薄毛は遺伝する。でも「母方のおじいちゃんを見ろ」は雑すぎる。
「将来ハゲるか知りたかったら、母方のおじいちゃんを見ろ」
男なら、一度くらい聞いたことがあるかもしれない。
そして、見てしまう。
母方の祖父の頭を。
ある。
よかった。
ない。
終わった。
自分の30年後が、正月の食卓で決まったような気持ちになる。
でも、そんなに簡単なら、AGAの研究者はとっくに仕事を失っている。
最初に結論を言う。
AGAには、確かに遺伝が強く関係している。
そして、「母方」という話にも、まったく根拠がないわけではない。
でも、母方のおじいちゃんの頭を見ただけで、あなたの未来の髪が分かる。
これは、さすがに雑すぎる。
なぜならAGAは、「薄毛遺伝子」という1本のスイッチで決まる病気ではないからだ。
そもそも、なぜ「母方のおじいちゃん」なのか
この都市伝説には、理由がある。
鍵になるのが、AR (Androgen Receptor)。
日本語では、アンドロゲン受容体。
前に書いたAGAの記事で何度も出てきた、男性ホルモンのシグナルを受け取る側だ。
このARをコードする遺伝子は、X染色体上に存在する。
ここが重要だ。
男性の性染色体は、XY。
X染色体は母親から。
Y染色体は父親から受け取る。
だから、男性のX染色体上にあるAR遺伝子は、母親由来になる。
そしてAR遺伝子周辺の遺伝的変異と男性型脱毛症との関連は、以前から研究で繰り返し報告されてきた。
ここまで聞くと、「ほら。やっぱり母方じゃん」となる。
もう少し待ってほしい。
遺伝の話は、ここから急に面倒になる。

母親は、おじいちゃんのコピーではない
当たり前なのに、なぜか薄毛の話になると忘れる。
あなたの母親には、父親と母親がいる。
つまり、あなたの母方の祖父と、母方の祖母だ。
母親が持つ2本のX染色体は、その両親から一本ずつ受け継いでいる。
そして息子は、母親が持つX染色体のうち一本を受け取る。
だから、「母親からX染色体をもらう」と、「母方のおじいちゃんのX染色体をそのままもらう」は、同じ意味ではない。
ここだけでも、「母方の祖父を見れば分かる」という話はかなり怪しくなる。
でも、もっと大きな問題がある。
AGAは、そもそもX染色体だけの話ではない
ここが一番重要だ。
AGAの遺伝研究が進むにつれて、関連する遺伝的領域は、X染色体以外にも数多く見つかっている。
たとえば、
20番染色体。
1番。
5番。
7番。
18番。
ほかにもある。
大規模なGWAS(Genome-Wide Association Study)、
日本語では、ゲノムワイド関連解析。
簡単に言えば、何万人という人のDNAを並べて、
「薄毛の人には、どんな遺伝的特徴が多いのか」
を巨大なデータから探していく研究だ。
こうした研究によって、男性型脱毛症には多数の遺伝的領域が関係することが分かってきた。
つまり、AGAは、一個の遺伝子で決まるものではない。
専門的には、polygenic。多遺伝子性。
いくつもの遺伝的要因が、少しずつリスクに関わっている。

「薄毛遺伝子」を探すという発想が、そもそも違う
人は、原因を一個にしたがる。
太った。炭水化物のせい。
眠れない。スマホのせい。
疲れた。自律神経のせい。
髪が薄くなった。遺伝のせい。
一個にすると、話が分かりやすくなる。
でも、身体はだいたい、そんなに親切にはできていない。
AGAも同じだ。
AR。
20p11。
WNTシグナルに関連する領域。
毛包の発生。
アンドロゲンへの反応。
細胞の維持。
さまざまな生物学的経路に関係する、遺伝的要因が研究されている。
一人の犯人がいるのではない。
むしろ、小さな容疑者が大量にいる。
そして、その組み合わせが人によって違う。
遺伝子という言葉を聞くと、「設計図」を想像する。
でもAGAに関しては、完成した建築図面というより、大量のパラメータが入った設定ファイル、くらいに考えたほうが近いかもしれない。
一つの数字だけで、完成形は決まらない。
父親がフサフサでも、安心とは限らない
逆もある。
父親が薄毛だから、「俺も終わった」、、、
と思う必要はない。
父親が70歳で髪が多いから、「俺は大丈夫」とも言えない。
