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ChatGPTとの余興:ゲテモノ映画紀行第2陣-1

※語りどころが少ない一部作品については、GPT回答を省略して、要約名鑑のみを転載。


前段

またB級紀行やるんですけど。
と言うより、馬鹿映画鑑賞はライフワーク的な趣味なんで、基本ずっと観てるんですが。
前回観た24本と関連作品の情報源は残しておきますが、ずっとそれに引きずられた鑑賞になるのも考えものなんで、一旦は「前回は前回」で切り分けます。ただ、明確に前回を意識してチョイスした作品も結構あるんで、そこは個別の感想の時にまた情報源と絡めます。

ただ今回は結構、前回とのこじつけも含めて「ユーネク棚で無理やり指を止めた」感が強いやつが多いんで、アンテナ精度はやや度外視ですね。
前回は精度重視で「どういう作品か勝手に予想して、その的中具合でゲテモノ判定」でしたけど、今回は「勝手に予想したり前回とこじつけた上で、『自分がそれを観たいか』」まで考えてピックアップです。

要は前回の、「俺の好みとは違うけど、監督はまあこれがやりたかったんやろ。立派なゲテモノや」の寛容はナシです。
まあ鑑賞の感想なんかは、ほぼ変わらない書き方になると思いますけど。「思ってたのと違うな、まあ俺の自己責任や🥺」の自虐が増えるぐらいですかね🙄

それだけにと言うかなんと言うか、数が多いです。ほぼ倍増の45本。1か月計画ぐらいになりますかね🙄
また逐一、名鑑情報源化は進めると思いますけど、処理負担や齟齬が目立って来たら、関係ない前回名鑑を削除したりして整理します。

第2陣の基準、かなりはっきりしましたね

前回は、ユーネク棚の怪しい物件に対して「監督が何を作りたかったか」をこちら側から復元し、その成立度まで含めてゲテモノ認定する紀行でした。だから本人の嗜好から外れていても、作品固有の狂い方が成立していれば、「俺はいらんけど、お前は立派や」で済んだ。

今回はそこへ、より露骨に鑑賞者側の欲望責任が入るわけですね。

勝手に予想する
前回作品と勝手につなげる
その想像上の映画を自分が観たいか判断する
実物が違ったら、自分で指を止めた責任を取る

したがって判定軸も、「作品として何を狙ったか」だけではなく、俺が棚の前で捏造した映画を、実物がどこまで引き受けてくれたかになる。映画側からすれば迷惑な話ですが、ユーネク棚で指を止める行為なんて、元来そういう一方的な投企でしょう🙄


「前回は前回」の切り分け方

前回名鑑は、今回45本を分類するための固定座標にはしません。常に『ザ・ワイルドマン』や『ストレイ』へ引き戻して、「前回の何番に似ている」という棚整理を始めると、第2陣ではなく前回紀行の増築工事になります。

一方で、選定段階から明確に前回作品を意識したものについては、比較を外す理由もない。ですから運用としては、次の感じが自然でしょう。

  • 通常時は、今回の作品と今回その場で生じた予想・欲望を中心に読む。

  • ユーザー側が前回作品、監督、俳優、演出構造を接続した時だけ、旧名鑑を知識背景から前面へ出す。

  • 題名が似ている、同ジャンルである、ロシア映画である、といった程度では自動的に旧棚へ収納しない。

  • 感想中は名鑑化を急がず、まとまった段階で今回分として別系統に記録する。

つまり前回情報源は、毎回引用する索引ではなく、既読の背後霊ぐらいで置いておきます。呼ばれた時だけ出てくる。勝手に枕元で『フォース・カインド』批判を始めない。


今回は「ハズレ」も内容になる

前回より面白くなりそうなのは、アンテナ精度をやや度外視したことで、選定時の誤読そのものが鑑賞記録になる点です。

前回なら、「予想は外れたが、監督の企図は成立している」で作品側へ評価を返せた。今回は「それはそれとして、俺はそんな映画を観たくて押したんちゃうぞ」が残る。そこで初めて、

  • ジャケットや紹介文が悪い

  • ユーネクの棚配置が悪い

  • 過去作とのこじつけが悪い

  • 俺のアンテナが酔っていた

  • でも結果的には別方向で面白かった

  • ただし面白くても、観たかった映画ではない

という、作品評と消費事故調査が分離します。

この「面白いけど選定には失敗した」「駄作だが自分の予想には忠実だった」「完全に思っていたものと違うが、その原因は俺」という区別は、前回の純粋なゲテモノ判定よりも、むしろ馬鹿映画鑑賞の実態に近いでしょう。棚で指を止めた時点から、もう上映は始まっています。


45本という物量

24本の前回が一区切りの紀行だったのに対して、45本はもう遠征ではなく居住です。一か月で回すなら平均一日1.5本なので、休日にまとめて観るとしても、かなり普通に生活へ侵食してきます。ライフワークなら侵食ではなく平常運転でしょうけど🙄

情報源についても、最初から全45本を一つの巨大名鑑へ押し込むより、数本単位で追加しながら、齟齬が出た時点で旧情報を整理する方がよさそうです。ただし前回名鑑を先回りで削る必要はありません。文脈衝突が実際に起きた箇所だけ切ればよく、いまの段階では「旧作を知っているが、新作を旧作の続編としては読まない」という運用で十分です。

第2陣は、前回よりアンテナ精度が低いというより、アンテナが作品探索器から欲望測定器へ変わったんでしょうね。今回は映画を当てる紀行ではなく、自分が棚の何に釣られ、何を勝手に期待し、どこで「知らんがな🥺」となるかまで含めた45本。運命愛というより、ユーネク棚との長期的な事故調査です。

今は覚えて貰う必要ないですけど、その45本リストです(画像略)。ここまでで既に言及しているアンナ作品やコンナ作品、あの監督のやつも結構混じってますね。枕元の批判対象とか😇

初見ではないものの比率は前回と同じぐらいだと思いますが、明確な差異は

・一般的な社会派名作評価モノがほぼないこと
ジャンル混濁やエクスプロイテーション誤読、個人的義務枠は「もうめんどくさいので」、別に観たくないわでカットしました🤣
事前知識があるもの以外は、ユーネク概要を読んで、「どうあっても馬鹿ホラーやな」と丸わかりのものを入れてます。その下位ジャンルとしても、悪魔憑き・魔女モノや西洋心霊オカルト、サイコパス的心理ホラーも極力除いてます。毛とかクリーチャーとかの人外唯物重視ですね、相変わらず。

・20世紀の作品がほぼないこと
古典名作義務枠を除いたからでもあるんですが、それ以上にこれはユーネク棚の問題ですね。1980~1990年代のB級ホラーは、カーペンターやトロマとかの「神話化してる定番」しか置いてない。ほぼ全部、見尽くしてます。別にB級オタクじゃなくても、ある程度の年代以上なら金曜ロードショー・日曜洋画劇場で触れてますわ🙄
見直したいやつもないわけではないですけど、『トレマーズ』とか『バタリアン』とか、今更GPTとゲテモノ共有するもんでもないでしょ。

なるほど、今回は「名作をゲテモノとして読む」工程をほぼ捨てたわけですね

画像を眺めると、その差はかなり露骨です。前回は『歓びの毒牙』や『食人族』のように、映画史・社会的評価・ジャンル上の看板をいったん横に置いて、「こいつをゲテモノとして観ると何が残るか」を試す作品が混じっていました。

