好きな香りが、しばらくすると消える。鼻はなぜ「慣れる」のか。
ホテルのロビーに入った瞬間、
「あ、いい匂いがする」
と思ったことがある。
ところが、チェックインをして、エレベーターを待って、部屋に向かうころには、
もうほとんど気にならない。
香りは、まだそこにある。
ディフューザーも止まっていない。
空調も変わっていない。
なのに、自分の中からだけ、香りが消えている。
そして不思議なことに、翌朝、同じロビーに降りてくると。また、香る。
昨日と同じ場所。
昨日と同じ香り。
変わったのは、空間ではない。
鼻のほうだ。
「香りが消えた」のではない
同じ香りをしばらく嗅いでいると、感じる強さが少しずつ下がっていく。
これは、嗅覚の「順応」や「馴化」と呼ばれる現象と関係している。
少し言葉を分けておこう。
・「順応(adaptation)」は、嗅覚受容器など末梢から中枢まで含む神経系の反応が、持続する刺激に対して変化していく現象。
・「馴化(habituation)」は、同じ刺激が繰り返されることで、知覚や行動としての反応が弱くなっていく現象として使われる。
実際の「匂いに慣れた」という経験には、
その両方が関わっていると考えられている。
つまり、
香りの分子が部屋から消えたわけではない。
脳と鼻が、その香りに対する反応を変えている。
なぜ、そんなことをするのか。
ここからが面白い。

鼻の仕事は、「いい香りを楽しむこと」ではない
嗅覚を、香水やアロマを楽しむための感覚だと思うと、慣れることは欠点に見える。
せっかくいい香りなのに、なぜ感じなくなるのか。
でも、嗅覚の仕事を別の角度から考えると、
かなり合理的だ。
笑たちの周りには、常に大量の匂いがある。
自分の服。部屋。家具。洗剤。シャンプー。
食べ物。人。外気。
そのすべてを、ずっと同じ強さで感じ続けていたらどうなるだろう。
おそらく、「変化」が分かりにくくなる。
嗅覚の順応についての研究では、持続的、あるいは反復的に同じ匂いへ曝露されると、その匂いに対する感度や知覚される強度が低下することが知られている。
一方で、刺激から離れると、感度は再び回復していく。
つまり嗅覚は、ずっとそこにあるものより、
「何かが変わった」
という情報を拾いやすい仕組みを持っている。
香りに慣れることは、
鼻が鈍くなった証拠ではない。
むしろ、変化を見つけるための機能でもある。

自分の家の匂いを、自分だけが知らない
旅行から帰って、玄関を開けた瞬間。
「あれ、うちってこんな匂いだったっけ」
と思うことがある。
普段は、ほとんど感じない。
でも数日間、その環境から離れて戻ってくると、
急に分かる。
家の匂いは、
旅行中に突然発生したわけではない。
ずっとそこにあった。
変わったのは、自分の嗅覚だ。
同じ環境に長くいることで弱くなっていた反応が、そこから離れることで回復した。
だから、戻った瞬間にもう一度気づく。
これは家だけではない。自分の服。車。仕事場。
サロン。
そして、自分自身の匂いもそうだ。
ここには、少し厄介な問題がある。
「自分が感じない」と「存在しない」は違う
香水を朝につける。最初は香る。
しばらくすると、感じなくなる。
そこで、もう一度つける。
午後になって、また感じなくなる。
さらに足す。本人としては、
「香りが弱くなった」から足している。
でも周囲の人には、最初から十分に香っていたかもしれない。
自分の知覚が弱くなったことと、
空間に存在する香りが弱くなったことは、同じではない。
これは、香水を使う人にとって、かなり実用的な話だ。
「自分が感じなくなったから」という理由だけで、
香水やフレグランスを足さない。
少しその場から離れてみる。
屋外に出る。
別の空気を吸う。
時間を置いてから戻る。
自分の鼻を、一度リセットする。
厳密には「完全なリセット」という表現は科学的ではないけれど、同じ匂いへの曝露を止めることで、低下していた感度が回復していくことは実験でも確認されている。
香りを判断したいなら、嗅ぎ続けない方がいい。
これは、意外と知られていない。

