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✂キリトリ線の内側で🐯寅年の妻のために書いた短編が、11作になるまで

一区切りついたので

先日、『インビジブルフレーム:The Frame Is Set』を公開しました。

白石輝道という男を追いかけた物語は、これで完結です。

長い話でした。

書いている最中は、とにかく終わらせることしか考えていなかったので、公開ボタンを押したあと、しばらく妙な手持ち無沙汰が残りました。

それで、ふと、これまで書いてきたものを並べてみたんです。

数えてみると、このシリーズはいつのまにか11作になっていました。

うち2作――『ソシオパスフレーム・ゼロ』と『国選弁護人 柏木悠人』には、寅子は一度も登場しません。それでも、同じ世界の中で起きている話です。

自分でも少し驚きました。

最初は、妻のために短編を一本書いてみようと思っただけだったのに。

せっかく一区切りついたので、今日は少し立ち止まって、この11作がどうやって生まれ、どう転がり、いつのまにか今の形になったのかを振り返ってみようと思います。

これは、いわば一人の趣味の書き手の制作記録です。

一本の短編から始まったものが、書いている本人の思惑を少しずつはみ出しながら、ここまで育っていった。その過程そのものを、今回は書いてみようと思います。

どうかお付き合いいただけたら幸いです。


すべては「切り取る」から始まった

noteを始めたのは、2024年9月でした。

最初の記事は、小説ではありません。

妻との旅行のたびに書き溜めていた旅行日記――トラベルノートを、noteに書き写すことにした。そんな報告のような記事でした。

その中に、自分でも今読み返すと少し不思議な一文があります。

「旅行という一般人の非日常をただ切り取っただけの日記なので」

謙遜のつもりで書いた一行でした。

大した中身のない日記ですよ、という程度の意味だったと思います。

でも今になって読み返すと、この「切り取る」という言葉の中に、その後やることになるほとんど全部が入っていた気がします。

私の執筆コンセプトは『非日常のキリトリ線』

副題は「日常から非日常部分を切り取り」

これは、noteを始めた時から変わっていません。

去年、クリエイターページのヘッダーとアイコンを刷新した時も、このコンセプトをそのまま画にしました。

左に私――撮る側。

右に寅子――フレームをつくる側。

そして中央に、キリトリ線。

旅の記録も、人物月旦も、フィクションも、考えてみれば、やっていることはずっと同じでした。

日常の中から、ある部分だけを選んで、枠で囲む。

それだけのことを、形を変えながら、ずっとやってきたんだと思います。


妻とテレビの2時間ミステリーから、物語が始まった

きっかけは、本当にささいなことでした。

ある日、いつものようにトラベルノートをまとめていた時、ふとテレビを観ている妻の姿が目に入りました。

再放送の西村京太郎トラベルミステリーに夢中になっている。

妻は昔から2時間ミステリーが好きで、十津川警部も、赤い霊柩車も、浅見光彦も、欠かさず観ています。

話のパターンが似ているせいで、どれをいつ観たか忘れてしまい、

「何度観ても新鮮に楽しめる」

というのが本人の弁です。

その姿を見ながら、ふと思いました。

いつも書いているトラベルノートをベースにして、ミステリーの短編を書いたら面白いかもしれない。

妻の好きなミステリー仕立てにすれば、きっと喜んでくれるだろう。

それくらいの動機でした。

最初に選んだ舞台は、2018年に訪れた京都のトラベルノートです。

桜満開の春。

出張帰りに妻と合流して、美食と観光を満喫した旅の記録。

そこに、

「もし、この旅先で事件が起こったら?」

という想像を重ねていきました。

ミステリー小説を書くのは初めてでした。

それでも、実際の旅の記憶を土台にすると、意外なほど自然にストーリーが浮かんでいきました。

そうして出来上がったのが、『京都発・新幹線連続殺人事件』です。

ここで、私は初めて小説を書きました。

それまでのトラベルノート人物月旦は、実際にあったことを記録するものでした。

ミステリーは、そうではありません。舞台となる場所は実在していても、事件も、そこに現れる人物も、自分で一からつくらなければならない。

まったく別のことを始めたつもりでした。

でも、書いてみると、やっていることはそれほど変わりませんでした。

どの場所を、どの季節に、どこから見るか。

