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ベンチ外になると、なぜ野球を続ける場所までなくなるのか

甲子園の応援スタンドを見ていると、どうしても気になることがある。

一糸乱れぬダンス。大声の応援。笑顔で仲間を支えるベンチ外の選手たち。そこには確かに、美しさがある。仲間への思いも、学校への誇りも、本物なのだと思う。

それでも私は、あの光景をきれいなまま見ることができない。

なぜなら、その中には、野球をするために入部したにもかかわらず、試合に出る機会だけでなく、自分自身の成長に使う時間まで失っている選手がいるのではないかと思ってしまうからだ。

ベンチ入りできないことと、野球ができないことは違う

高校球児は、野球をしたくて野球部に入る。うまくなりたい。試合に出たい。もっと高いレベルを目指したい。少なくとも、応援をすることを主目的に入部するわけではない。

一方で、公式戦のベンチ入り人数には上限がある。全員が甲子園に出られないのは当然であり、実力による競争そのものを否定するつもりはない。

問題は、ベンチ入り競争に負けたことによって、別の公式戦でプレーする機会までほぼ失われることだ。

強豪校の五十番手であっても、別の学校なら中心選手として試合に出られるかもしれない。しかし高校野球では、学校を選ぶことと、所属チームを選ぶことと、三年間の競技機会を委ねることが、ほとんど一体になっている。

一度入学先を決めれば、その学校でベンチ入りを勝ち取れない限り、公式戦で野球をする機会は極めて限られる。環境が合わなくても、自分に見合ったレベルのチームへ移ることは簡単ではない。

ベンチ入りする権利と、野球をする権利は、本来別のものではないだろうか。

甲子園に出る選手を競争で選ぶことには合理性がある。しかし、選ばれなかった選手が、競技者であり続ける機会まで失うことは、競争の必然ではない。現在の制度がそう設計されているだけである。

強豪校は、ベンチ外選手が生まれることを前提としている

強豪校が多くの選手を受け入れることには、競争上の合理性がある。

母集団を増やせば、想定以上に成長する選手を発見できる。けがや不調への備えにもなる。ポジションごとの競争は激しくなり、チーム全体の水準も上がる。有望な選手が他校の戦力になることも防げる。

