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なぜ蓮見翔のおすすめなら、知らないカルチャーにも触れてみたくなるのか

蓮見翔は、カルチャーの担い手として、世界への入口をつくっている

知らないゲストが出演している番組を、わざわざ見ようと思うことは、それほど多くない。

興味のある人物なら見る。好きな作品の関係者なら見る。しかし、名前も活動もよく知らない人の話を、最初から最後まで聞いてみようとは、なかなか思えない。

それでも『トキトケトーク』なら、知らないゲストの回でも見てみようと思える。

その理由は、出演するゲストの知名度ではなく、ダウ90000の蓮見翔というクリエイターの感性を信用しているからなのだと思う。

コンテンツではなく、「誰の感性を通して見るか」を選ぶ

私は、蓮見くんが作る作品が好きだ。

作品が面白いということは、その土台にある感性や審美眼にも、一定の信頼を置いているということでもある。だから、蓮見くんが関心を持っている人や、面白いと感じている作品であれば、自分も少し触れてみようと思える。

もちろん、蓮見くんが知っているゲストや、以前から親しい相手だけが出演するわけではない。それでも、対話の中で蓮見くん自身が相手の作品について見解を述べ、どこを面白いと感じたのかを自分の言葉で話す。

その言葉を聞いていると、もともと知らなかった作品にも興味が湧いてくる。

単に「おすすめです」と紹介されるのではない。信頼しているクリエイターが、なぜそれを面白いと思ったのかを語ってくれる。その解釈が、自分と未知の作品との間に橋を架ける。

私たちは情報そのものを選ぶだけでなく、誰の感性を通して情報に触れるかを選ぶようになっているのかもしれない。

メディアが持っていたキュレーションの権力は、個人へ移った

かつて、何を世の中に紹介するかを決めていたのは、テレビ局や雑誌、新聞などの大きなメディアだった。

誰を番組に呼ぶのか。どの作品を取り上げるのか。何を新しい文化として提示するのか。メディアは情報を伝えるだけでなく、人々が何に出会うかを決めるキュレーションの権力を持っていた。

インフルエンサーや個人メディアの時代になり、その権力は個人へ分散した。

個人が、自分の関心や人間関係を通じて、人や作品、文化を視聴者の前に差し出せるようになった。視聴者も、「大きなメディアが取り上げているから」ではなく、「自分が信頼している人が選んでいるから」という理由で、新しいものに触れる。

情報が不足している時代では、より多くの情報を持つメディアに価値があった。

しかし、情報が多すぎる現在では、すべてを自分で確かめることはできない。だからこそ、何を選ぶかだけでなく、誰の選択を借りるかが重要になる。

蓮見くんは、視聴者と別の文化圏を接続するHUBである

『トキトケトーク』は、単純にさまざまなゲストを呼んで会話をする番組ではない。

蓮見くんの周辺領域にいる人や、何らかの関係を持つ人との対話を通して、視聴者を別の文化圏へ接続している。

流れとしては、蓮見くんの作品への信頼が、その感性への信頼につながる。そして、その信頼を通じてゲストに関心を持ち、さらにゲストの背景にある演劇、音楽、映画、お笑いなどのカルチャーへと興味が広がっていく。

蓮見くんは、番組の中心人物ではある。しかし、視聴者の関心を自分のところで止めるのではなく、別の人や作品へ流していく。

つまり、蓮見くんはスターとして視線を集めるだけでなく、複数の文化圏をつなぐHUBとして機能している。

しかも、そこで提示されるのは、完全に無関係な遠い世界ではない。

蓮見くんの感性や交友関係を介することで、視聴者にとっては未知でありながら、どこか自分にもつながっていると感じられる。自分では検索しなかった人や作品だけれど、少し手を伸ばせば届きそうな距離に置かれる。

