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墓碑の余白──『インビジブルフレーム』後日譚

📢 本編を読む前に

この物語は、『インビジブルフレーム:The Frame Is Set』の後日譚です。

白石輝道をめぐる長い事件を終えたあと、寅子の中には、ひとつだけ答えの出ない問いが残っていました。

親友の宮武真理は、父と母を奪った白石を追うなかで、自らも一線を越えました。汐見橋の上で、真理は寅子に問いかけます。

「動機が違えば、やったことは、許されるの?」

寅子は、答えることができませんでした。

本作は、それから少しあとの物語です。事件そのものは、もう終わっています。

ある日、祖父・久兵衛の墓を訪れた寅子は、墓石の側面に、それまで気づかなかった一人の名前を見つけます。

源 正蔵。

寅子が、一度も聞いたことのない名前でした。

本作だけでもお読みいただけますが、『インビジブルフレーム』を先にお読みいただくと、寅子の中に残された問いと、この物語の終盤が、より深くつながると思います。

⚠️ お読みいただく前に
本作は完全なフィクションであり、実在の人物・団体・事件等とは一切関係ありません。
作中には、戦時下の暴力、障がいのある人物への差別的な扱い、家庭内の不和などを扱う場面があります。当時の社会を描くため、現在では用いられない呼称をそのまま記した箇所があります。差別を容認する意図はありません。
読者の方によっては、心理的な負担を感じる可能性があります。どうかご自身の状態を最優先に、無理のない範囲でお読みください。


夏の終わりの寺には、まだ蝉の声が残っていた。

山門をくぐると、石畳のところどころに朝露が残り、境内を囲む杉の間から差し込んだ光が、その上で細かく揺れていた。昼にはまた暑くなるのだろうが、朝のうちだけは風が涼しい。