トラベルノートで選び取っていたものを、今度は物語の舞台として選び直している。

「切り取る」という動作だけは、そのまま残っていました。

主人公の名前は、寅子にしました。

妻が寅年生まれだからです。

トラベルノートのタイトルを『Tora(寅)Bell Note』にしていたので、そのままの流れで。

ただの駄洒落でした。

その駄洒落が11作も続くことになるとは、当時は想像もしていませんでした。


コンセプトが、人の形をとった日

去年の8月、物語投稿サイトTalesで、少し変わったコンテストが開催されていました。

人気イラストレーターの方々の作を起点に、ショートストーリーを書くという企画です。

イラストを一枚選び、そこから物語をつくる。

どこか大喜利のような、遊び心のあるコンテストでした。

面白そうだと思って、つい参加してしまいました。

私が選んだのは、ニリツ先生のイラストです。

その一枚から浮かんだのは、まだ高校生だった頃の寅子の姿でした。

夕方のスーパーの前。

万引きを疑われ、泣きじゃくる女子高生。

「見た」という主婦の証言。

監視カメラに「映っていない」という死角。

状況だけが、彼女を犯人に仕立て上げていく。

そこに割って入った寅子が、両手を上げます。

小説 『寅子、若き日の一篇 〜エピソード1』より

人差し指と親指で、四角い枠をつくる。

半身で回りながら、入口、駐輪場、駐車場と、風景を一コマずつ切り取っていく。

バラバラだった景色が、一つの画に編まれていく。

そして、フレームの中に答えが浮かび上がる。

――ここまで書いたところで、ふと手が止まりました。

これ、自分がずっとやってきたことじゃないか、と。

日常から非日常を切り取る。

焦点を合わせる。

見たいものを、フレームの真ん中に持ってくる。

『非日常のキリトリ線』というコンセプトが、寅子という人物のたった一つの仕草になって、目の前に立ち上がっていました。

順序としては、コンセプトのほうが先です。

noteを始めた時から、ずっと掲げていたものです。

でもそれは、それまであくまで書き手である私の側の話でした。

それが突然、物語の中の人物の動作として現れた。

ニリツ先生のイラストが、その触媒になってくれたのだと思います。

正直に言えば、コンテストに参加するために書いた一篇でした。

番外編くらいの気持ちだったんです。

その一篇で偶然生まれた仕草が、後にシリーズ全体を貫く軸になるとは、その時には考えてもいませんでした。

こういうことは、案外あるのかもしれません。

力を入れて「象徴的なものを作ろう」と考えた時ではなく、遊びのつもりで書いたものの中から、その後ずっと残るものが生まれる。

少なくとも私の場合は、そうでした。

余計なものを書いてみる時間も、案外、無駄にはならないようです。

その後、寅子は、小説の中だけにいる人物ではなくなりました。

旅のナレーションをしたり、

映像の中に姿を持ったり、

チャットボットになって読者の質問に答えたり。

以前、年末の振り返り記事で、私は寅子のことを「私の創作全体を一緒に旅する相棒」と書きました。

その時は、いつのまにかそうなっていた、という程度の感覚でした。

でも今回、11作を並べてみて、少し分かった気がします。

寅子が私の創作を横断するようになったのは、彼女が便利な案内役だったからではないのだと思います。

指で四角をつくって、何かを切り取る。

その仕草そのものが、私がずっとやってきたことだったからなのかもしれません。


祖父を書いたら、仕草に意味が宿った

寅子が指で四角をつくる。

その動作は生まれました。

でも、なぜ彼女がそんなことをするのか。その時点では、理由はまだどこにもありませんでした。

短編の中では、

「昔ね、私のおじいちゃんが教えてくれたの」

と、さらっと書いていました。

書いた本人も、深く考えていたわけではありません。

ただ、そう書くのが自然に思えただけです。

その「おじいちゃん」が、後に源久兵衛という警部になりました。

『久兵衛、最期の事件』は、寅子が12歳だった春の話です。

よれた背広に安煙草。

町の人からは「だらしない警部さん」と呼ばれる、飄々とした男。

けれど、その目だけは、人の心の襞を射抜くような鋭さを持っている。

考え込む時、久兵衛は決まって指で四角をつくり、目の前に掲げます。

他人の目には、奇妙な癖にしか映らない。

でも寅子にとっては違いました。

その四角の中に祖父が視線を注ぐと、不思議と空気が変わる。

沈黙の奥から、答えが少しずつ浮かび上がってくるように見える。