この距離感が、世界を広げながらも、視聴者を置いていかない。

偶然ではなく、「信頼できる偶発性」がある

SNSを見ていれば、知らない人や作品に偶然出会うことはある。

しかし、そこには多くのノイズがある。偶然見つけたものが、自分にとって面白いとは限らない。逆に、専門メディアは一定の品質を持っていても、すでにその分野に興味を持っている人に向けたものになりやすい。

『トキトケトーク』には、その中間にあるような魅力がある。

自分では選ばなかった人に出会える偶発性がありながら、蓮見くんの感性を通していることで、一定の信頼もある。完全なランダムではなく、信頼できる人によって品質管理された未知が提供される。

視聴者にとっては偶然の出会いだが、番組としては、蓮見くん自身の関心や人間関係の延長にある。

精緻にターゲットを分析し、視聴者を別の文化へ送客する戦略を設計しているというより、蓮見くん自身の感性に一貫性があるからこそ、その選択が結果として視聴者にも刺さっているのだと思う。

本人の自然な関心が、そのまま上質なキュレーションになっている。

商業圏への囲い込みに見えない

個人による推薦では、その人がなぜ紹介しているのかも重要になる。

明確な商業化が見えると、私は少し距離を置いてしまう。紹介している対象が本当に好きなのか、それとも自分の商品やサービスを売るためなのかが分からなくなるからだ。

もちろん、商業活動であること自体が悪いわけではない。

たとえ仕事として紹介していたとしても、その人自身の言葉で面白さが語られ、個人的な解釈や熱が感じられれば、手に取ってみようと思える。結局は、推薦する人との間に、どれだけ信頼が醸成されているかによる。

『トキトケトーク』は、蓮見くん自身の商業圏を回遊させるための活動には見えにくい。

蓮見くんを入口にしながら、視聴者の関心はゲストやその作品、さらには別の文化圏へと向かっていく。自分が持っている顧客基盤を囲い込むのではなく、他者の文化へ送り出している。

そこに、利他的に見えるキュレーションがある。

自分の影響力を、文化の流通に使う

蓮見くんには、「演劇を流行らせたい」という言葉に象徴されるような、カルチャーの担い手としての使命感があるように見える。

もちろん、本人がどこまで強く使命を意識しているのかは分からない。ネタとして語っている部分もあるのかもしれない。

それでも、実際の振る舞いを見ると、自分が面白いと思った人や作品を、自分のところで止めずに広げようとしている。

自分の利益のために文化を利用するのか。それとも、文化を広げるために自分の影響力を使うのか。

外から見れば、どちらにも商業的な利益は生まれ得る。しかし、その影響力がどちらの方向を向いているように感じられるかによって、受け手の信頼は変わる。

蓮見くんの場合、自分のブランドを強くするためだけではなく、演劇や周辺のカルチャー全体を盛り上げようとしているように見える。その利他性が、番組のキュレーションに対する信頼を支えている。

蓮見くんのファンから、番組のファンになる

最初は、蓮見くんが出演しているから番組を見る。

しかし、番組を繰り返し見ていると、次第にゲストを知っているかどうかは、それほど重要ではなくなっていく。

蓮見くんが次にどんな人と話し、どんな世界を見せてくれるのか。それ自体を楽しみにするようになる。

個人への信頼が、番組のキュレーション機能への信頼へ移っていく。

だから『トキトケトーク』には、蓮見くんのファンでありながら、同時に番組そのもののファンになるという構造があるのだと思う。

良いキュレーションとは、単に珍しい人や作品を紹介することではない。

受け手がまだ知らないけれど、知れば好きになるかもしれないものを、信頼できる言葉で差し出すこと。そして、自分の影響力の中に囲い込むのではなく、そこから別の世界へ送り出すことである。

蓮見くんは、カルチャーの中心に立って、すべてを自分のものにしようとしているわけではない。

自分の感性と、視聴者から預かった信頼を使って、異なる文化圏の間に橋を架けている。

『トキトケトーク』の魅力は、その橋を渡ることで、自分一人では出会えなかった世界に触れられることなのだと思う。

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