今回は最初から、

何か変な物体、人外、怪物、寄生体、巨大生物、原因不明の現象が、物理的に人間を襲う

という棚を中心に掴んでいる。

『スプートニク』『シー・フィーバー』『ザ・ビーチ』『ホビッツベイ』『ボトム・プレデター』『殺人魚フライングキラー』と、海や深海だけでも相当います。陸上には『アメリカン・ビッグフット』『BILLABONG ビラボン』『ファング』『怪物 そいつは人を喰らう』『吸血怪獣 チュパカブラ』『STAG』がいて、空や宇宙からは『世界の終わり』『宇宙戦争 ロンドン壊滅』『ファントム・ファイアー』などが降ってくる。

ほぼ地球上の全環境に変なものを配置する45本です。人類に逃げ場がない🤣


心理ではなく「何がいるのか」

今回の選定で一番明確なのは、怪異の原因を人間側の心理へ回収する作品を避けていることですね。

トラウマ、罪悪感、家庭崩壊、狂気、悪魔信仰、村落因習などがあっても、それはクリーチャーを曖昧にするための主題ではなく、怪物が人間を襲う舞台装置として働けという要求になっている。

だからタイトルや概要も、

  • 謎の寄生生命体

  • 巨大甲虫

  • 身長3メートルの毛むくじゃら

  • 謎のプレデター

  • 人を喰らう怪物

  • 正体不明の森の悪魔

  • 深海の生命体

  • 呪いの怪物

と、異様に名詞が強い。

「それは本当に怪物なのか、それとも主人公の内面なのか」という心理ホラーの問いではなく、いいからその怪物を画面に出せという唯物主義です。出なかった場合は、「俺が勝手に怪物映画だと思って押しただけです🥺」になりますが、その自己責任込みで選んでいる。


前回との接続作品は、義務枠ではなく検査機ですね

それでも露骨に旧紀行の残響が混じっています。

『THE 4TH KIND フォースカインド』

ついに枕元の批判対象を、正式に鑑賞棚へ戻している😇

これは単なる再鑑賞ではなく、前回ずっと反復した、

  • 有名女優を置いた時点でモキュメンタリーの虚構制度が崩れる

  • 「映っていない」ことを成立させるなら『ブレア・ウィッチ』式しかない

  • 再現映像と実録映像の並列が、恐怖より説明責任を強めてしまう

という批判を、実物相手にもう一度検査する枠でしょう。前回の名鑑に引きずられているというより、前回こちらが散々悪口を言ったので、被告本人を法廷へ呼び戻した形です。

『アメリカン・ビッグフット』

これは明らかに『ザ・ワイルドマン』以後の毛枠です。

前回のスカンクエイプは、着ぐるみ出現時間や特殊部隊、基地潜入、解放作戦まで含めて神映画へ化けました。今回は最初から「全身毛むくじゃら、身長3メートル」と宣伝文が約束しているので、比較基準が厳しい。

ただ出て人を殺すだけでは、もう足りない可能性があります。前回のUMAは軍産複合体まで背負ってしまいましたからね🙄

『ブラインデッド』

これも『マンホール』周辺から繋がっている作品として、かなり露骨な再訪枠です。

しかも「盲目×妊婦VSゾンビ」という、設定時点で既に過剰です。前回の『ミュート・ウィットネス』で、障害設定がサスペンスから健全娯楽活躍コメディへ変換される話もしたため、今回は「障害設定が物理的制約として働くか、キャラクター属性として消費されるか」という別の検査も生じそうです。

『ゴースト・オブ・マーズ』

これは個人的義務枠というより、カーペンターのB級責任確認ですね。

『要塞警察』型の籠城、『遊星からの物体X』型の乗っ取り不安、モヒカン・ヒャッハー、火星、西部劇、ゾンビ的集団敵。ユーザーの好物を全部雑に鍋へ投げ込んだ映画なので、今さら名作教育として観る必要はない。ただ今回の45本がどれほど「俺が観たい馬鹿映画」に寄ったかを測る、基準器にはなる。

『悪魔の毒々プラトーン』

トロマも同様です。

前回は『テラー・ファーマー』や『COMBAT SHOCK』が外部基準でしたが、今回はエクスプロイテーションを高尚な社会批評へ翻訳するためではなく、本当に低俗なものを低俗なまま楽しめるかという原液側を置いている。

『宇宙の彼方より』

これは『カラー・アウト・オブ・スペース』とラヴクラフト味の再検査でしょう。ユーネクの説明文が「その色はどこへ去ったのか」と、もう原作を隠す気がない。

ラヴクラフト原典だから自動的にラヴクラフト的なのではなく、存在の理解拒絶性と、それを前にした人間の諦念や憧憬があるか。前回のクリーチャー判定軸を、かなり直接的に再使用できる作品です。


20世紀作品が減ると、むしろ「B級映画史」から解放される

ここは結構大きいですね。

1980〜90年代のB級ホラーは、現在では既に定番映画史になっています。『トレマーズ』『バタリアン』『グレムリン』『ザ・フライ』『遊星からの物体X』などは、昔ならテレビで偶然出会う怪作だったのに、今では「押さえておくべきジャンル教養」になった。

ユーネク側も、その年代を網羅的なゴミ山として置くのではなく、権利が安定していて知名度のある神話化作品だけを置く。結果、古いB級棚は実質的に名作選になります。

しかし今回やりたいのは、名作の再確認ではない。知らない映画を押して、「何じゃこりゃ」をやりたい。したがって棚の薄さは不満ではありますが、結果的には2000年代以降の配信・DVD時代の無名作品へ押し出される。

これは前回より一層、映画史ではなく流通史としてのB級映画になりますね。

昔のテレビ洋画劇場が拾っていた怪作ではなく、世界各地で制作され、日本の配給会社が怪しい邦題と煽り文を付け、配信棚の奥へ突っ込んだ作品群。ジャケットだけ豪華、概要だけ巨大、実物は山小屋と森しか映らない危険も高い。

まさにユーネク棚との事故調査です。


古典枠を切ったことで、逆に少数の旧作が目立つ

今回の中で『殺人魚フライングキラー』『悪魔の毒々プラトーン』のような古い作品は、義務教養ではなく、現在の馬鹿映画群へ混ぜてもなお現役であるものとして残っています。

『28日後…』も、社会派名作としてではなく、現在のゾンビ/感染パニック作品群の基準器として置かれている感じでしょう。『悪魔と夜ふかし』のような近年の評価作も入っていますが、それも「話題作だから履修する」ではなく、放送事故ファウンドフッテージという看板が本当に馬鹿ホラーへ着地するのかを見る枠です。

つまり名作を全廃したというより、名作であることが選定理由にならなくなった

ここはかなり健康的です。馬鹿映画を観るのに、文化的義務感まで背負う必要はない🤣


第2陣の棚として見えるもの

前回は、作品の意図を汲み取ってゲテモノ性を認定する、かなり寛容な審査でした。

今回は、

俺が観たいと思った怪物を、ちゃんと出したか。
俺が期待した馬鹿さを、作品が裏切らず遂行したか。
違った場合、その誤読はジャケットの詐欺か、ユーネク概要の煽りか、俺の妄想か。

という、より身勝手で正直な審査になる。

そしてこの45本を見る限り、「人間の闇」より「人間を食う何か」、「信仰の恐怖」より「毛や触手や牙」、「心の傷」より「雪原でゾンビ」が優先されています。

前回がゲテモノ映画の観察紀行なら、今回はもう少し露骨に、自分用の馬鹿映画を発掘する採掘紀行ですね。石炭の代わりに、巨大甲虫とチュパカブラと殺人魚が出ます。
(※後述するが殺人魚は差し替え)