寅子は片手に花を抱え、もう片方に手桶を提げて、墓地へ続く緩い坂を上った。

源家の墓は、墓地のいちばん奥まったところにある。

生前の久兵衛と一緒に来たこともあったし、久兵衛が死んでからは、一人でも何度も訪れている。見慣れた墓だった。

寅子は花を供え、線香に火をつけた。

細い煙が、風のない朝の空へまっすぐ上っていく。

「おじいちゃん」

墓石を見ながら言った。

「白石輝道、死んだよ」

当然ながら返事はない。

「ずいぶん長いこと追いかけたけど、最後はあっけなかった」

それから、白石が何をしたのか、そのあと何が分かり、何が分からないまま残ったのかを話そうとして、やめた。

説明を始めれば長くなる。

久兵衛なら途中で、「要点を言え」と言うに決まっている。

「まあ、詳しいことは、そっちで調べてよ。死人なんだから暇でしょ」

手桶の水を墓石にかけた。

「死人まで働かせるな」

背後から声がした。

振り向くと、塚原慈円が立っていた。

「和尚さん」

「久兵衛が生きてたころから、そんな調子だったのか」

「もっとひどかったよ」

「そりゃ、あいつも早死にする」

「勝手に死因を増やすな」

慈円は声を立てて笑った。

年を取ったな、と寅子は思う。

昔から知っている顔なのに、笑うと目尻にできる皺が、以前より深くなっている。

「終わったんだな」

慈円が墓を見ながら言った。

「一応ね」

「一応、か」

「終わったと思ったら、その後ろにまだ何かあるってこと、あるから」

「久兵衛みたいなことを言うようになったな」

「誰のせいだと思ってんの」

寅子はしゃがみ込み、墓石を拭き始めた。

正面から台座へ、それから花立ての周囲へと布を滑らせる。長い年月、風雨にさらされた石には、ところどころ薄い苔がついていた。

何気なく側面へ回ったときだった。

濡れた石の上に、これまで意識したことのなかった文字が黒く浮かび上がった。

寅子の手が止まった。

源 正蔵

その下に、

昭和二十年歿

そして、

享年十六

と刻まれている。

「和尚さん」

「ん?」

「この人、誰?」

慈円が近寄ってきた。

寅子が文字を指す。

「正蔵」

慈円の表情が、ほんの少し変わった。

「ああ」

それだけ言って、墓石を見た。

「知ってるの?」

「知ってるも何も」

慈円は墓の脇に腰を下ろした。

「久兵衛の兄貴だよ」

寅子は慈円を見た。

「……兄貴?」

「ああ」

「おじいちゃんに、お兄さんがいたの?」

「いたよ」

「聞いたことない」

「そうか」

「一度も。親からも聞いたことないよ」

慈円は、それ以上何も言わなかった。

寅子はもう一度、墓石に刻まれた年齢を見た。

十六歳。

久兵衛の兄だと言われても、老人の姿は思い浮かばない。墓の中にいる正蔵という人間は、少年の姿のまま時間を止めている。

「病気?」

慈円は首を振った。

「事故?」

もう一度、首を振った。

寅子は少し間を置いた。

「じゃあ、どうして」

蝉が鳴いていた。

慈円は墓石の側面を眺めたまま、しばらく答えなかった。

やがて、

「殺されたんだよ」

と言った。


昭和二十年の夏、久兵衛は十三歳だった。

国民学校の高等科に籍を置いていたが、学校へ行けば授業が受けられるという時代では、もうなかった。

戦争末期には国民学校高等科の児童まで勤労に動員され、地域によっては軍需工場や農作業、運搬などに駆り出されていた。久兵衛にとっても、学校と働く場所との境目は、すでにかなり曖昧になっていた。

