「執念」のようなものを孕んでいた。
小春のメガトン級のおはぎ。
思えば彼女は、昨日も僕に寿命を前借りするようなカロリーと無償の厚意を提供してくれていた。
ふと、一週間前の記憶が、胃袋の中のおはぎの質量と共に、僕の脳裏に蘇ってきた。
それは、世界がこれほどまでに軽薄になる前の、泥臭くて、退屈で、愛すべき日常の風景だ。
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