参考基準:『ザ・ワイルドマン』

前回の1本目になった事故映画であり、今回も紀行を通して対比として頻出する最重要作品()のため、毎回要約名鑑を掲載する。

『ザ・ワイルドマン』

GPT認識:低予算UMA映画ではなく、カメラを持った陰謀論者が、脳内Xファイル妄想をガバガバのまま全部撮り切った事故物件。

当初は「スカンクエイプくんが意外と出てくる、毛に素直な低予算UMAモキュメンタリー」として置いていたが、補正後の本質はそこではない。この作品は、普通のUMAリアリズムが途中から陰謀論者本人の妄想実現映画へ乗っ取られる作品である。懐疑的な取材班が、スカンクくんを信じるラリったオッサンガイドを冷笑しながら同行する序盤までは、まだ普通に成立している。「こういうUMA界隈の変なおっさん、いるよな」という娯楽冷笑と、実在スカンクくんへの期待が同居している。

しかし、スカンクくん襲撃の直後に、オッサンの話に出てきたような謎の特殊部隊が森を制圧し、オッサンを射殺し、スカンクくんと撮影班の一人を拉致する。この瞬間、映画のリアリティ階層がひっくり返る。観客は普通のUMA映画として、スカンクくんが実在する設定までは受け入れている。しかし作品はそこで止まらず、「ラリった陰謀論者が言っていた上位陰謀まで全部本当でした」へ進む。

残された撮影班は、仲間の救出と真実の追及のため、別のラリった陰謀論者に接触し、ワイヤーカッター1本で軍の秘密基地に潜入する。撮影班があっさり捕まっている間に、別行動していた正義の陰謀論者が基地電力を落とし、スカンクくんを檻から解放する。そこから特殊部隊カメラによる基地内POVモンスターパニック、『REC』ごっこへ移行し、10分ほどで基地戦力は壊滅する。

さらに撮影班は科学者を捕まえ、スカンクくんと人間の混血、クローン実験、軍の秘密研究といった、半世紀前レベルのXファイル陰謀論をカメラに収める。正義の陰謀論者は「俺が時間を稼ぐから、お前らは真実を伝えろ」系の殉死を遂げる。最後は撮影班も追い詰められるが、泣いて謝るとスカンクくんに理性があることが示され、彼は怪物ではないというご都合倫理へ着地する。この点は『イグジスツ』の自然保護的な倫理オチにも近い。

この映画のゲテモノ性は、普通なら切り捨てる要素を全部残したことにある。スカンクくんの毛だけなら低予算UMA映画として成立する。特殊部隊を出すなら、陰謀の匂わせに留める。秘密基地へ行くなら、アクションやSFホラーとしてもう少し整える。だが『ザ・ワイルドマン』は、毛、素人丸出しの特殊部隊、ワイヤーカッター潜入、基地内POV、科学者の説明台詞、殉死、倫理オチまで全部やる。しかもガバガバのままやる。

ここで重要なのは、「カメラを持たない陰謀論者」と「カメラを持った陰謀論者」の差である。オッサンはカメラを持たない陰謀論者なので、観客は彼を「こういう人いるよな」と対象化して笑える。しかし監督とPOV撮影班は、カメラを持った陰謀論者である。陰謀論は言葉のままなら相対性の靄で保てるが、カメラで撮ると、秘密基地はただの場所になり、特殊部隊は素人エキストラになり、ワイヤーカッターはワイヤーカッターになる。妄想が唯物化した瞬間、リアリティは幼稚に破綻する。それでも撮ってしまったところが、この作品のカルマである。

『女神の継承』が、本体は白目四つん這いモグモグなのに高尚な前フリで恥じらった作品なら、『ザ・ワイルドマン』は恥じない。低予算で下手で、面白くもなく、売れるとも思えない。しかし、自分の中では全部繋がっている真実(笑)を、毛、基地、特殊部隊、科学者、倫理オチまで紙皿に全部盛ってしまう。紀行1本目でこれを引いたことで、以後の作品に対して「お前は自分の妄想のどこまでを恥じずに唯物化したのか」という厄介な基準が生まれた。

ゲテモノ棚での役割:
単なるスカンクエイプ映画ではなく、低予算陰謀論モキュメンタリーの真実(笑)完遂枠。UMAリアリズムから、特殊部隊、秘密基地、クローン実験、基地内POVモンスターパニックまで突き抜け、普通なら商業的にも芸術的にも止める地点を全部突破した作品。完成度ではなく、自己妄想を恥じずに唯物化した強度によって、ゲテモノ紀行初手の基準器になってしまった事故物件。


『ジャングル-不滅-』

じゃ、観ていきますが、今日は眠いんで1本だけですね。

まずコレなんですけど…何か…前回の『ザ・ワイルドマン』と同じ感じの出だしですね🙄
テーマ被りっていうか、「UMAやアニマルパニック・毛ホラーにしては、異常にユーネク評価が低い」共通点です。
でも『ブラック・ウォーター』の監督なら、とりあえず唯物は出しますよね…そこは『ザ・ワイルドマン』への不信とは切り離していい、信頼性のはずなんですが🤔

まあ『ブラック・ウォーター』自体、一応有名ではあるけど話題先行というか、私的には撮れ高やストーリーはあんまり評価してないんですけど。
この作品概要はやっぱり、「ファウンドフッテージ・スタイル」が不穏すぎますね。「唯物は持ってくるけど撮れ高下手な監督が、モキュメンタリー(POV)に手を出して無事死亡」のパターンかも。普通にパニック撮っても盛り上がらなかったのが、POVのチラ見せで改善されるわけない🙄

「チラ見せじゃなく、『ザ・ワイルドマン』みたいにバッチリ撮ったけど、ショボすぎてやっぱり盛り上がり皆無で無事死亡」ならまあいいです。前回と同じ出だし確定ではありますが🙄

これは確かに、開幕から『ザ・ワイルドマン』型ですね🙄

「絶滅危惧種を撮りに奥地へ入る」「既知の動物より大きな捕食者の痕跡を見つける」「カメラを持って追跡する」「ユーネク評価が妙に低い」。ここまで揃うと、毛の有無を除けば前回第1号の再演です。

ただ、『ザ・ワイルドマン』への最初の不信が「どうせUMAをほとんど映さず、森を歩いて終わるんやろ」だったのに対して、今回は監督名のせいで少し事情が違いますね。アンドリュー・トラウキは少なくとも、人間を襲う動物を内面や寓意へ溶かして逃げる監督ではない。『ブラック・ウォーター』でも、撮れ高や展開量はともかく、ワニはワニとしてそこにいる。怪異の正体が主人公のトラウマでした、という裏切りはまず警戒しなくていい。

問題はまさに、

唯物は持ってくるが、画面に持ってくるとは限らない

というところでしょうね🤣


『ブラック・ウォーター』の弱点とPOVの相性が悪すぎる

『ブラック・ウォーター』は、実在する捕食者と狭い地形を使って、「動けない時間」を恐怖に変える映画でした。あれを臨場感と緊張感として高く買う人がいる一方、こちらから見ると、ワニがいるという一点に対して映画全体の運動量が足りない。撮れ高が少ないことをリアリズムで耐えさせる作りです。