朝、学校へ行ったと思えば畑へ回される。別の日には荷を運ばされる。教室そのものを兵隊が使っていることさえあった。

大人たちは「お国のためだ」と言った。

十三歳の久兵衛には、それが正しいのかどうかまでは分からなかったが、一つだけはよく分かっていた。

腹が減った。

大人も子どもも、いつも腹を空かせていた。

そんなころ、近所で一騒ぎあった。

配給所の裏で、一人の少年が男に腕をつかまれていた。

少年は、少し前の空襲で親を亡くしていた。親戚の家に引き取られたものの、そこで十分に食わせてもらえているわけでもなく、ときどき市場の裏や畑の周りをうろついていた。

男は警防団の腕章をつけていた。

足元には、サツマイモが二本落ちている。

「盗っただろう!」

「盗ってねえ!」

「じゃあ、なんで持ってる!」

少年が何か言おうとしたが、周りに集まった大人たちは、もう答えを決めている顔をしていた。

親がいない。

腹を空かせている。

畑の周りをうろついている。

なら、盗んでも不思議ではない。

そこへ久兵衛が通りかかった。

そばには、のちに塚原慈円となる幼なじみもいた。当時はまだ寺の跡取りの小僧として、別の名で呼ばれていた。

久兵衛はしばらく様子を見ていたが、

「そいつじゃねえよ」

と言った。

警防団の男が振り向いた。

「何だ、久兵衛」

「そいつ、その畑には入ってねえ」

「なんでおまえに分かる」

久兵衛は少年の足元を指さした。

前の晩に雨が降っている。

配給所裏の畑は、まだ畝(うね)の間に水が残るほどぬかるんでいた。

「畑から今朝掘ったんなら、草履がこんなに乾いてるわけねえだろ」

少年の草履についているのは、街道の白っぽい砂埃ばかりだった。

男は足元を見た。

「じゃあ、この芋はなんだ」

久兵衛は一本拾い上げた。

「これも泥が乾いてる」

しばらくして、その芋は近所の老婆が少年に持たせたものだと分かった。

警防団の男は気まずそうな顔をしながら、つかんでいた腕を離した。

帰り道、慈円が言った。

「おまえ、いちいち大人に逆らうなよ」

「逆らってねえよ」

「同じだ」

「間違ってたから言っただけだ」

「相手が偉い人でもか」

久兵衛は不思議そうな顔をした。

「偉いかどうかと、合ってるかどうかは関係ねえだろ」

慈円は、その言葉をよく覚えていた。

十三歳の久兵衛にとって、世の中はまだそれほど複雑ではなかった。

人が間違えることはある。

けれども、何が本当に起きたのかさえ分かれば、その間違いは直せる。

少なくとも、久兵衛はそう信じていた。


正蔵は、久兵衛とはまるで違う少年だった。

三つ年上で、気性が激しかった。

喧嘩もした。学校もよく休んだ。父親に叱られれば、素直に謝るより先に睨み返した。

実の母親が早くに亡くなり、父親が新しい妻を迎えてからは、家の中で荒れることがさらに増えた。

その継母にも、事情がなかったわけではない。

若いころは東京で暮らし、新橋で芸者をしていた。華やかな場所を知っていた女が、縁あって田舎へ嫁いできた。それだけでも目立った。

「あの女は芸者上がりだ」

と陰口を叩く者もいた。

妻を亡くした男のところへ嫁ぎ、いきなり他人の子どもたちの母になった。土地の女たちの輪にすんなり入れたわけでもない。子どもたちから歓迎されたわけでもない。

本人なりの孤独や意地を抱えていたのだろう。

けれど、事情があることと、子どもに優しくできることは別だった。

正蔵とは、初めから噛み合わなかった。

継母が「母ちゃんと呼びな」と言えば、

「俺の母ちゃんは死んだ」

と言った。

継母は傷ついた。

傷つけば、言葉はもっと鋭くなった。

時には手も出た。

正蔵もさらに反発した。

その間で父親が怒鳴り、家の中では同じような喧嘩が何度も繰り返された。

久兵衛は、その全部を見ていた。

決定的なことが起きたのは、正蔵が家を出る少し前だった。

後になって家族は「あいつは畑まで勝手に売った」と言うようになったが、実際には、父親がしまっていた実印と畑に関する書類を正蔵が持ち出し、近隣で畑を買おうとしていた男のところへ行って、「父から話を任されている」と言って金を受け取った。