気づけば自分も真似をしていて、小さな指で不格好な四角をつくるようになる。

そして物語の最後。

久兵衛は血に濡れた床に倒れながら、震える手で最後の四角をつくり、孫娘の姿を切り取ります。

小説『久兵衛、最期の事件』より

「これから……お前は……泣いている人を、たくさん助けるんだ。泣いている暇なんて……ないぞ」

この場面を書いた時、あの仕草の意味が変わりました。

ただの「おまじない」だったものが、「形見」になった。

面白かったのは、その順序です。

物語の時系列で言えば、12歳の話が最初です。

でも執筆順では、16歳の短編のほうが先でした。

先に書いた16歳の一行は、何も変えていません。

でも、後から12歳を書いたことで、あの一行に重さが加わりました。

書いた本人が深く考えずに置いた言葉に、あとから理由が追いついてくる。

物語では、こんなことが起きるんだな、と思いました。


白石輝道という怪物は、二度生まれた

『久兵衛、最期の事件』を書くにあたって、当然、久兵衛を殺す誰かが必要でした。

ここは、かなり考えました。

この作品は、寅子という人物の原点になる話です。

その原点で祖父の命を奪う相手ですから、中途半端な悪役では釣り合わない。

自分が一番嫌いだと思える人間を書こう、と決めました。

それからしばらく、これまで読んできたミステリーの悪役を、頭の中で並べていきました。

暴力的な犯人。

冷酷に計算する犯人。

狂気に取り憑かれた犯人。

どれも怖い。

でも、私にとっての「一番嫌な人間」とは、少し違いました。

最後に思い出したのが、アガサ・クリスティーの『カーテン』に登場する、スティーヴン・ノートンという人物でした。

あの人物を思い出した時、自分が何を嫌だと感じているのかが、ようやく分かりました。

暴力でも、狂気でも、冷酷な計算でもない。

自分の手は汚さないまま、他人を動かして、結果だけを手に入れる。

そういう人間が、私は一番嫌なのだと思いました。

では、その「嫌さ」を昭和の町に置くとしたら、どんな男になるだろう。

そう考えて生まれたのが、白石輝道という町内会長です。

小説『久兵衛、最期の事件』より

人当たりがよく、面倒見がよく、町の誰からも慕われている。

困っている人がいれば率先して相談に乗り、祭りの準備には誰より早く駆けつける。

誰も、悪く言わない。

むしろ、悪く言うほうが悪人に見える。

そういう男にしました。

彼は、誰にも命じません。

自分では手を汚さない。

ただ相手に、

「あなたは正しい」

という枠組みを差し出す。

すると相手は、自分の意志で判断したと信じたまま、白石の望む方向へ進んでいく。


ところが、書き進めるうちに、妙なことが起きました。

白石の「嫌さ」を細かく書けば書くほど、それが、今の社会でときどき見かける光景に似てきたのです。

似ていたのは、誰かが悪意を持って人を追い詰める場面ではありません。むしろ逆でした。

それぞれの人が、それぞれの場所で、正しいと思える判断をしている。

誰も命じていない。
誰も強制していない。

しかも、その正しさ自体は本物です。

だからこそ、それらが同じ方向へ噛み合った時、厄介なことが起きる。

誰も望んでいなかったはずなのに、正しさが互いを補強しながら、異論や例外のための余白だけを少しずつ狭めていく。

そして、いざ誰かが立ち止まらせようとすると、今度はその人のほうが、「なぜ正しいことを止めるのか」を説明しなければならなくなる。

昭和の町の悪役を書いていたはずなのに。

いつのまにか、白石個人よりも、その背後にある力学のほうが気になり始めていました。

ここで、白石は私の中でもう一度、生まれ直したのだと思います。

単に久兵衛を殺した「嫌な男」から、

「誰も命じていないのに、人が同じ方向へ動いていく構造」

を背負った人物へ。

その構造をもう少し掘り下げたくなって、書いたのが『ソシオパスフレーム』です。

祖父、久兵衛の死から8年後。

大学生になった寅子が、亡くなった記者の手記を通して、再び白石の影に触れる物語です。

この作品で、白石は一度も直接登場しません。

手記の中に名前だけが繰り返し現れる。

小説『ソシオパスフレーム』より

誰も彼を見ていないのに、彼の周囲では人が壊れ、死んでいく。

小説『ソシオパスフレーム』より

そして完結編の『インビジブルフレーム』では、その構造が個人から組織へ、さらに都市そのものへと広がっていきました。

小説『インビジブルフレーム』より

誰も命令していない。

それでも、市民の「普通」が静かに書き換えられていく。