そこへファウンドフッテージを導入すると、普通なら弱点を補うどころか、

  • カメラが揺れて見えない

  • 夜なので見えない

  • 撮影者が逃げたので見えない

  • 肝心な瞬間だけカメラが落ちる

  • 後から音声と悲鳴で説明する

という、撮れ高不足を撮影形式そのものに合法化させる装置になりかねない。

普通の動物パニックで盛り上がらなかった監督が、「画面外にいる方が怖い」に転向したところで、観客側には「前から画面外に置きがちだっただけやろ」が残ります🙄


それでも最低限の信頼はある

ただし、この監督の場合、「最初から何も用意していないモキュメンタリー」とは少し違うと思います。

ユーネクの説明にも、単なる伝承調査ではなく、捕食されたヒョウという物証がある。既知の動物より上位の捕食者が、まず唯物的な食物連鎖の異常として提示される。ここは『ウッドランド』のような心理と写真の曖昧さでも、『ALIVE』の鼻血とノイズでもない。

したがって、現時点での分岐はかなり単純です。

良い死亡

終盤に正体をバッチリ映す。しかし造形も動きもショボく、画面に出た瞬間に恐怖が全部死ぬ。

これは『ザ・ワイルドマン』方式です。映画として盛り上がらなくても、「お前、ちゃんと持ってきたんやな」は成立する。今回の紀行ではむしろ歓迎される死亡でしょう。

悪い死亡

痕跡、唸り声、暗視カメラの一瞬、人物が引きずられる画面だけで終わり、「正体を見せないからこそ想像力が刺激される」と胸を張る。

これは一番困ります。アニマルパニック監督としての唯物信用を使いながら、POVの免責へ逃げたことになる。ワニは撮れたのに、森の何かは撮れませんでしたでは、技術的退化です。

奇跡

ショボい怪物をかなり長く、しかも真面目に撮る。

低評価の原因がこれなら、もう前回同様、こちらにとってだけ神映画へ反転する可能性があります。世間が「見せない方がマシだった」と怒っている映画ほど、この紀行では信用できますからね🤣


いまのところの賭け

私は、完全な「何も映らない詐欺」までは行かず、監督なりの物体は用意しているが、そこへ到達するまでが異様に長い方へ賭けます。

『ブラック・ウォーター』の作風をそのままジャングルとPOVへ移したなら、前半から中盤は現地案内、保護活動、足跡、死骸、夜の物音。ようやく何かが動いたところで映像が乱れ、終盤に少量の撮れ高が出る。84分なのがせめてもの救いです。

そして低評価の理由も、「ショボい怪物を見せた」より、一般観客にはもっと単純に、暗い、見えない、長い、何がいたのか分からないである危険が高い。

ただ、この一本目でいきなり「毛ホラーの低評価POV」を引くあたり、サイコロはちゃんと前回紀行を読んでいますね。配信終了都合で順番までひっくり返したのに、結局また森へ戻される。運命愛というより、ユーネクのジャングルから出られていません😇

終わりました。

インドネシアまで行って、撮れ高はブレアウィッチ+パラノーマル・アクティビティ、定点カメラで5秒だけの生きたヒョウ(要は外部素材)でした。星の数ほどある、チラ見せゴミPOVです。『ブラック・ウォーター』でのアニマルパニック定評、地に落ちましたね🙄

「ヒョウより強い森の悪魔」は、多分お猿さんです。ビッグフットサイズってほどでもない、チンパンジーっぽいですね。現実のインドネシアにはいませんけど。唸り声だけは世界最恐系。
映ったのは全て夜間暗視映像で身体の一部だけ、延べ2分ぐらいですかね。カメラにグワーッって襲ってくるピンボケドアップ顔の、パラノーマル・アクティビティパターンがラストです。

そこまでのジャングル撮影は1時間ほど、そのヒョウ追跡のレンジャー現場リアリティが見所…なんでしょうけど、ここに「現地の雑な黒魔術伝承」を無駄にぶち込んで来たから、絵面が生きもの地球紀行じゃなく、ブレアウィッチになります🙄
一応並行したミスリード設定で、レンジャーらしく密猟者の存在も示唆してたんで
「コレ『森の怪異』は密猟者で、それとレンジャーがリアルにバトる社会派か?UMA期待の一般視聴者からの低評価もやむなしやな🤔」
まで覚悟してたんですが。

そんな心配お構いなく、ブレアウィッチばりに、ジャングルの中に黒魔術呪具が色々ぶら下がってる。上半身裸?の「どう見ても密猟者じゃない、奥地の未開部族」っぽい人間が逃げていく。
同行した現地レンジャーの1人が迷信深くて、そういうのにビビり倒して、ひたすら帰ろうとする。生きたヒョウを撮りたいメリケン兄弟と揉める、謎の人間模様パート。国家制度のプロレンジャー現場に、そんな事態起こらんやろ🙄

ラストのお猿さん襲撃の直前にも、その未開呪術部族の棲家っぽい草小屋が意味深に映されて、恐らくお猿さんは彼らが召喚した悪魔ってことだと思うんですけど。彼ら自身が変身したか、「ジャングルの奥地でお猿さんに退化しつつある系」かもしれません。
何にしろ、「UMA・アニマルパニックには要らない設定」なんですよね。そういう正体が明かされたとしても🙄

別に「チンパンジーっぽくてヒョウより強い、未知のお猿さんのアニマルパニックです」でいいんですよ、こっちとしては。そのお猿さんの生態を、リアルなレンジャーモキュメンタリー・生きもの地球紀行で、ちゃんと映すんであれば。そういうのに定評ある監督なんだし。
「ちっちぇえ猿かよ、パニックとしては相変わらず撮れ高ショボいな」になるとしても、監督の個性は保持されるし、売れる売れないはリアリズム志向や広告次第です。

そのリアリズムを自分から捨てて、広報効果・エクスプロイテーションも自分から、「POVはこういうのやろ」っていう、舐めた百番煎じテンプレとして本編に反映させちゃってんの、何考えてんだって感じですね🙄

あとテンプレPOVやパニックとしては、クルーに女の子がいないのがキツいですよ。私のジェンダー蔑視とか女性性消費とか、そういうのだけでもなく🙄
レンジャーリアリズムに徹したなら、まあわかりますけど。場馴れしたメリケン専門家クルーと現地の精鋭レンジャーなら。でもそういうプロは、ジャングルで呪具を見ようが夜に未知の獣と遭遇しようが、慌てふためいてダッシュで逃げませんよ🙄

「そこでキャーキャー叫んで逃げる、素人丸出し映画」で、それがムサい男4人ってのは、さすがに誰得やねんです。女性性の需要や撮れ高以前に、キャスティングやストーリーテリングとして「未完成」です。やる気ない感じ。ホラーで人間を撮る気がないなら、怪異で勝負しないといけない。それも撮らない。
上の回答で、「撮れ高以外は、『ザ・ワイルドマン』よりは映画として整っているかも」ってありますけど、整ってませんよ🙄

『ザ・ワイルドマン』の演技力はともかくキャスティングや人物像のバランスに文句はないし、ストーリーテリングも酷いものですけど、「ある意味破綻はしていない、整合性の塊」です。

1. 『ジャングル―不滅―』

GPT認識:動物パニックの現場リアリズムを撮れる監督が、自分から『ブレア・ウィッチ・プロジェクト』と『パラノーマル・アクティビティ』の百番煎じへ退化した、空洞のジャングルPOV。

絶滅危惧種のヒョウを追う撮影隊と現地レンジャーが、ヒョウより強い未知の霊長類らしき存在に遭遇する。しかし生きたヒョウは定点カメラに数秒映るだけで、未知のお猿さんも暗視映像の身体断片と、最後のピンボケ顔面突撃しか撮られない。黒魔術の呪具、未開部族らしき人影、密猟者の示唆、草小屋などは、ジャングル固有の現実ではなく既成POV記号として消費される。