正蔵は、その金を使った。

あとから話を知った父親は、相手のところへ何度も出向き、頭を下げ、どうにか事を収めた。

家へ戻った父親は、正蔵を殴った。

「おまえは、この家を潰す気か!」

正蔵も叫び返した。

継母は、

「どれだけ迷惑をかければ気が済むんだい!」

と罵った。

その晩、正蔵は家を出た。

荷物らしい荷物も持たず、戸口を出ていく背中に向かって、継母が叫んだ。

「二度と帰ってくるんじゃないよ!」

正蔵は振り返らなかった。

それが、家族が正蔵を見た最後だった。

その後、父親は亡くなった。

戦争が激しくなり、食べ物も薬も足りなくなったころだった。

正蔵には知らせなかったのではない。

知らせようがなかった。

どこにいるのか、誰も知らなかった。


それからしばらくして、昭和二十年の夏が来た。

敗戦まで、もうそれほど長い時間は残されていなかった。

けれど、町に暮らす人々に、その日がいつ来るのか分かるはずもない。むしろ戦況が悪くなるにつれ、人々に求められる警戒は厳しくなっていた。

軍用飛行場や兵営、軍需工場の周辺で不用意なことをするな。軍の施設について喋るな。写真を撮るな。図面など描くな。見慣れない者を見たら知らせろ。

背景には、軍機保護法をはじめとする防諜のための法制度があった。

十三歳の久兵衛が法律の条文を知っていたわけではない。

ただ、

「軍の周りで変なことをして、スパイと疑われたら大変なことになる」

ということだけは知っていた。

憲兵もまた、兵隊の素行だけを取り締まる者ではなかった。軍事警察のほか、防諜にも関わり、戦争が末期へ向かうほど、その存在を恐れる空気は町にも広がっていた。

そんなある日の夕方、源家の戸を叩く者があった。

継母が出ると、巡査が立っていた。

「源さんのお宅ですね」

「はい」

「ご主人はおられますか」

継母の表情がわずかに固くなった。

「亡くなりました」

巡査は帽子に手をやり、小さく頭を下げた。

「では、源正蔵という方をご存じですね」

奥にいた久兵衛が顔を上げた。

家の中で、その名前を聞くのは久しぶりだった。

「正蔵が、何かしたんですか」

継母が訊いた。

最初に出た言葉が、それだった。

巡査は少し言いにくそうにした。

「病院に収容されています」

久兵衛が立った。

「兄貴が?」

「重傷です」

「どうしたんです」

巡査は一度、久兵衛を見てから、継母へ向き直った。

「軍用飛行場の近くで、若い女に乱暴を働いたそうです」

継母の眉間に皺が寄った。

「女?」

「言葉の不自由な方だそうです。憲兵が制止したところ、正蔵さんが抵抗したため、警棒を使用したと聞いています」

「それで?」

「頭をひどく打っています」

巡査はそこで声を落とした。

「医者の話では、今夜を越せるか分からないそうです。病院から、身内がいるなら知らせてほしいと連絡がありまして」

継母は、しばらく巡査を見ていた。

「行きません」

「しかし――」

「うちとは縁を切っています」

「母ちゃん」

久兵衛が言った。

継母は振り向かなかった。

「お帰りください」

巡査も、それ以上強くは言わなかった。

小さく頭を下げて帰っていく。

戸が閉まった。

久兵衛は継母を見た。

「行かねえのかよ」

「行かない」

「死ぬかもしれねえんだぞ」

「だから何だい」

久兵衛は一瞬、何も言えなかった。

継母が振り向いた。

「あの子が何をしたか、おまえは忘れたのかい」

「忘れてねえよ」

「父ちゃんがどれだけ苦労した」

「分かってる」

「家の書類まで持ち出して、勝手に畑を売ったような真似をして、その金まで使って逃げたんだよ」

「分かってるって!」

「あのあと、父ちゃんが何度頭を下げたと思ってる!」

久兵衛は黙った。

「その父ちゃんが死んだことだって知らない。どこで何をしてるかも分からない。それで今度は、口もろくにきけない女の人に乱暴したっていうじゃないか」

継母の声は怒っていた。

だが、怒りだけではなかった。

長いあいだ蓋をしていたものを、突然こじ開けられたような声だった。

「もう、たくさんなんだよ」

久兵衛は継母を見た。

「私はね、あの子のために頭を下げるのは、もうたくさんなんだ」

「でも、家族だろ!」

継母の顔が変わった。

「家族なら、何をされても家族なのかい?」

久兵衛は答えられなかった。

十三歳の少年には、その問いに言い返せるだけの言葉がなかった。

継母の言っていることは、少なくとも事実だった。

それでも、

「……最後ぐらい、会ってやれよ」

と言った。

継母は目を逸らした。

「行かない」

「母ちゃん」

「行かないったら、行かない」

久兵衛は拳を握った。

「勝手にしろ!」

戸を乱暴に開けて、外へ飛び出した。


そのころ慈円は、源家へ向かって坂を上っていた。

家でサツマイモが何本か手に入ったので、母親から「二本ぐらい久兵衛のところへ持っていってやれ」と言われたのである。

物のない時代だった。

芋二本でも、立派な手土産だった。

坂の途中で、源家から久兵衛が飛び出してきた。

「久兵衛!」

呼んでも止まらない。

慈円は芋を抱えたまま追った。

「どこ行くんだよ!」

「病院!」

「誰がいるんだ」

しばらく走ったあと、久兵衛が言った。

「兄貴」

慈円は一瞬、足を止めそうになった。

「正蔵さん?」

「死ぬかもしれねえ」

それ以上、慈円は訊かなかった。

二人で走った。

町の病院へ着いたころには、二人とも汗だくになっていた。

玄関に入った瞬間、慈円は息を呑んだ。

患者が多かった。

廊下の長椅子には、腕に包帯を巻いた男が座り込み、その向こうでは看護婦が寝台を押している。咳き込む老人もいた。作業中に怪我をしたらしい若い男もいた。

薬品の匂いに、汗や湿った包帯の匂いまで混ざっていた。

戦争が末期になれば、病院だけが以前と同じように機能できるはずもなかった。医師や看護婦も不足する。薬も包帯も足りない。空襲の負傷者ばかりではなく、勤労動員先で怪我をする者や、栄養を失って倒れる者も増えていた。