なぜなら、僕たちは父親のコピーでも、母親のコピーでもないからだ。
父から半分。
母から半分。
さらに、
その父と母も、それぞれの両親からDNAを受け継いでいる。
何世代にもわたって混ざったものが、自分の中にある。
家系図を一本の線で見ると、
「父親似」
「母親似」
となる。
でも、遺伝子から見ると、自分はもっと複雑なモザイクだ。
鼻は父親。
目は母親。
体格は祖父。
髪質は祖母。
なんて単純に部品分けできるわけでもない。
まして、AGAのような多遺伝子性の形質を、一人の親族だけで予測するのは難しい。
じゃあ、遺伝子検査をすれば未来は分かるのか
ここで、現代人らしい発想に。
「だったらDNAを調べればいいじゃん」
確かに、AGAに関連する遺伝的変異は多数見つかっている。
実際、複数のSNPを組み合わせて、男性型脱毛症のリスクを予測しようとする研究も行われている。
- SNP -
Single Nucleotide Polymorphism。
一塩基多型。
DNAを構成する文字列の、一文字レベルの違いだ。
たとえば、ある場所がAの人。Gの人。
そんな小さな違いを大量に調べて、AGAとの関連を見る。
かなり未来っぽい。
でも、現時点で、DNAを読めばあなたが
「何歳で、どこまで薄くなるか」
を完璧に言い当てられるわけではない。
大規模な遺伝予測研究でも、重度の男性型脱毛症などについて一定の予測力は示されているものの、未来を100%決定できるものではない。
しかも、遺伝的関連や予測性能は、集団によって違う可能性がある。
欧州系集団で見つかったリスク情報が、そのまま世界中のすべての人へ同じ精度で当てはまるとは限らない。
DNAは、未来を読む水晶玉ではない。
「遺伝する」と「決まっている」は、まったく違う
ここを混同すると、遺伝の話は急につまらなくなる。
AGAには、遺伝的素因がある。
これは重要だ。
でも、遺伝的素因があることと、未来の髪型が出生時に確定していることは、同じではない。
身長を考えると分かりやすい。
身長も、遺伝の影響を強く受ける。
でも、父親が175cmだから、息子が175.0cmになるわけではない。
兄弟ですら違う。
遺伝とは、コピー機ではない。
可能性の範囲に、傾きをつくるものだ。
それでも家族を見る意味はある
じゃあ、家族の髪なんて見る意味がないのか。
それも違う。
AGAの診療では、家族歴は重要な情報の一つになる。
父親。
母方の祖父。
父方の祖父。
兄弟。
叔父。
家系の中で、若いうちからAGAが進行した人が複数いるなら、自分の変化を少し意識しておく理由にはなる。
でも、やることは、親族の頭を採点することではない。
大事なのは、結局、自分を見ることだ。
半年前。
一年前。
三年前。
生え際はどうだったか。
つむじはどうだったか。
髪の太さはどうだったか。
セットしたときの感覚はどうだったか。
遺伝について100本論文を読んでも、
あなたの生え際を去年の位置に戻して見せてはくれない。
だから、家族歴を知る。
そして、自分の時間軸を見る。
この二つを分けないほうがいい。
遺伝子は「運命」ではなく、「条件」なのかもしれない
人間は、自分で選んでいないものを大量に持って生まれる。
身長。
骨格。
顔。
肌。
髪質。
代謝。
そして、病気へのなりやすさの一部。
AGAへの遺伝的素因も、その中にある。
選んでいない。
だから、変えられない部分もある。
でも、ここで面白いのは、人生そのものは、遺伝子だけでは完成しないということだ。
同じDNAを持つ人間ですら、まったく同じ人生にはならない。
身体は、受け継いだものと、時間の中で起きたことの、両方でできている。
遺伝という言葉を聞くと、すぐに未来の話をしたくなる。
「俺もハゲる?」
でも、本当に見るべきなのは、未来ではなく、現在なのかもしれない。
何を受け継いだかは、完全には選べない。
でも、今、自分の身体に何が起きているかを知ることはできる。
進行する薄毛が気になるなら、医療機関へ相談することもできる。
必要な治療を選ぶこともできる。
日常の頭皮をケアすることもできる。
そして、何も問題が起きていない時から、自分の身体に時間を使うこともできる。
母方のおじいちゃんを見る前に、自分を見よう

薄毛は、遺伝する。