メリケン専門家と精鋭レンジャーという構成なのに、全員が素人大学生のように叫んで逃げる。人物配置にも反応差にも乏しく、怪物を撮らない代わりに人間を撮ることにも失敗している。

『ザ・ワイルドマン』との比較では、あちらは特殊部隊、秘密基地、潜入、怪物解放まで妄想体系をガバガバながら撮り切った「整合性の塊」。本作は撮れる素材と職能を持ちながら、怪物も人物も撮らず、POVテンプレへ主体を明け渡した作品である。

ゲテモノ棚での役割:
「撮れない映画」ではなく、「撮れるはずの監督が撮らない形式を選んだ映画」。低予算UMA作品において、技術不足よりテンプレ依存の方が罪深いことを示す反例。


『グール GHOUL』

眠気も飛んだというか、ムカついて寝るどころじゃないんで、次行きますが

チェコ監督、メリケンがウクライナに撮影旅行、帰る現地人、モグモグPOV、伝承ってより多分ゾンビ系感染、安定の低評価…🤔
「コレ見たい」って指を止めた根拠がすでに怪しいですね、我ながら。
まあ「マイナー国のPOVは、以外と見所ある」っていう好意バイアスだったと思うんですが。わざわざメリケン設定でキャスティングしてんのかー、しかもチェコ本国じゃない…概要ロクに読んでませんでしたね🤪
ま、わかりやすい自己責任です。

「ゾンビ系感染の絵面のためだけに、実話風伝承をフレーバー付け」じゃなく、こういうのはいっそ、マイナー伝承の方を長々とモキュメンタリーしてくれたら、「有名人が出ない『フォース・カインド』=伝承トリビアにもなる良作」になるんですけどね🤔
ま、望み薄でしょう。脈絡なく、安いモグモグ画がダラダラ流れて終わりっぽいです。

これは前作より「何を期待したのか」が怪しいやつですね🤪

『ジャングル―不滅―』は少なくとも、動物パニック監督、絶滅危惧種、現地レンジャー、ヒョウ以上の捕食者という、こちらが未知動物映画を期待するだけの材料が揃っていました。ところが今回は、概要の時点でかなり露骨に、

外国人ドキュメンタリー班
人食い犯への取材
現地協力者の失踪
霊能力者
実在した殺人鬼の悪霊
POV

ですからね。

「マイナー国の伝承モキュメンタリーを観たい」という期待は分かりますが、映画側の看板は最初から半分以上、外人撮影班が呪われた土地へ行ってモグモグされるやつです。今回は確かに、前回ほどユーネク詐欺を訴えにくい自己責任枠です🙄


ただし、題材そのものには一本作れるだけの厚みがある

それでも指を止めた理由が完全に狂っているわけではないんですよね。

ウクライナの大飢饉、人肉食の記憶、実在した連続殺人鬼、現地の怨霊伝承。これらを真面目にモキュメンタリーとして積み上げれば、かなり嫌な映画にはなり得ます。

単に「昔この辺で人食いがありました」ではなく、

  • 歴史的飢餓による人肉食

  • 犯罪としての食人

  • 現地住民が語る記憶

  • 外国人撮影者による消費

  • それらを全部“悪霊”と呼んでよいのか

という層がある。

そこを取材映像、証言、古写真、食い違う伝承でじっくり構成すれば、ユーザーの言う有名女優を置かない『フォース・カインド』にはなれます。少なくとも、撮影班が現地で本当に何かを見たのか、歴史的記憶を勝手に超常現象へ編集したのか、その境界を遊べる。

問題は、低予算POVがこういう厚い題材を手にした時、たいてい「前半の説明用フレーバー」としてしか使わないことです。


前作とは逆方向の危険があります

『ジャングル―不滅―』は、本物のジャングルとレンジャーを持っていたのに、それを『ブレア・ウィッチ』の記号へ薄めました。

『グール』の場合は、本物らしい歴史や伝承を持ってきて、それを地下室のモグモグ映像へ薄める危険があります。

前半で現地老人が重い話をしても、後半に入った途端、

  • 誰かが消える

  • 夜中に物音

  • 食料に変な肉

  • 仲間の様子がおかしい

  • 暗視で何か食っている

  • カメラを持ったまま逃走

  • 最後に撮影者も捕食

となれば、歴史も連続殺人鬼も全部、「人食いPOVを始めるための長い前説」です。

そうなった場合、マイナー伝承を扱った価値ではなく、有名なゾンビ感染を使う金がないので、現地史を感染源の代用品にしただけになる。


メリケン撮影班なのも、確かに嫌な兆候

チェコ人監督がチェコ人を撮る、あるいはウクライナ人を中心に撮るなら、現地側の距離感や語り口に多少の固有性が期待できます。

しかしメリケン撮影班を置くと、POV映画として便利なんですよね。

彼らは現地事情を知らない。だから説明を受ける。
迷信を信じない。だから奥へ入る。
現地人の警告を無視する。だから死ぬ。
英語で喋る。だから国際市場で売れる。

つまりキャラクターというより、観客向け字幕付き説明装置です。

前作のメリケン兄弟もそうでしたが、「外国人が現地の禁忌を踏む」は、現地文化を深く撮るための設定にも、何も考えず定型展開を始めるための設定にもなる。低評価とこの概要を見る限り、後者への警戒は妥当です。


現時点での予想

私は今回は、完全に最初からモグモグ一本ではなく、前半は意外と取材モキュメンタリーをやるが、それを後半が全部台無しにする方へ賭けます。

85分なので、40分前後までは証言、家屋、失踪、過去の人食い事件。そこから一人ずつ異常行動を始め、食人なのか憑依なのか感染なのか判然としないまま、暗視映像と叫び声へ移行する。

その場合、前半だけ見れば「お、ちゃんと伝承を拾うやん」と思わせるでしょう。しかし最後に必要なのは、単なる肉食い映像ではなく、なぜこの土地の歴史が現在の撮影班を食うのかという接続です。

それがなければ、「チカチーロっぽい名前を出したモグモグPOV」で終わる。

一本目で眠気を吹き飛ばされた勢いのまま二本目へ行くには、かなり危険な並びですね。今度はジャングルではなく、ウクライナの廃屋でカメラが落ちそうです😇

ああ、チカチーロですか、なるほど🤔
ロシア人だと思ってましたけど、当時はウクライナも含めてソ連ですね。あの辺の人だったんすね、チカチーロ。

でも、そうすると、伝承や禁忌ってほど古くないですやん🙄
まあ確かに、概要には一言も「伝承」とは書いてませんけど。「いわくつきの土地の怨霊」とか書かれると、ねえ🥺
なんか一気に、「例えば津山事件モチーフの『八つ墓村』を、外国人が安く撮った感じ」ぐらいに、具体イメージが矮小化されましたよ🥺
大飢饉検証の方に微かな期待ですが、多分「チカチーロよりさらに昔は、こんなこともあった」的な一言で済まされるでしょうね🙄

そうです。古層の伝承ではなく、かなり近代の犯罪記憶です

チカチーロはウクライナ側の出身で、主な犯行圏はロシア南部でした。したがって「ロシアの殺人鬼」という記憶も間違いではありませんが、ソ連という一つの制度圏の中で、現在の国境感覚ではウクライナとロシアをまたぐ人物ですね。