受付で正蔵の名を告げると、事務員が帳面を繰った。

「ああ、この人か」

指先が止まる。

「最初は身元が分からなかったんだ」

「どこにいるんです」

久兵衛が急かした。

「待ちなさい。倒れていたところを運び込まれたが、身内も住所も分からなかったから、町の救護扱いになっている」

当時も、身元が分からず、自力で療養する手段も救護する者もない病人を、市町村が救護する仕組みがあった。

正蔵は、家族が見つかるまで、その「救護する者のない人間」の一人だった。

「こっちだ」

案内されたのは病院の奥だった。

大きな部屋に寝台が並び、さらに空いた場所へ簡易な寝床まで置かれている。誰かが呻き、誰かは天井を見たまま動かない。

看護婦が一つの寝台を指した。

「源さんです」

久兵衛は、その場で立ち止まった。

頭を白い布で巻かれた少年が横たわっている。

顔は腫れ、唇が切れ、頬には黒い痣が浮いていた。

久兵衛は一瞬、それが正蔵だと分からなかった。

「……兄貴?」

返事はない。

近づく。

やはり正蔵だった。

ずいぶん変わっていた。

けれど、間違いなく正蔵だった。

その顔を見たとき、久兵衛の中に、思いがけないほど古い記憶がいくつも戻ってきた。

川で足を滑らせたとき、正蔵が腕をつかんで引き上げてくれた。

「何やってんだ、馬鹿」

と怒鳴りながら、正蔵自身のほうが泣きそうな顔をしていた。

祭りの日、父に内緒で飴を買ってくれた。

「父ちゃんには言うなよ」

と言った。

夜道が怖いと久兵衛が言ったときには、

「幽霊なんか出たら、俺が殴ってやる」

と笑った。

どうして、そんなことを忘れていたのだろう。

いや、忘れていたわけではない。

思い出さなくなっていただけなのかもしれない。

「兄貴」

久兵衛は正蔵の手を握った。

まだ温かかった。

「俺だ。久兵衛だ」

何の反応もない。

慈円は、後ろから黙って見ていた。

久兵衛の肩が震え始めた。

「起きろよ」

返事はない。

「兄貴、起きろ!」

周囲の患者がこちらを見る。

久兵衛は構わなかった。

「まだ死ぬなんて許さねえぞ!」

正蔵の手を、力いっぱい握った。

「起きろよ!」

声が裏返った。

「みんな迷惑してんだぞ!」

涙が落ちた。

「父ちゃんも――」

そこで、久兵衛の声が止まった。

父親はもう死んでいる。

正蔵は、それを知らない。

ほんの数秒だった。

「父ちゃんも来てる!」

慈円が久兵衛を見た。

久兵衛は続けた。

「母ちゃんも来てる!」

来ていない。

「みんな来てるから!」

久兵衛の顔は、もう涙で濡れていた。

「だから起きろ、兄貴!」

正蔵は動かなかった。

「起きろよ!」

そのときだった。

正蔵の閉じた目の端から、一粒だけ、透明なものが流れた。

涙だったのか。

死の間際の身体が起こした、ただの反応だったのか。

慈円には分からなかった。

久兵衛にも分からなかっただろう。

ただ、二人には、正蔵が泣いたように見えた。

その日の夜、正蔵は死んだ。

十六歳だった。


正蔵の遺体は家へ戻された。

継母は、病院へは行かなかった。

だが、棺が家へ入ってくると、逃げもしなかった。

黙ったまま、その前に座った。

久兵衛も何も言わなかった。

翌朝、慈円が源家を訪ねると、継母はまだ棺のそばにいた。

慈円が来たことには気づいていないようだった。

継母は棺の縁に片手を置き、そのまま動かなかった。

泣いていたのかどうかは分からない。

慈円は声をかけず、そっと帰った。

葬儀から数日が経ったころ、一人の男が源家を訪ねてきた。

四十前後の痩せた男だった。

戸口に立ったまま帽子を両手で握り、何度も家の中を窺っている。

久兵衛が出た。

「何ですか」

男は久兵衛を見た。

「正蔵さんの……ご家族ですか」

「弟です」

男は、すぐには次の言葉を出さなかった。

「警察から」

やがて言った。

「正蔵さんのことを、何と聞きました」

「女の人に乱暴したって」

男の顔が歪んだ。

「違います」

久兵衛の目つきが変わった。

「何が」

「逆なんです」

男は深く息を吸った。

「私、見てたんです」


女の名は、シズといった。

二十歳を少し過ぎていた。

町では昔から知られていたという。

耳は聞こえた。

人の言っていることも、簡単なことであれば分かった。

けれど、言葉をうまく話すことができなかった。とくに見知らぬ人に突然何かを訊かれると、喉の奥で声がつかえ、「あ」とか「う」とか、それ以上の音にならなくなる。

ものを理解するのにも、ほかの者より少し時間がかかった。

当時、そうした知的な障がいは「精神薄弱」と呼ばれ、その言葉は日常だけではなく、公的な制度の中でも普通に使われていた。

戦争末期である。

働けること。

命令を理解できること。

集団の役に立つこと。

そうした尺度が強くなるほど、そこから外れる者の居場所は狭くなる。

シズは、その時代の片隅で暮らしていた。

ときどき町を一人で歩いた。

きれいな石や、光る金属片を拾うのが好きだった。

事件の日も、そうだったという。

