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“整っている”という奇跡に、ありがとう

── 名もなき誰かの仕事に、静かなお礼を

朝、新聞が届く。
セミの声がけたたましい、真夏の朝だ。

昨日の夜中に降った雨はもう止んで、空はすっかり晴れている。
けれど玄関先には、まだうっすらと雨上がりの気配が残っていた。
湿り気のある床は、足元が滑らないよう、きれいに拭き上げられている──
ただ、それだけのことが、なんだかありがたく感じられた。

特別なことではない。
でも、“整っている”という日常が、どれほど多くの人の手によって支えられているか。
それを、オーストラリアで暮らしていたとき、私はようやく知った。


ガーデンシティで暮らす、おおらかな朝


門から玄関まで広い前庭がある家が並ぶ、その町では、
新聞は車から「ポン」と投げ込まれ、庭に着地する。
ドスンという音を合図に、飼い犬が勢いよく走り出す。

新聞を誇らしげにくわえて戻ってくる姿はほほえましいけれど、
たまにビリビリだったり、見つけられずにしょんぼり帰ってくる日もあった。

スーパーでは、商品がなければ「No? No.」のひとことで終わる。
倉庫を確認することもなければ、欠品を謝ることもない。
代わりに、「また来てね」の笑顔が、すべてだった。

雨の日でも、傘はあまり見かけなかった。
レインコートにデザートブーツで、足元を気にせずガシガシ歩いていく。

「しょうがないね」「そんなこともあるさ」と、
大体のことは軽やかに受け流す、その土地の気質は、案外、心地よかった。
どこかおおらかで、ざっくりとした日常。
けれど、日本の暮らしの細やかさを思い出すたび、それは少し驚きに変わった。

感謝の感度をもつということ


わたしたちは、誰かの“見えない仕事”の上に暮らしている。

昨夜、閉店間際のスーパーで買ったお気に入りのヨーグルトを開け、
いつも通りの時間に身支度を整え、
濡れていない玄関から、足元の心配なく家を出る。
そして、いつもの電車に乗って、何事もなく一日が始まっていく。

そんな朝を、何の疑いもなく過ごせるのは──
顔も名前も知らない誰かの、静かな手仕事が積み重なっているからだ。

そのことにふと気づけた日は、少しだけ、暮らしがやさしく見える。

何も気にせず、歩き出せる朝には、
名もなき誰かの無数の仕事がある。

今さらだけど──ありがとう。



最後まで読んでくださって、ありがとうございました。
少しでも響くものがあれば、“スキ”で教えていただけるとうれしいです。

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