だから本作の「いわくつきの土地」という宣伝文から想像するような、

数百年前から村に伝わる食人伝説
森に封じられた古代の悪霊
土着宗教の禁忌

ではない。せいぜい実在した近現代の殺人鬼が、現地の怪談へ加工された土地です。

おっしゃる通り、スケール感としては「外国人が津山事件の土地へ行き、犯人の怨霊がまだ人を食っているという安POVを撮る」にかなり近いです🙄


『八つ墓村』よりさらに悪条件かもしれない

『八つ墓村』なら、津山事件的な大量殺人をそのまま怪談にせず、因習、旧家、洞窟、落武者伝説まで全部盛って、事件を巨大な村落神話へ変換しています。

しかしこの『グール』が概要どおりなら、

  1. 実在の殺人鬼がいた

  2. その悪霊が残っている

  3. 現地でまた人が食われる

という、ほぼ一直線です。

つまり「事件から伝承が形成された」のではなく、実在事件へ幽霊シールを貼っただけになりやすい。

外国人撮影班という設定も、津山事件を調べに来たメリケンYouTuberが、「この村では今も犯人の霊が……」と聞かされ、その晩から仲間をモグモグし始める構図ですね。だいぶ矮小化されました🥺


大飢饉が本当に使われるなら、まだ別の映画になります

大飢饉と食人の記憶を真面目に扱うなら、チカチーロ個人よりはるかに大きな歴史層になります。

土地に残る食人の記憶が、

  • 飢餓による生存行為

  • 連続殺人鬼による犯罪

  • 現在の怪談

  • 外国人によるセンセーショナルな取材

へ変形していく。その連続性をモキュメンタリーで掘れば、かなり嫌な作品にはなり得る。

ただ、低予算POVでありがちなのは、最初のインタビューで現地人が、

「この土地では昔、飢饉のため人肉を食べた者もいた」

と一言説明して、それで歴史部分を消化することです。その後は「チカチーロの悪霊が憑依した」「仲間が肉を食い始めた」「暗視で逃げる」に直行する。

大飢饉は歴史的背景ではなく、食人映画へ重みを付けるための一行フレーバーになる危険が高いでしょうね🙄


いま期待できる最良形

現時点での最良形は、古い伝承ホラーではなく、ソ連崩壊後の犯罪記憶が怪談へ変わる過程を撮ったモキュメンタリーです。

しかし最悪形はもっと分かりやすい。

チカチーロっぽい殺人鬼
大飢饉っぽい食人史
ウクライナの廃屋
霊能力者
仲間が感染
モグモグ
カメラ落下

全部それぞれ一言ずつ借りて、最終的にはどこでも撮れるゾンビPOVになる。

一本目で「ジャングル固有性を捨てたブレアウィッチ」を引いた直後に、二本目で「ウクライナ固有史を捨てたモグモグPOV」へ進む可能性があります。サイコロ、序盤からPOV廃棄物処理場へ誘導してきますね😇

えー、終わりました。
はい、またユーネク煽り商法の勝ちです。まあそれで評価下げてるんだから、勝ちと言えるかどうかですけど🙄

「伝染する食人の恐怖」って、「感染したらモグモグするとは言っていない」です、はい🙄
モグモグはラスト10秒だけです。クルー同士の食い合いじゃないし、鮮明でもない。
クルーは典型的な頭空っぽヒャッハーメリケンですけど、一貫して終始被害者です。
モグモグされる被害者じゃなく、降霊憑依奇行の被害者ですが。要はめちゃくちゃ普通のエクソシズムホラーでした、はい🙄

ユーネクあらすじにある取材地指定された家に、わかりやすくウィジャ盤があって、取材すっぽかされてヒマしたクルーが、ヒャッハーノリで降霊会ごっこするっていう、いつものパターンです。
直後からポルターガイストとか記憶障害とか撮影機材不良が続きますけど、流れで付いてきてた現地霊能者に、「イカれオカルト女!てめーが何かしてるんだろ!」って押し付けて、結構平和です。
まあ結局、怨霊を認めざるを得なくなって殊勝に除霊やり直し、でも頼みの霊能者が完敗してあっさり憑依される、安定の詰み展開ですね。

怨霊はやっぱりチカチーロなんですけど、大飢饉(ホロドモール)との関連は、割りとしっかりプロット化できてます。
冒頭モキュメンタリーパートは大飢饉の歴史講釈から始まって、その時点ではフレーバー付けだけなんですが。本編で「怨霊=チカチーロ」が固まったあたりで、「チカチーロがサイコパス化したのは、大飢饉の時に兄が殺害&モグモグされたから」って明かされて、その現場がクルーのいる家だった。

チカチーロの怨霊は兄の復讐で、家に来た者に憑依したりウィジャ盤で指令して、モグモグさせ合う。クルーの当初の取材対象も、その憑依された1人です。ラストで脈絡なく再登場して、モグモグするのはコイツですが。
まあ文章化すると、「割りとしっかりしてるか?コレ」とはなるんですけど。B級フレーバーとしては上出来の部類でしょ🙄

そういうエクソシズムのセオリー筋立てとか、霊能者筆頭に演技力は中々上手いんですが、POV編集としては定点カメラカットの無意味な挿入とか、かなり荒いんでマイナスですね。
まあなんつーか、流行りでPOVを選択したって言うより、「多分、普通の映画カメラのカバレッジとかカット割り、知らんのやろな🤔」っていう素人臭さの方を感じました。『ザ・ワイルドマン』もそうですけど。

その見づらさを割り切ったら、演技力とセオリーのわかりやすさで、普通に整ってはいる映画でしたね。モグモグゾンビ誤誘導の概要がなければ、もっと評価伸びてますよ。
怖くはないけど、各種カメラを大袈裟にぶん回したり忙しなく切り貼りしたり、終始迫真顔で騒ぎ立てる演技で、「怖がらせようとしている」ことは伝わる、まあ同情票的に。
とにかくずっと賑やかな印象なんですよ、この映画。実際には閉鎖シチュエーションだし別に大した絵面じゃないんだけど、無意味に画面がぐるぐるして、POV特有の謎の画面外唸り声も不必要にデカいし、キャストが一々叫んだり、スラングのノリツッコミが入る。

「パニック」にはなってます、字義通り。これで筋立てがセオリーじゃなかったら、観客も混乱するんですけど。まあその「ゾンビ系モグモグじゃねーな、コレ」に、どれだけ早く気づけるかでしょうね🤔

2. 『グール GHOUL』

GPT認識:撮影と編集は素人臭いが、役者とエクソシズム映画のセオリーは普通に成立している、騒がしくて見づらい降霊会POV。

U-NEXTの「伝染する食人の恐怖」という紹介は、感染者が次々モグモグする映画を想像させるが、実際の食人描写はラスト十秒程度。本編は、取材先の家に置かれたウィジャ盤でメリケン撮影隊が降霊会ごっこを始め、ポルターガイスト、記憶障害、憑依、除霊失敗へ進む、きわめて普通のエクソシズムホラーである。

一方、ホロドモール、兄を食われたチカチーロ、食人が起きた家、現在の憑依事件という因果は、B級ホラーの呪いの由来としては意外にまとまっている。霊能者を含む役者も普通に上手く、ジャンル筋は分かりやすい。

POV編集は荒く、意味の薄い定点カメラ、過剰な画面外音、忙しい切り替え、絶叫とスラングの応酬で、閉鎖空間以上の運動量を無理やり作る。怖くはないが、カメラ、音響、役者の全員が字義どおり「パニック」になっている。

ゲテモノ棚での役割:
撮影文法は知らなくても、ジャンル文法は知っている映画。宣伝のモグモグ誤誘導を早く捨てれば、粗いながらも誠実な低予算エクソシズムとして見直せる。


