琥珀の共鳴 (レゾナンス) 2
第二章 黒哭石の部屋
午前六時四十分。
空は薄曇りだった。太陽は昇っているはずなのに、街全体へ灰色の膜がかかっている。昨夜から続く幸福汚染のせいなのか、それとも単純に寝不足なのか、詩乃には判別がつかなかった。
特殊心理対策課・中央分室。ここは、通常の警察署とは違う。建物全体へ共鳴遮断処理が施され、壁材には感情粒子吸収鉱が混ぜ込まれている。入口では金属探知機ではなく、“情動波形測定器”が来訪者を監視していた。だから、強い感情汚染を持ち込んだ者は、その場で拘束される。
受付横では、若い調律補助員が鼻血を拭いていた。昨夜の幸福事件の後処理だろう。幸福汚染は神経系への負担が大きい。特に経験の浅い調律師ほど、“幸福へ呑まれる”。
詩乃は無言で通り過ぎた。
「おはようございます。榊主任」
「おはようございます」
「昨夜の事件、もう報告書が回ってきてます。上層部がかなり騒いでいて……」
「あとで読むわ」
「それと、第三処理室の憤怒案件が限界です」
詩乃の足が止まる。
「まだ保っているの?」
「調律班二名が負傷しました。黒哭石が増殖しています」
詩乃は小さく溜め息を吐いた。
休む暇はなさそうだ。幸福事件の解析をしたいが、感情災害は待ってくれない。都市は毎日、誰かの感情で壊れ続けている。
第三処理室の扉が開いた瞬間、鉄臭さが鼻を刺した。同時に、
ギィィ……
低い軋み音が響く。部屋の壁一面から、漆黒の結晶が突き出していた。黒曜石。いや、正式名称は黒哭石。憤怒感情が結晶化した鉱石だ。漆黒の中にわずかな透明感を持ち、照明を受けると刃物のような鈍い光を返す。
鋭い。あまりにも鋭い。床には割れた結晶片が散乱していた。防護服を着た調律補助員が、腕を押さえてうずくまっている。
「傷は」
詩乃が尋ねる。
「浅いです……でも、イライラが止まらなくて……」
補助員の目は赤く充血していた。
感染している。黒哭石は危険だ。皮膚を裂かれると、怒りが神経へ侵入する。最初は軽い苛立ち。だが進行すると、理性より先に攻撃衝動が動く。
DV。
通り魔。
衝動殺人。
怒り型の災害が危険視される理由だった。詩乃は室内を見渡す。
壁。天井。デスクや椅子。すべてから黒哭石の棘状のものが生えている。
「発生源は」
「っ⋯中央です」
補助員が震える声で答えた。部屋の奥に一人の男が拘束椅子へ固定されていた。三十代。痩せていて、目だけが異様に怒りに燃えている。男の右腕には、黒哭石の棘が突き刺さっていた。いや、突き刺さっているのではなく、腕そのものから生えているようだ。
「妻と娘を殴って殺しかけたそうだ」
後ろから三崎が言った。いつの間にか来ていたらしい。
「近隣住民の通報。駆けつけた時には部屋全体が黒哭石化していた」
男が、ぎり、と歯を鳴らし笑った。
「うるせぇんだよ……」
声が掠れている。
「泣くなって言ってんのに、ずっと泣いてやがって……」
床の黒哭石が、ぴし、と音を立てて伸びる様子を見て、補助員が怯える。怒りが増幅している。詩乃は男を見つめ、感情を見る。怒りだけではなく、その奥の疲労。自己嫌悪。生活苦。無力感。積み重なった感情が、最後に“怒り”として噴き出しているようだ。
詩乃はケースを開き、銀色の音叉を取り出す。三崎が眉を寄せる。
「浄化できるのか」
「完全には無理ね」
「なら?」
「怒りを削る」
詩乃は男へ近づくと、男が拘束具を鳴らす。
「触んな……!」
その瞬間、床の黒哭石が一斉に伸びた。
棘。
槍。
怒りの結晶。
だが詩乃は動かなかった。音叉を静かに振る。
キィン――……
高く澄んだ音が、室内へ広がり黒哭石の動きが止まった。いや、“迷った”ように見えた。感情鉱石は、共鳴によって性質が変わる。調律師は音で感情へ介入する。怒りを否定するのではなく、周波数を変え暴走を少しだけ静める。
「怒りを感じること自体は悪じゃないのよ」
詩乃は静かに言った。男の目が揺れる。
「……っ」
「怒りは、自分が傷ついている証拠だから」
黒哭石が、ぎしっと音を立てて軋む。
「でも、それを誰かへ刺した瞬間、感情は災害になるのよ」
詩乃は音叉を男の右腕へ近づけた。棘が震える。
ギギギギ……
嫌な音だ。男が呻いた。
「やめろ……!」
「痛い?」
「当たり前だろうが!」
「なら、まだ大丈夫ね」
詩乃は低く言った。
「怒りは、痛みを感じなくなった時が一番危険だから」
次の瞬間、詩乃は音叉を黒哭石へ叩きつけた。
キィィィィィン――!!
共鳴音が爆ぜる。部屋中の黒哭石に亀裂が走った。男が堪らず絶叫する。黒い棘が砕け、床へ散乱した。
この鋭い破片は、この男の怒りの残骸だ。男は荒く息を吐き、そのまま泣き崩れた。
「……俺は、ただ」
涙。次第に、怒りの奥にあった感情が出てくる。
「ちゃんとしたかっただけなのに……」
詩乃は何も言わなかった。
感情災害の多くは、“悪意”だけで起きるわけではない。むしろ逆だ。救われなかった感情や積み重なった疲弊。理解されなかった孤独。それらが変質し、鉱石状になり現れる。調律師は、処刑人ではない。単に感情を切り捨てる仕事でもない。壊れる前に、“音を戻す”。それが役目だった。
詩乃は砕けた黒哭石を採取管へ回収する。漆黒の結晶片。その鋭さを見つめながら、彼女は昨夜の琥珀を思い出していた。
怒りは痛い。だから、人は止まろうとする。だが幸福は違う。幸福だけは誰も止めたがらない。
そのとき、対策課の警報が鳴り響いた。
赤色灯。
電子音。
部屋の空気が張り詰めていく。
《中央区駅構内にて感情汚染確認》
《琥珀化患者一名が追加》
詩乃と三崎の視線が交差する。
「また駅かよ」
そして、放送は続く。
《現場周辺で、原因不明の集団多幸症状が発生中》
沈黙。詩乃はゆっくりと目を閉じた。始まっている。昨夜の事件は、ただの点ではなかった。都市へ滲み始めている。
幸福という名の汚染が。