軍用飛行場の外周に沿った道を歩いていた。

道端に、小さな金属片が落ちていた。

シズはそれを拾った。

そこへ二人の憲兵が来た。

「何を持っている」

シズは驚いた。

「あ……」

「見せろ」

シズが金属片を差し出す。

「どこで拾った」

道端を指さした。

「誰に頼まれた」

シズは首を振った。

「名前は」

声が出ない。

「どこから来た」

答えようとしているのに、言葉にならない。

一人の憲兵が、もう一人を見た。

「黙ってやがる」

シズは、ますます怯えた。

「おまえ、何者だ」

泣き始めた。

「泣いてないで答えろ」

腕をつかまれた。

シズが振りほどこうとする。

「暴れるな!」

男は、道の向こう側からそれを見ていた。

ほかにも何人かいた。

けれど、誰も近づかなかった。

憲兵だったからである。

そのとき、正蔵が来た。

どこで何をしていたのかは、男も知らなかった。

日雇いの仕事でも探していたのかもしれない。町から町へ流れながら、その日を食いつないでいたのかもしれない。

正蔵は、しばらく様子を見た。

それから言った。

「やめろよ」

憲兵が振り返った。

「何だ、貴様」

「嫌がってんじゃねえか」

「関係ない。行け」

正蔵は動かなかった。

「聞こえなかったのか」

「聞こえたよ」

「なら失せろ」

正蔵は、

「嫌だね」

と言った。

一人が正蔵の胸を押した。

「貴様、この女の知り合いか」

「知らねえよ」

「なら関係ないだろう」

正蔵はシズを見た。

「知らなくたって、嫌がってるのぐらい分かるだろ」

拳が飛んだ。

正蔵は地面に倒れた。

見ていた男は、そこで目を逸らした。

これで終わると思った。

殴られれば、正蔵も逃げると思った。

ところが、正蔵は立った。

「貴様も仲間か」

「何の仲間だよ」

「この女を庇う理由があるんだろう」

正蔵は口の端の血を手で拭った。

「馬鹿じゃねえの」

今度は警棒だった。

肩を打たれ、正蔵がよろめいた。

シズが大きな声で泣いた。

それは言葉にはならなかった。

意味のある声ではなかった。

ただ、恐怖だけは誰にでも分かる声だったという。

一人の憲兵がシズへ手を伸ばした。

正蔵が、その腕をつかんだ。

「触んなよ」

腹を蹴られた。

倒れた。

それでも正蔵は逃げなかった。

シズは地面にしゃがみ込み、両手で頭を抱えていた。

正蔵は這うようにそこまで行き、その上へ身体をかぶせた。

「退け!」

退かなかった。

警棒が背中へ落ちた。

「退けと言ってる!」

肩へ、腕へ、脇腹へと、何度も警棒が振り下ろされた。

「こいつを庇うおまえもスパイか!」

正蔵は何か言った。

男のいた場所までは聞こえなかった。

次の瞬間、警棒が高く上がり、正蔵の頭へ振り下ろされた。

鈍い音がした。

正蔵の身体から力が抜けた。

それでも、その下にいたシズには、警棒は届かなかった。

シズは正蔵の身体の下で、いつまでも大声で泣いていたという。


男はそこまで話すと、俯いた。

「私は、見ていました」

久兵衛は何も言わなかった。

「最初から」

男の両手が震えていた。

「止めませんでした」

沈黙が続いた。

「怖かったんです」

男は帽子を握りつぶすようにした。

「憲兵に逆らったら、自分も何をされるか分からない。家族もいる。そう思ったら……足が動かなかった」

久兵衛は男を見ていた。

十三歳でも、それくらいは分かった。

あの時代、憲兵に睨まれることを恐れるのは、臆病者だけではなかった。見て見ぬふりをすることが、自分や家族を守るための知恵になってしまうこともあった。

男は頭を下げた。

「すみません」

久兵衛は答えなかった。

「本当に、すみません」

男はもう一度言った。

それから顔を上げた。

「でも」

声が詰まった。

「あの人は、違いました」

久兵衛の眉が動いた。

「あそこには、私以外にも人がいました。みんな見ていたんです」

一度、唇を噛んだ。

「でも、行ったのは、あの人だけでした」

久兵衛は最後まで何も言わなかった。


「腐ってたよ」

慈円が言った。

遠い昭和二十年から、寺の蝉の声が戻ってきた。

寅子はしばらく何も言えなかった。

「……憲兵が?」

「それだけじゃない」

慈円は墓石を見た。

「何もかもだよ」

少し間を置いた。

「あのころは誰だって余裕がなかった。食うものもなかった。怖かった。自分と家族を守るだけで精いっぱいだった」

慈円は正蔵の名前を指でなぞった。

「でもな。余裕がなくなると、人間は弱いところから削る」

寅子は黙っている。

「言葉を話せない。身体が動かない。心を病んでいる。働けない。命令されたことを、みんなと同じ速さではできない」

慈円は息を吐いた。

「そういう人間には、きつい時代だった」

戦争末期の日本では、施設や病院の中にいる人々も深刻な食糧不足にさらされた。一般の人間なら、配給で足りなければ畑を頼ったり、知人を頼ったりすることもできたが、施設の中にいて、自分で何かを訴えることのできない人々には、それすら難しかった。