つまり、選手を多く抱えることで得られる利益は、学校側に集中する。

一方で、ベンチ外になった選手が負うものは大きい。公式戦に出られない。実戦経験を積めない。大学進学やその先の競技人生へつながる実績もつくりにくい。

それでも、その結果は「実力で勝てなかった」「本人がその学校を選んだ」と、個人の責任として処理される。

組織は母集団を広げることで競争力を得る。しかし、選ばれなかった選手の競技機会については責任を負わない。ここには、利益の享受と責任の所在に大きなギャップがある。

もちろん、独自に入部人数を絞っている強豪校も存在する。ただし、競争原理だけを考えれば、自ら母集団を狭めることは不利になり得る。

良識ある学校だけが制約を課し、多くの選手を抱える学校ほど競争上の利益を得られるのであれば、各校の自主性だけに解決を委ねることには限界がある。

これは個々の学校の善悪というより、制度設計の問題だと思う。

試合に出られない人が、さらに練習時間まで差し出す

ベンチ外選手の問題は、公式戦に出られないことだけではない。

都道府県予選や全国大会が近づけば、多くの学校ではベンチメンバーの練習が優先される。それ以外の選手は、練習補助、球拾い、分析、運営、応援練習などのサポートへ回る。

学校として結果を最大化する方法としては合理的なのだろう。

しかし、選手個人の視点ではどうだろうか。

ベンチ外の選手の中にも、大学で野球を続けたい人はいる。高校時代に試合へ出られなくても、その後に成長し、より高いレベルへ進む可能性はある。

その選手にとって、高校三年の夏は競技人生の終点ではない。応援練習に使う一時間は、打撃、守備、体力づくり、けがの予防に使えた一時間でもある。

競争に負けた結果、試合経験を得られない。さらに、次の競争に向けて成長するための時間まで、レギュラー選手や学校の勝利のために差し出す。

これは、本当に当然のことなのだろうか。

野球部員は、応援練習をするために入部したわけではない。野球をするために入ったはずだ。

部活動の一員として、一定のサポートを担うことは理解できる。チームスポーツである以上、自分以外の選手を支える場面も必要だろう。

ただし、それが本人の成長機会を大きく奪い、長時間の応援練習まで事実上強制するのであれば、野球部が本来提供すべきものとは別の役割を課していることになる。

自己犠牲が美談になると、選ばない自由が消える

応援したい選手が、仲間を応援することは尊重されるべきだ。

最後の大会を一緒に戦いたい。仲間のために声を出したい。自分が試合に出られなくても、チームの勝利を支えたい。その感情を否定する必要はない。

問題は、それ以外の選択が正当なものとして扱われにくいことだ。

自分の練習をしたい。大学に向けて準備したい。別のチームで試合に出たい。環境を変えたい。

こうした選択は、チームより自分を優先している、仲間意識がない、最後までやり切っていない、と見られやすい。

組織への献身は「仲間」「絆」「青春」として称賛される。一方で、自分の競技人生を優先することは、わがままや逃げとして見られる。

この道徳的な圧力がある限り、形式上は選択できても、実質的には自由とは言いにくい。

選択肢が十分にある状態で、応援を選ぶこと。ほかの選択肢がほとんどない状態で、応援することに意味を見いだすこと。

外から見れば同じダンスでも、その二つはまったく違う。

甲子園の応援スタンドには、生徒たちの自発的な思いがある一方で、集団圧力や同調圧力も混ざっている。

その複雑さをすべて覆い隠して、「全員で戦う美しいチーム」として消費してよいのだろうか。

組織が生んだ不利益を、組織の物語として回収する

ベンチ外選手は、単に試合に出られないだけではない。

レギュラー選手の競争相手になり、練習相手になり、チーム運営を支え、応援席から熱量を生み出す。強豪校は、ベンチ外選手からも多くの価値を受け取っている。

しかし、その選手が失った実戦経験や成長時間について、組織はほとんど責任を負わない。

さらに、その献身は「全員野球」「一体感」「仲間を思う気持ち」として、学校や大会の美しい物語へ組み込まれる。

組織が生んだ機会損失を個人の実力不足として処理し、その個人の献身を再び組織の価値として回収する。

甲子園の応援ダンスを見たとき、私が感じる違和感はここにある。

あのダンスをしている選手たちを否定したいわけではない。各校の指導者や野球部を一方的に責めたいわけでもない。

現在のルールや文化の中で勝利を目指すなら、多くの学校が同じ判断をするだろう。だからこそ、個々の学校の善意ではなく、運営側が制度を変える必要がある。

選手を集める自由には、競技機会をつくる責任が伴う

プロスポーツでは、競争の健全性を保つために、サラリーキャップや財務規制などが導入されることがある。

各チームが合理的に行動した結果、リーグ全体の競争環境や持続可能性が損なわれるのであれば、運営主体がルールを整える。

高校野球でも、同じ発想が必要なのではないだろうか。

例えば、ベンチ外選手の移籍制約を緩和する。学校に在籍しながら、外部クラブや別リーグで試合に出られるようにする。Bチーム、Cチームが公式戦へ参加できる仕組みをつくる。一定人数以上の選手を受け入れる学校には、複数チーム分の実戦機会を提供する責任を求める。

入部人数に上限を設ける案も考えられる。ただし、単純な人数制限だけでは、今度は入部時点で野球をする機会を失う人が増える可能性がある。

重要なのは、人数を減らすこと自体ではない。

選手を受け入れるのであれば、競技機会を提供する責任を負うこと。提供できないのであれば、その選手が別の場所で野球をすることを妨げないこと。

この原則を制度に組み込むべきだと思う。

現在は、学校には選手を集める自由と、ベンチメンバーを選び直す自由がある。しかし選手には、入学時の学校選択をやり直す自由がほとんどない。

組織は毎年、選手を選び直せる。選手は環境を選び直せない。

この非対称性は見直されるべきだ。

野球を選べば、野球ができるという約束

今の子どもたちには、多くのスポーツを選ぶ機会がある。野球は、ほかの競技と選ばれる立場にある。

競技人口の裾野を広げたいのであれば、甲子園の魅力やスター選手だけを見せるだけでは足りない。

野球を選んだ結果、三年間ほとんど試合に出られず、自分の練習時間まで応援やサポートに使うことになる。そうした可能性を見た中学生が、別の競技を選ぶことは不自然ではない。

野球を選べば、自分の水準に合った場所で、実際に野球ができる。

少なくとも、それくらいの約束は必要なのではないか。

学生スポーツだから。教育だから。文化や伝統だから。

そうした言葉は、運営側の責任を軽くする理由にはならない。教育活動であるなら、勝利だけでなく、所属する一人ひとりに何を提供したのかが問われるべきだ。

ダンスをなくしたいのではない

私は、甲子園の応援ダンスをなくしたいわけではない。

応援したい選手は応援すればいい。仲間のために声を出したい人は、思い切り声を出せばいい。

ただ、自分の練習をしたい選手は練習できる。試合に出たい選手は別のチームやリーグを選べる。環境を変えたい選手は移籍できる。

どれを選んでも、仲間意識がないとは見なされない。

必要なのは、ダンスが消えることではない。ダンスをするかどうかを、選手自身が選べるようになることだ。

甲子園の応援スタンドからダンスがなくなる日ではなく、スタンドに立つことが唯一の居場所ではなくなる日。

そのとき初めて、あの応援を、自己犠牲の結果ではなく、本人が選んだ純粋な応援として見ることができるのかもしれない。

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