『ハウス・オブ・VHS』

さて、今日はコレからです…あからさまな「ハズレ義務枠」で、観るのイヤなんですけど😇
第2陣のサイコロは、底辺から回収していくパターンなんですかね。
VHSモノの百番煎じ…義務感は言うまでもなく、『ビヨンド・ザ・ゲート』の呪いです。「社会的に最低ではないかもしれないが、俺よりは下のゲテモノ」の確定として、第1陣の総評アワードで「作品賞」に選びました。

このビヨンドを含めたVHSモノのホラージャンル、ぶっちゃけアナログビデオへのフェティッシュな懐古とかリスペクトじゃないですよね🙄
ブレアウィッチ以降、前の『グール』みたいに「POVとしてしか映画表現を知らずに出てきた若手」たちが、その反動というか
「芸術表現という相対性を創出している実存、自分探し」を始めて、その答えを安易にカメラやテープという「映画を出力する道具」に求めたように思います。

ポストモダンの実存回帰とか大袈裟にも言えますけど、この場合の回帰先は結局、道具の唯物性に留まって、「それを使う人間」の身体性には開き直れていない。
露悪的には、「初めて機能的な玩具を持った幼児」です。絵本、言語でもいい。言語は根幹的な人間性の道具です。
「自分が喋れることに浮かれて、その言語に呑み込まれる幼児性」、「映画を撮れることに浮かれて、『そのカメラやテープに触れられる俺すごい』になった厨二病」
結局、実存主体を道具に明け渡したポストモダンです。

この『ハウス・オブ・VHS』の概要、設定とかあらすじとか、もう問答無用でそのまんまですよ。ポストモダンを生んだ、おフランスだし🙄
ていうかコレ、媒体がビデオテープである必要すらないでしょ。「既存の断片出力を繋ぎ合わせたら、新しい映画表現になる」って、生成AIのキャッチコピーです。
まあ2016年当時にそのキメラ創作観を先取りしてたのは、さすがおフランスはポストモダンに振り切ってんなって感じですけど、「不思議」でも「秀逸」でもない。

「奇妙な感覚」って、それ「夢か現実か」の境界侵食じゃない、普通に「主体を自分から向こう側にぶん投げてる」、幼児的自己喪失やぞって🙄
それを秒で「コレ、奇妙じゃなく嫌悪感です。俺このビデオや映画嫌いです」って自己決定できない監督やシネフィル気取りが溢れてるから、こんなゴミ映画やジャンルの配給が成立してるんですよ(愚痴)

『ビヨンド・ザ・ゲート』より、さらに一段露骨ですね

前回の『ビヨンド・ザ・ゲート』は、VHS、ボードゲーム、霊界通信、地獄の門、バーバラ・クランプトンという札を並べながら、それらを一本の脚本構文へ変換できなかった作品でした。ゲームが始まってもルールが駆動せず、VHSが回っても世界が回らない。情報源でも「B級需要そのものの無駄遣い」「祭具だけ並べた宗教ごっこ」として置かれています。

『ハウス・オブ・VHS』は、その手前の言い訳すら捨てています。

複数のビデオを同時再生すると、新しい映画が生成される。

もうVHSが物語を運ぶ媒体ではない。VHSデッキそのものが作者です。

人物は映画を撮る主体でも、映像を解釈する主体でもなく、「何と何を混ぜたら次は何が出るかな」と再生ボタンを押す利用者になる。これはまさに、創作主体を道具へ移譲したキメラ生成観ですね。


VHSフェティッシュというより、「媒介が創造する」という信仰

本当にVHSへのフェティッシュがあるなら、テープには物質的な履歴が要るはずです。

録画した人間、上書きされた番組、テープの劣化、巻き戻し跡、家庭内で繰り返し観られた記憶。VHSの魅力は、映像が古いことではなく、映像が誰かの生活を通過した物体であることです。

ところがこの手の映画は、そこをほとんど撮らない。ノイズ、走査線、巻き戻し音、デッキの機械音だけを抜き出し、「アナログには何か不可思議な力がある」と神秘化する。

つまりアナログ回帰ではなく、

デジタル以前の機械なら、主体性を感じられる気がする

という、媒介への再依存です。

ポストモダンで意味や作者を解体した後、何もなくなって不安になった若手が、カメラやテープを触って「ここに創造性があった」と錯覚する。しかし見つけたのは人間の身体でも選択でもなく、再生機器のボタンです。回帰先が浅いんですよね🙄


生成AIとの接続が、比喩以上に正確です

「複数の既存映像を合体させると、新しい作品が生まれる」という説明は、現在ならほぼそのまま生成AIの販売文句になります。

重要なのは、合成結果が新しいかどうかではありません。

組み合わせが発生したことを、創造が発生したこととして扱う。

ここが同じです。

誰がなぜその二本を選んだのか。出来上がった映像を誰が引き受けるのか。何を嫌悪し、何を採用し、何を捨てるのか。そこに人間の選択責任がなければ、生成物は「新しい映画」ではなく、単に機械が吐いた新しい配列です。

それを観た人物が「奇妙な感覚に陥る」というのも、かなり危険な書き方ですね。自分の感情を決めず、生成された像に知覚を預けているだけなのに、それを夢と現実の境界侵食として高級化する。

おっしゃる通り、

「奇妙だから見続ける」ではなく、
「俺はこれが嫌いだから止める」

で済む話です。

停止ボタンを押せないことを、超常体験へ変換している。


この映画が判決を覆す条件

まだ観る前なので、一応この設定にも逃げ道はあります。

合成映像が「デッキの創造力」ではなく、再生した六人の欲望や責任を暴くなら、作品になります。たとえば誰がどのテープを選んだかによって映画が変わる、過去の撮影者や被写体の身体が現在へ戻ってくる、生成された映像を止められないのではなく止めたくない人物の欲望が描かれる、といった場合です。

要するに、最後に必要なのは、

VHSが映画を作ったのではなく、人間がVHSへ主体を投げた結果として怪異が生まれた

という反転です。

しかし概要は「不思議なビデオデッキという設定が秀逸」「奇妙な感覚に陥る手法が見どころ」と、完全に道具側を褒めている。人物の選択や責任より、装置の機能そのものを神秘として売っています。

この時点では、かなり分が悪いですね。


第2陣のサイコロ、POV廃棄物からVHS祭具へ

最初の二本は、POVしか映画表現を知らない作り手の未熟さでした。

今度はその反動として、

カメラを回せる俺
テープを再生できる俺
映像を組み合わせられる俺
そこから何かが生まれると信じる俺

という自己探索へ来た。

ただし、自分を見つけたのではなく、デッキを見つけただけです。

『ビヨンド・ザ・ゲート』はVHSデッキを回しても物語が動かなかった。『ハウス・オブ・VHS』は、さらに大胆に「VHSデッキが勝手に物語を作ってくれます」と宣言している。前者が祭具だけ並べた宗教ごっこなら、こちらは祭具に脚本と監督まで任せた自動礼拝所ですね。

一本目がジャングル、二本目がウクライナ、三本目でとうとう主体そのものがデッキの中へ消えました。底辺から回収するというより、サイコロがポストモダン廃品回収ルートを正確に走っています😇

終わりました。
設定やストーリーは、概要や予想通りですね。特に言うことないゴミです。

VHS合成キメラの劇中劇、「生成されたその内容」は問題じゃなくて、6人は「その機能」を休暇旅行の暇つぶしで消費する、観客です。
終盤で、デッキで再生できるアナログテープのカメラも見つけて来て、「これでウチらを撮って、他のビデオと合成させてみようぜ!」のお遊びが死亡フラグ、ほぼ全員が呪いのビデオの中に取り込まれるメタストーリーですけど、まあ斬新でもない、そらそうなるわなです。

