なぜ問いを立てるほど、自分のことが分かってくるのか
なぜ、こんなにも問いが浮かぶのだろう。
日常の中で感じた小さな違和感や、別々に見える二つの出来事の間にある共通点について、考え始めることがある。
考えなくても、生活に困るわけではない。問いを立てたからといって、世界が直接変わるわけでもない。
それでも私は、問いを立て、その答えを自分なりの言葉で考えることが好きだ。
それはおそらく、世界を理解するためであり、同時に、自分という存在を理解するためでもある。
自分自身を、直接見ることはできない
自分という存在には、感情や価値観、好みや美意識が、最初から備わっている。
何かを見て心が動く。ある出来事には違和感を覚え、別の出来事には納得する。何を大切だと思うかについても、完全に中立な基準があるわけではない。
自分は、世界を観察する主体であると同時に、自分自身を観察したい対象でもある。
しかし、自分を見るときにも、見る側にはすでに自分の価値観がある。自分の外に出て、完全に客観的な場所から自分を眺めることはできない。
だから私は、世界に対する自分の反応を通じて、間接的に自分を知ろうとしているのかもしれない。
何に違和感を覚えるのか。どんな出来事の間に関係を見つけるのか。どのような説明に美しさや納得感を感じるのか。
問いは世界についてのものだが、そこには必ず、問いを立てた自分自身が映っている。
世界を理解しようとすることで、その世界を見ている自分の輪郭が少しずつ見えてくる。
問いは、発見するものなのか
問いは、世界の中から発見するものなのだろうか。それとも、自分で生み出すものなのだろうか。
おそらく、その両方なのだと思う。
問いの材料になる出来事や違和感は、すでに現実の中に存在している。しかし、その中から何を取り出し、何と何を結びつけるかは、自分で決めている。
素材は発見する。しかし、素材同士の関係は創造する。
それまで無関係に見えていた二つの出来事の間に、一つの線が引かれる。橋のなかった場所に、自分なりの橋が架かる。
その瞬間、二つの出来事は、単に並んで存在していたものではなく、一つの意味を持った関係として見えるようになる。
問いを立てることの創造性は、何もないところから世界を作ることではない。
すでに存在している世界の中から断片を拾い、それらに新しい関係を与えることにある。
そこにしかなかったように見えるゴール
美しいサッカーのゴールを見たとき、ボールがまるで糸を引くように選手の間を通り、最後にはそこにしかなかった場所へ収まるように感じることがある。
もちろん、実際には無数の別の展開があり得た。
パスがずれる可能性もあった。別の選手が別の選択をする可能性もあった。相手の守備によって、攻撃が途中で終わる可能性もあった。
しかし、ゴールが決まった後から一連の流れを見ると、すべての動きがその一点へ向かっていたかのように見える。
問いへの答えを考えることにも、これと似た感覚がある。
目の前にある現象を要素へ分解し、現在の姿から過去へ遡り、始まりと終わりを結ぶプロセスを考える。
最初はバラバラだった事実が、一つのストーリーとしてつながる。
そのストーリーが内部で矛盾せず、いくつもの出来事を一つの構造として説明できたとき、まるで最初からそこに答えがあったかのように感じられる。
パズルの最後のピースが、かっちりとはまるような感覚である。
真理ではなくても、妥当である
もちろん、そのストーリーが本当に正しいかどうかはわからない。
社会や人間について考える問いの多くには、実験によって一つの正解を確定できるようなものではない。
自分が見落としている要因もあるだろう。別の立場から見れば、異なるストーリーが成立するかもしれない。
説明が美しくつながることと、それが真実であることも同じではない。
それでも、正解でない可能性があるからといって、考えることに意味がなくなるわけではない。
事実と大きく矛盾せず、複数の現象を一つの流れとして説明でき、自分なりの納得感がある。その解釈には、真理とは別の価値がある。
それは、「正しい」とは言い切れなくても、「妥当である」とは言えるような価値である。
私は真理を所有したいわけではないのだと思う。
世界と関係を結ぶために、ひとまず信頼できる橋を架けたい。
そして、その橋を自分の言葉で渡ってみたい。
知らない世界は怖い
知らない世界は怖い。
どこまで続いているのかも、何が起きるのかもわからない。自分とどのような関係があるのかも見えない。
世界が、自分とは無関係な巨大なものとして存在しているとき、そこには距離がある。
しかし、問いを立て、考え、言葉にすることで、その世界には少しずつ手触りが生まれる。
完全に理解できたわけではない。すべてを知ったわけでもない。
それでも、一度自分の思考が通った場所は、以前と同じ未知ではなくなる。
「ここについて、私は一度考えたことがある」
「私はこの現象に、こういう意味を見つけた」
そう言えることが、世界との距離を少しだけ縮めてくれる。
言葉や思考を介して世界とつながることは、自分の手の届く世界を拡張することなのかもしれない。
世界に触れながら、自分を知る
問いを立てても、世界は変わらない。
答えを考えても、それが真理であるとは限らない。問いなど、あってもなくても、現実そのものは同じように存在し続ける。
それでも私は問いを立てる。
世界の断片を拾い、要素へ分解し、離れていたものの間に橋を架ける。その橋が一つのストーリーとしてつながったとき、世界は少しだけ理解可能な姿になる。
そして、その橋の架け方には、自分自身が現れる。
どんなものを拾い、何と結びつけ、どこに納得し、何を美しいと感じるのか。
世界を理解しようとすることは、その世界を見ている自分を知ることでもある。
私は、正解を見つけるためだけに考えているのではない。
問いを立て、言葉を与えることで、知らない世界に触れている。
その手触りによって、世界は少しだけ怖くなくなる。
そして、触れられる世界が広がるほど、その世界に触れている自分自身の姿も、少しずつ見えるようになるのだと思う。
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