でも、「母方のおじいちゃんが薄毛だから、自分も薄毛になる」ではない。
「父親がフサフサだから、自分は大丈夫」でもない。
AGAは、もっと複雑だ。
AR遺伝子。
X染色体。
複数の常染色体上の遺伝的領域。
多数のSNP。
アンドロゲンシグナル。
毛包の性質。
そして、時間。
いろいろなものが重なって、一人の身体になる。
だから、家族写真を見て、30年後の自分を決めなくていい。
未来を当てるより、今の自分を見る。
たぶん、身体との付き合い方は、そのほうがずっと面白い。
30秒でわかる|AGAは母方から遺伝する?
AGAには遺伝的要因が強く関係します。
特に、AGAとの関連が知られるAR(アンドロゲン受容体)遺伝子はX染色体上にあり、男性はX染色体を母親から受け取るため、「母方の遺伝が重要」という話には一定の背景があります。
ただし、AGAはAR遺伝子だけで決まるものではありません。
現在ではX染色体以外も含む多数の遺伝的領域がAGAと関連することが分かっており、AGAは多遺伝子性の複雑な形質と考えられています。
そのため、
「母方の祖父が薄毛=自分も必ず薄毛になる」
「父親が薄毛ではない=自分も大丈夫」
とは言えません。
家族歴は参考になりますが、実際に薄毛の進行が気になる場合は、自分自身の経時的な変化を確認し、必要に応じて皮膚科などの医療機関へ相談してください。
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PREVIOUS JOURNAL
生え際か、つむじか。AGAはなぜ「そこ」から始まるのか。
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「1日100本抜けたら危険」は、本当か。——人は数字を見ると安心する。
50本。
80本。
100本。
ネットで抜け毛について調べると、必ずと言っていいほど数字が出てくる。
でも、身体は100本目と101本目の間に境界線を引いているわけじゃない。
では、医療では「抜け毛」をどう見るのか。
次回は、なぜ身体を「数字」で理解したくなるのか、
というところから考えます。
REFERENCES
・Sadasivam IP, et al.
Androgenetic Alopecia in Men: An Update On Genetics.
Indian Journal of Dermatology. 2024.
・Hillmer AM, et al.
Genetic variation in the human androgen receptor gene is the major determinant of common early-onset androgenetic alopecia.
American Journal of Human Genetics. 2005.
・Hagenaars SP, et al.
Genetic prediction of male pattern baldness.
PLoS Genetics. 2017.
・Chen Y, et al.
Genetic prediction of male pattern baldness based on large independent datasets.
European Journal of Human Genetics. 2023.
・Li R, et al.
Male-pattern baldness susceptibility locus at 20p11.
Nature Genetics. 2008.
・The Genetic Landscape of Androgenetic Alopecia: Current Knowledge and Future Perspectives.
Biology. 2026.
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、医学的な診断・治療や個人の発症リスクの判定を目的とするものではありません。薄毛や脱毛、頭皮の症状などが気になる場合は、皮膚科などの医療機関へご相談ください。