さらに、白石という男がどう生まれたのかを書きたくなって、前日譚の『ソシオパスフレーム・ゼロ』を書きました。

児童養護施設の片隅で膝を抱えていた少年が、どうやって「ルールを凶器にする」ことを覚えたのか。

もう一つ、『国選弁護人 柏木悠人』というスピンオフも書きました。

こちらは、善良だったはずの弁護士が、ゆっくりと共犯者へ変わっていく過程を、彼自身の視点から描いたものです。

気づけば、白石をめぐる作品は4つになっていました。

しかも後の2作――『ゼロ』と『柏木悠人』には、寅子が一度も出てきません。

主人公が登場しない作品を、2本も書いてしまった。

町内会長として初めて登場した時には、久兵衛を殺すためだけに用意した役でした。

それが主役を押しのけて、自分の物語を二つも持っていってしまった。

「誰も命じていない。誰の手も汚れていない」

この一行に辿り着くまで、ずいぶん遠回りをした気がします。


寅子は、どう変わったか

11作を並べてみると、寅子には四つの顔があります。

12歳。

祖父の背中を追う子供でした。

江戸川乱歩の文庫本を一緒に読み、背広を羽織って探偵の真似をし、祖父の指の四角を不格好に真似ていた。

小説『久兵衛、最期の事件』より

まだ何も見えていない。

ただ、祖父の見ている世界に憧れていただけの女の子です。

16歳。

町の困りごとを解く高校生になりました。

小説 『寅子、若き日の一篇 〜エピソード0』より

万引きを疑われたクラスメイト。

寺の賽銭泥棒。

認知症の兆しがある近所のおばあさんを狙った詐欺師。

どれも小さな事件ですが、寅子は迷わず首を突っ込みます。

「困ってる顔は放っておけない質なんで」

と言いながら。

この頃の寅子は、書いていて一番のびのびしていました。

明るくて、まっすぐで、まだ何も背負っていない。

20歳。

祖父の仇を追う顔です。

小説 『インビジブルフレーム』より

ここで寅子は、初めて自分の手に負えないものと向き合います。

証拠がない。

法が届かない。

信じていた人が敵だった。

そして、友人が一線を越えていく。

この時期の寅子は、あまり笑いません。

四角の中を覗いても、何も見えない。

「まだ、見えない」

と書きながら、私自身も、この子をどこへ連れて行けばいいのか分からなくなっていました。

そして現在。

夫のひとしと旅をする探偵になりました。

旅先で事件に巻き込まれ、ひとしに

「今回は首を突っ込むなよ」

小説 『トラベルミステリー寅子の事件ノート』より

と釘を刺されながら、結局は首を突っ込む。

奔放で、自由気ままで、時に天然です。

こうして四つを並べてみると、ずいぶん変わったな、と思います。

でも、一つだけ、変わらなかったものがあります。

「困ってる顔は放っておけない」

16歳の寅子が、スーパーの前で言った言葉です。

20歳の寅子が真理を追いかけて橋まで走った理由も、現在の寅子が旅先で毎回ひとしを困らせる理由も、結局はここに行き着きます。

「これから……お前は……泣いている人を、たくさん助けるんだ」

12歳の春。

祖父から受け取ったもの。

寅子は、それだけを持って、ここまで来ました。


一番苦しかった場面

書いていて一番覚悟が要ったのは、『インビジブルフレーム』終盤の、真理が汐見橋の欄干の外側に立つ場面でした。

小説 『インビジブルフレーム』より

真理は、父を殺され、母を殺され、証拠まで握りつぶされた。

そして最後には、白石と同じやり方で丹波という男を動かした。

彼女は寅子に、こう問います。

「じゃあ、何が違うの。動機? お父さんとお母さんのためだったから? 動機が違えば、やったことは、許されるの?」

この問いに、私は答えを持っていませんでした。

書き手としては、ここで寅子に何か立派なことを言わせたくなります。

「違うよ」と言い切らせる。

二人の間に一本の線を引いて、真理をこちら側へ連れ戻す。

そのほうが、物語としてはきれいです。

読後感も、きっといい。

でも、それをやると嘘になる気がしました。

だから寅子には、こう言わせました。

「……分からない」

分からない。

それでも、

「生きて、こっちに戻ってきて」

と言う。

答えを出すことではなく、答えの出ない場所に、それでも一緒にいることを選ばせました。

この場面を書いたあと、しばらく手が止まりました。

あれが正しい答えだったのかは、今でも分かりません。

ただ、あの時の寅子には、たぶん、それ以外のことは言えなかったのだと思っています。


書いた本人には、見えていなかったもの