戦争は、すべての人間を同じように苦しめたわけではない。

「シズは?」

寅子が訊いた。

「生きたよ。少なくとも、その日はな」

「そのあと?」

「終戦後しばらくして家族と町を出たと聞いた。それからは知らん」

「憲兵は?」

慈円は首を振った。

「分からん」

「捕まらなかったの?」

「少なくとも、俺は聞いてない」

「警察は、本当のことを調べなかったの?」

慈円は少し苦い顔で笑った。

「昭和二十年の夏だぞ」

「あ……」

「そのすぐあとに戦争が終わった」

昨日まで人を縛っていた制度が、何週間かのうちに次々と姿を消した。

「でもな」

慈円が言った。

「制度がなくなったからって、殴られた頭が元に戻るわけじゃない」

寅子は正蔵の名を見た。

「おじいちゃんは、この話を聞いて何て?」

「何も言わなかった」

「何も?」

「ああ」

「継母には話したんだよね」

「話したよ」

慈円は頷いた。

「正蔵が女を襲ったんじゃない。逆だった。正蔵が女を庇ったんだ、とな」

「それで?」

「何も言わなかった」

寅子は少し考えた。

「信じなかった?」

「いや」

慈円は首を振った。

「あの人は、たぶん信じたよ」

「どうして分かるの?」

「その晩な」

慈円は言った。

「正蔵の茶碗を出してた」

「茶碗?」

「家を飛び出してから、ずっとしまわれてたやつだ。仏壇の前に置いてあった」

寅子は何も言わなかった。

やがて、

「でも……最後くらい、病院に行ってあげてもよかったんじゃないかな」

と言った。

慈円は寅子を見た。

「そう思うか?」

問い返されて、寅子は少し戸惑った。

「……うん」

慈円は笑わなかった。

「俺も十三のころは、そう思ったよ」

「今は?」

慈円は墓石を見た。

「あの人も、もう限界だったんだろうと思う」

「限界?」

「正蔵に散々振り回されて、父親が尻拭いして、その父親まで死んだ。自分だって、よそから来た女だ、芸者上がりだって陰口を叩かれながら、あの家で生きてた」

慈円は少し間を置いた。

「正蔵が死ぬと聞いたその日に、全部なかったことにして母親に戻れと言われても、できなかったんだろう」

寅子は黙っていた。

「病院へ行かなかったことが正しかった、とは言わんよ。ただ、あの人にも、そこへ行けなくなるまでの時間があった」

寅子は、仏壇の前に置かれた一つの茶碗を想像した。

それ以上、何も訊かなかった。


「正蔵のこと」

寅子が言った。

「おじいちゃんは嫌いだったのかな」

「さあな」

「好きだった?」

「それも知らん」

「和尚さん、幼なじみじゃん」

「幼なじみなら何でも分かると思うな」

慈円は笑った。

「人間なんて、自分が自分をどう思ってるかだって、よく分からんもんだ」

寅子は墓石を見る。

「でも、最後は立派だったんだね」

その言葉に、慈円はすぐ答えた。

「それは違う」

寅子が顔を上げる。

「違う?」

「正蔵は立派な人間だった、って話じゃない」

慈円の声は穏やかだった。

「親には散々迷惑をかけた。父親を泣かせた。家の書類を勝手に持ち出した。人を騙して金を受け取って、それを使って逃げた」

「うん」

「久兵衛だって、何度もあいつのせいで嫌な思いをしてる。どうしようもない兄貴だった。それは本当だ」

「でも、シズを助けた」

「ああ」

「命をかけて」

「ああ」

寅子は少し考えた。

「だったら、どっちが本当なの?」

慈円が寅子を見る。

「両方だろ」

あまりにも簡単に言われて、寅子は黙った。

「家族に迷惑をかけた正蔵も本当だ。見ず知らずの女の上にかぶさって死んだ正蔵も本当だ」

慈円は墓石を軽く叩いた。

「どっちか一つを消さなきゃならん理由が、どこにある」

その瞬間、寅子の中に、別の声が蘇った。

――動機が違えば、やったことは、許されるの?