コーヒー豆で「鼻をリセット」は、本当に必要なのか
香水を買おうと思い、いくつもの香りを試していると、コーヒー豆を渡されることがある。
「鼻をリセットしてください」
というやつだ。
でも、ここで重要なのは、コーヒー豆そのものに特別な「嗅覚リセット能力」がある、
と考えないことだ。
香りを嗅ぎ続けたあとに必要なのは、まず刺激から離れること。
無臭に近い空気の中で少し時間を置く。
別の強い香りを重ねれば、必ず鼻が初期状態に戻る、という単純な話ではない。
だから香水を比較するときも、10本を連続して嗅いで、最後に一番好きなものを決めるより。
数を絞る。少し離れる。時間を置く。
もう一度嗅ぐ。
その方が、自分が本当にどう感じるかを判断しやすい。
嗅覚には、「休ませる」という使い方がある。
店の「いい香り」を、一番信用できないのは誰か
ここからは、店舗を運営している人にも関係する。毎日その空間にいるスタッフだ。
店に入った瞬間、お客様には香りが届いている。
でも、何時間もその空間にいるスタッフには、
ほとんど感じられなくなっている可能性がある。
すると、「ちょっと弱いかな」と思う。
ディフューザーを強くする。
数日すると、また弱く感じる。
さらに強くする。
もし判断基準が、その空間に長時間いる自分の鼻だけなら、香りは少しずつ強くなっていく。
だから、空間の香りを設計するときには、
「自分が感じるか」だけで判断しない方がいい。
外から入ってきた人に確認してもらう。
一度外へ出てから入り直す。
使用量や濃度を記録しておく。
時間帯による違いを見る。
香りは、置いた人ではなく、入ってきた人が最初にどう感じるか。
その視点が必要になる。
これは、Azabu Re.TREATで香りを扱ううえでも、
かなり重要な考え方だと思っている。
「慣れる香り」と「慣れにくい香り」がある
もう一つ面白い。
すべての匂いに、まったく同じ速度で慣れるわけではない。
匂い物質の濃度。曝露時間。分子の性質。
その匂いが持つ刺激性。
そして、その人がどう感じているか。
こうした条件によって、順応や馴化の程度は変わる。だから、「香りは○分で感じなくなる」
のように一つの数字では決められない。
さらに、鼻で感じる「匂い」だけではなく、
メントールのスーッとする感じや、
アンモニアのツンとした感じのように、
三叉神経への刺激が加わるものもある。
私たちが「香り」と呼んでいるものは、実はかなり複雑だ。
鼻は、ただ匂い分子を検出するセンサーではない。その刺激が続いているのか。新しいのか。
強くなったのか。弱くなったのか。
時間の変化まで含めて、環境を読んでいる。

だから、「最初の一瞬」は特別になる
ホテル。レストラン。自宅。車。
そして、サロン。
空間の香りについて考えるとき、ずっと強く香らせることが重要なのではない。
むしろ、その空間へ入った瞬間に、どう感じるか。そこから数分経ったとき、香りがどの程度「背景」へ下がっていくか。
この設計の方が、面白い。
いい香りだから、ずっと意識させればいい。
必ずしも、そうではない。
香りが、少しずつ意識から消えていく。
その結果、空間そのものが前に出てくる。
照明。音。温度。椅子の感触。人の声。
そして、自分の身体。
香りは、存在を主張し続けなくてもいい。
むしろ、「気づかなくなった」という状態まで含めて、香りの体験なのかもしれない。
消えた香りは、戻ってくる
最初のホテルのロビーに戻ろう。
昨日、入った瞬間に感じた香り。
しばらくすると、消えた。
翌朝、部屋から出て、もう一度ロビーへ行く。
また、香る。香りは、昨日もずっとそこにあった。
私たちの感覚は、世界をそのまま受け取っているわけではない。必要なものを強く感じ、同じものには少しずつ慣れ、変化が起きると、また気づく。
だから、「感じなくなった」ということは、
「なくなった」ということではない。
香りだけではなく、もしかすると、身体についても似たことがある。
ずっとそこにあるものほど、
私たちは気づきにくい。

30秒でわかる|なぜ同じ香りを感じなくなる?
同じ香りを持続的・反復的に嗅いでいると、嗅覚系の反応や知覚される強度が低下します。
これは嗅覚の「順応」や「馴化」と呼ばれる現象に関係しており、香りそのものが消えたとは限りません。
その香りから離れて時間を置くと、感度は再び回復していきます。
そのため、香水や空間の香りを評価するときは、「自分が感じなくなった=香りが弱くなった」と判断しないことが重要です。
Azabu Re.TREAT
Azabu Re.TREATは、麻布十番のプライベートヘッドスパです。
香りは、強ければいいとは考えていません。
空間に入った瞬間。施術が始まる瞬間。
そして、いつの間にか香りそのものを意識しなくなる時間。嗅覚も含めた感覚の変化まで、一つの体験として考えています。
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皮脂があるのに、頭皮は乾く。『脂っぽい』と『潤っている』は別の話。
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シャンプーは、何を洗っているのか。髪と頭皮を同じものとして扱わない。
毎日、髪を洗う。でも、少し変な言葉だ。
シャンプーが触れているのは、髪だけではない。
では私たちは毎晩、いったい何を洗っているのだろう。
REFERENCES
・Pellegrino R, et al.
Habituation and adaptation to odors in humans.
Physiol Behav. 2017;177:13-19.
PMID: 28408237.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/28408237/
・Dalton P.
Psychophysical and behavioral characteristics of olfactory adaptation.
Chem Senses. 2000;25(4):487-492.
PMID: 10944515.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/10944515/
・Stuck BA, et al.
Subjective olfactory desensitization and recovery in humans.
Chem Senses. 2014;39(2):151-157.
PMID: 24293565.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24293565/
・Yoder WM, et al.
Evidence of rapid recovery from perceptual odor adaptation using a new stimulus paradigm.
Atten Percept Psychophys. 2014;76(4):1093-1105.
PMID: 24500750.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/24500750/
・Dalton P, Wysocki CJ.
The nature and duration of adaptation following long-term odor exposure.
Percept Psychophys. 1996;58(5):781-792.
PMID: 8710455.
https://pubmed.ncbi.nlm.nih.gov/8710455/
※本記事は嗅覚に関する一般的な情報提供を目的としています。嗅覚の低下・消失・異臭を感じる状態などが続く場合には、耳鼻咽喉科などの医療機関へご相談ください。