11作を書いてきて、もう一つ面白かったことがあります。

自分で書いた物語なのに、読まれて初めて気づくことがある、ということです。

コメントやDMで感想をいただくと、時々、こちらが思いもしなかったところを拾ってくださる方がいます。

何気なく置いた一文を、物語の重要な伏線として読んでくださる。

私がそれほど重く考えていなかった人物に、強く感情移入する方がいる。

逆に、こちらがかなり慎重に書いた場面を、驚くほど軽やかに受け取る方もいる。

最初の頃は、

「そういう読み方もあるのか」

くらいに思っていました。

でも、11作も書いているうちに、少し考え方が変わりました。

作者だからといって、その作品について一番多くのものが見えているとは限らないのかもしれません。

もちろん、何を意図して書いたかは私が知っています。

けれど、書いている時に無意識に選んだ言葉や、人物同士の距離、繰り返し現れる仕草まで、すべてを自覚して置いているわけではありません。

読み手は、それぞれ自分の経験や感覚を持って、そこを覗きます。

だから、同じ物語でも、見える景色が少しずつ違う。

考えてみれば、これも「フレーム」の話なのだと思います。

私は、私の位置から四角をつくって、物語を切り取る。

でも、その四角を覗く人の立つ場所までは決められない。

読んでくださった方から、

「ここが印象に残った」

「この人物が怖かった」

「私はこう読んだ」

と言われて初めて、自分がつくったフレームの中に、そんな景色もあったのかと気づくことがあります。

以前は、物語は書き終えた時点で完成するものだと思っていました。

今も、作品そのものはそこで完成していると思います。

ただ、その作品が何を見せるのかまで、書き手一人で決められるものではない。

11作書いてきて、それが少し面白くなってきました。


これから

白石輝道をめぐる物語は、これで完結しました。

あの男は、もういません。

ただ、完結編の最後に書いた通り、彼が置いていった「フレーム」だけは、まだどこかで動き続けています。

誰も命じていないのに。

誰の手も汚れていないのに。

一方で、寅子の物語はまだ終わっていません。
トラベルミステリーは、これからも書いていくつもりです。

次にどこを舞台にするのかは、まだ決めていません。
決めていないというより、たぶん、次の旅に出てみないと分からないのだと思います。


おわりに

改めて11作を並べてみて、思ったことがあります。

私は結局、ずっと同じことをやっていました。

日常の中から、ある部分を選び、枠で囲む。

旅の記録でも、小説でも、動画でも、それは変わりません。

寅子が指で四角をつくるのも、たぶん同じです。

彼女はいつのまにか、私がずっと掲げてきたコンセプトが、人の形をとったような存在になっていました。

ただ、こうして振り返ってみると、最初から計画して積み上げたものは、ほとんどありません。

妻の好きな2時間ミステリーから始まった。

駄洒落で主人公の名前をつけた。

コンテストに遊び半分で参加したら、指で四角をつくる仕草が生まれた。

久兵衛を殺すためだけに用意した町内会長が、いつのまにか4作をまたぐ怪物になった。

その時、その時で、

「こっちのほうが面白そうだ」

と思った方向へ転がってきただけです。

一本目を書いた時には、二本目が一本目の意味を変えるなんて思ってもいませんでした。

十一本目を書いた今になって、一作目に書いたことの意味が分かることさえあります。

創作というのは、案外そういうものなのかもしれません。

少なくとも、会社員が趣味で書き続けてきた私の場合は、そうでした。

そして、ここまで振り返ってみると、やっぱり一番感謝したいのは妻なのだと思います。

あの日、テレビの前で2時間ミステリーを楽しそうに観ていた妻を見なければ、最初の一篇はたぶん生まれていませんでした。

本人は、そんな大げさなことをしたつもりはないと思います。
ただ好きなものを、いつものように楽しんでいただけです。

でも、その何気ない時間が、11作につながる入口になりました。

この先も、たぶん同じことをやり続けるのでしょう。

旅に出て。

何かを見つけて。

そこに指で四角をつくって。

――ここだ、と思ったところを切り取る。

飽きるまでは、たぶん、ずっと。

長々と自分の話ばかりになりました。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


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