真理の声だった。

あの夜、自分は答えられなかった。

今も、答えられる気はしなかった。

「人間って」

寅子が言った。

「面倒だね」

慈円は笑った。

「今さら気づいたか」


十一

「おじいちゃんが警察に入ったのって」

寅子は訊いた。

「この事件が理由だったのかな」

慈円は、しばらく答えなかった。

「本人から聞いたことはない」

「和尚さんは?」

「俺は、たぶんそうだと思ってる」

「お兄さんが殺されたから?」

「それだけじゃない」

慈円は首を振った。

「正蔵が死んだ日より、あの男が家へ来た日のほうだと思う」

寅子は慈円を見る。

「あいつはな、子どものころから、人が間違ってるのを見つけるのが妙にうまかった」

「それは想像できる」

「嫌なガキだったぞ。人が何か言えば、そこが違う、あそこがおかしいって」

「そのままじゃん」

「そのままだ」

慈円は笑った。

「でも十三だったからな。まだ信じてたんだよ」

「何を?」

「本当のことが分かれば、間違いは直るって」

寅子の表情が変わった。

慈円は続けた。

「孤児が芋を盗んでないなら、草履を見せりゃいい。大人が勘違いしていたなら、本当のことを見せれば、それで済む」

「でも、正蔵の件は違った」

「ああ」

慈円は墓石を見る。

「間違えたんじゃなかった」

風が抜けた。

「ひっくり返したんだ」

寅子は何も言わない。

「女を助けた男を、女を襲った男にした。殴った側を、制止した側にした」

十三歳の久兵衛にとって、それはおそらく初めて見る種類の嘘だった。

知らなかったから間違えたのではない。

見落としたのでもない。

自分たちに都合のいい形へ、起きたことそのものを並べ替える。

しかも、それをする側には制服があり、権限があり、その説明を記録として残す力まであった。

「久兵衛は、あの日初めて知ったんじゃないかな」

慈円が言った。

「事実を見つけるだけじゃ、足りないことがあるって」

寅子は黙って聞いていた。

「事実を隠す力を持った奴がいる。嘘を本当らしい形にして残せる奴もいる」

慈円はゆっくり立ち上がった。

「だったら、その中へ入るしかない、とでも思ったのかもしれん」

「それで警察へ?」

「さあな」

慈円は袈裟についた砂を払った。

「そこから先は、俺が勝手につなげた話だ」

「おじいちゃんに聞いたら?」

「違うって言うだろうな」

「言いそう」

二人は少し笑った。


十二

慈円が本堂へ戻ろうと歩き始めた。

数歩行ったところで、寅子が呼び止めた。

「和尚さん」

「なんだ」

「どうしておじいちゃん、私に正蔵さんのこと、一度も話さなかったんだろう」

慈円は振り返った。

「さあな」

「そこは分からないの?」

「分からんよ」

「いちばん知りたいところなのに」

「坊主に何でも答えがあると思うな」

慈円は再び歩きかけた。

しかし、すぐに止まった。

「ただな」

寅子は待った。

「あいつにとって、正蔵は教訓じゃなかったんだろう」

「教訓?」

「ああ」

慈円は源家の墓を振り返った。

「人間にはいろんな面があります、とか、正しいことをする勇気が大事です、とか、そんな話をするために正蔵を覚えてたんじゃない」

少しだけ目を細めた。

「あいつの兄貴だったんだ」

慈円は、それ以上言わなかった。

本堂へ向かって、ゆっくり歩いていった。


十三

寅子は一人、墓の前に残った。

手桶には、まだ少し水が残っている。

布を濡らし、もう一度、墓石の側面を拭いた。

源 正蔵

昭和二十年歿

享年十六

「正蔵さん」

初めて、本人に向かって呼んだ。

「はじめまして」

妙な挨拶だと思い、少し笑った。

「おじいちゃんには、ずいぶんお世話になりました」

返事はない。

「もしかすると、あなたのせいでもあるのかな」

しばらく墓石を見ていた。

「まあ、そんなこと言われても困りますよね」

正面へ回る。

そこには久兵衛の名がある。

「おじいちゃん」

寅子は墓石に手を置いた。

「兄貴いたんじゃん」

もちろん何も返ってこない。

「しかも、ずいぶん面倒くさい兄貴」

そう言って笑った。

けれど、すぐに笑えなくなった。

病室にいた十三歳の久兵衛を思った。

父ちゃんも来てる。

母ちゃんも来てる。

みんな来てる。

父は、もう死んでいた。

継母は来なかった。

病室にいた家族は久兵衛一人だった。

それでも久兵衛は、みんな来ていると言った。

寅子は墓石を見たまま、しばらく動かなかった。

やがて、両手を上げた。

親指と人差し指を伸ばす。

久兵衛から教わった、あの四角を作る。

その中に、墓石を収めた。

久兵衛の名前だけが、四角の中に入った。

寅子はしばらくそのまま見ていた。

それから、ゆっくり手を下ろした。

手桶を持ち、山門へ向かう。

誰もいなくなった墓地で、墓石にかけられた水が、

源正蔵

という十六歳の少年の名前の溝を伝って、

まだゆっくりと流れていた。


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