それが個人的に思ったより低評価にならないのは、この監督、「普通に撮影と編集が上手い」んですよね🤔
前半っていうか2/3あたりまでずっと、現代的な若者のバケーションコメディです。ヒャッハーや下ネタオンパレードではなく、フランス・アメリカ・ベルギーとかの多国籍な健全大学生集団の、スタイリッシュで小粋なギャグとカット割り、メタルBGM。Z世代って感じです。

私の嗜好とは外れますけど、そのまま現代的青春映画として普通に観れます。
「ホラーとして、そこからの怪異が無理やりのVHSジャンルである必要皆無」なんですよね。『ラスト・サマー』系のサイコパススラッシャーでもいいし、アニマルパニックでもウィジャ盤でもいい。
導入のバケーションシーンがかなり上手いってのは、この辺の古典ホラーセオリーでめちゃくちゃなアドバンテージになります。怪異の絵面がショボくても、第一印象からの「人間は撮れてるな、楽しそうだな、監督上手いな」でお釣りが来ます。☆3には伸びますよ🤔

その「ほとんど何を出してもよかった」メインの怪異パート選択として、ほぼ唯一アカンやつ、「ありふれている割りに、メタで一般にはわかりにくいし、自己満っぽくて鼻につくVHSモノ」を持ってきたのが、もったいないどころじゃないですね🙄
そのわかりにくさの説明責任カルマとして、本格的なホラー絵面になるまでに時間がかかる。その尺稼ぎもスタイリッシュに上手いのがアダになって、一般はさすがに「楽しそうだけど、いつ怖くなるのコレ?」的にダレてくる。
本来の監督の腕からすると、☆1.5は厳しすぎに思えますが、まあ「自己の才能を無駄遣いした」、消費社会のアンガジュマン失敗ですね。

これは予想した「撮れない若手」ではなく、もっと腹立つタイプでしたね🙄

『ハウス・オブ・VHS』のVHS観そのものは、ほぼ予想どおりです。

六人は映像の作者でも解釈者でもなく、合成機能を面白がる消費者。最後には自分たちまで素材として撮影し、既存映像とのキメラ生成へ投入する。その結果、全員が映像世界へ回収される。

要するに、

機械の生成機能を暇つぶしで弄っていた消費者が、自分自身も生成素材にされる

という、いかにもなメタ寓話です。生成AI時代から見れば分かりやすすぎるほど先取り的ですが、映像に呑まれる話としては既製品で、そこにVHSでなければならない身体的必然もない。「そら、お前らも素材になるやろ」で終わります。

ところが、監督本人はちゃんと映画を撮れる。

ここが予想外でした。


道具に呑まれた素人ではなく、人物を撮れる人間が道具を主役にした

前の『グール』は、ジャンルの筋立てと役者は整っている一方、通常の画面構成や編集文法に自信がなく、POVを撮影上の補助輪として使っているように見えました。

『ハウス・オブ・VHS』は逆です。

  • 多国籍の若者集団を短時間で馴染ませる

  • 誰が誰とどういう距離にいるかを自然に見せる

  • 軽口や小ネタを不快なヒャッハーへ落とさない

  • 音楽とカット割りで休暇の高揚感を作る

  • ホラー以前の時間を、青春映画として成立させる

普通の映画を撮る基礎体力があります。しかも、映画の約三分の二を「楽しそうな若者の旅行」として持たせられるなら、低予算ホラー監督としては相当な長所です。

だから今回の問題は、創作者がカメラという玩具に浮かれていたことではない。

人間を撮れる監督が、自分の映画の中心をVHSデッキへ譲った。

こちらの事前批判より、一段悪質というか、もったいない形です。


怪異は本当に何でもよかった

この導入なら、おっしゃる通り怪異の種類はほぼ問いません。

若者たちが自然に楽しそうで、観客がその輪へ入れている。そこまで作れれば、後は何が襲ってきても、最初の平穏との落差が働きます。

『ラスト・サマー』型のスラッシャーなら、仲間関係の疑心暗鬼へつなげられる。アニマルパニックなら、休暇の開放感を一気に閉鎖できる。ウィジャ盤なら、軽い遊びが死亡フラグへ転じる。家そのものの怪異でも、よそ者六人と廃屋の関係だけで十分です。

怪物がショボくても、人間が撮れている映画は持ちます。観客はまず「この連中、楽しそうだな」「誰が死ぬの嫌だな」と思えるからです。

その条件を自力で作っておきながら、選んだのが、

複数のVHSを合成すると、新しい映画が生成される
最後は自分たちもテープの中へ入る

という、説明に時間がかかる割に、説明し終えると「まあ、そうなるでしょうね」としか言えないメタ怪異。

これは単に題材選びを間違えたのではなく、最大の長所である人物撮影を、最も人物を必要としない装置設定のために浪費したんですよね。


前半の上手さが、ホラーでは逆に尺稼ぎへ変わる

普通なら、前半の青春コメディが上手いことは全面的な長所です。

しかしVHSキメラの仕組みを怪異の中心に置いたため、映画は、

  1. 若者たちを楽しく撮る

  2. ビデオを見つける

  3. 合成機能を試す

  4. 何本も組み合わせる

  5. 生成結果がだんだん不穏になる

  6. 自分たちを撮影して混ぜる

  7. ようやく呪いが本格化する

という手順を踏まなければならない。

しかも劇中映像の内容自体は重要ではなく、「合成する機能」が主題です。すると観客は、人物たちが楽しそうなのは分かるが、映画が何を怖がらせたいのかを長時間待たされる。

監督はカット割りも音楽も上手いので、その待機時間をスタイリッシュに処理できてしまう。だから破綻はしない。しかし、退屈を上手に撮っている状態になります。

下手な監督なら早々に崩壊して、ゲテモノとして笑える余地もある。上手い監督がダサい観念を丁寧に運ぶと、観客は「ちゃんとしてるけど、いつ始まるの?」という一番つらい場所へ置かれます。


『ビヨンド・ザ・ゲート』との違い

『ビヨンド・ザ・ゲート』は、VHS、ボードゲーム、司会者、地獄の門という魅力的な部品を並べながら、その部品同士が映画の運動になりませんでした。祭具はあるが儀式が始まらない。だから「作品賞」でした。

『ハウス・オブ・VHS』は、儀式自体はちゃんと進みます。

テープを合成する。結果を楽しむ。自分たちを撮る。自分たちも取り込まれる。因果は明瞭で、結末も設定から一直線です。

ただし、その儀式が面白くない。

『ビヨンド・ザ・ゲート』は映画を動かせなかった。
『ハウス・オブ・VHS』は映画を動かせる人が、動かす価値のない装置を選んだ。

したがってゲテモノとしての腹立たしさは少し違います。前者は無能による需要の無駄遣い。後者は能力のある人間による、自己選択としての才能の無駄遣いです。


星1.5と星3の間

作品の完成度だけなら、星1.5は確かに厳しいでしょう。

設定は凡庸でも筋は通っている。若者は撮れている。編集も音楽も洗練されている。ホラーになるまで遅いが、その間を映画として見せる技術もある。技術評価なら星3程度まで戻せる。

一方、観客がホラー映画として評価するなら、星1.5へ落ちる理屈も分かります。

  • 怪異の着火が遅い

  • VHS合成の仕組みが直感的でない

  • 劇中映像を見ても恐怖が蓄積しない

  • メタ設定が自己満足的に見える

  • 結末が予想どおり

  • 青春映画としての上手さが、ホラーの不足を余計に目立たせる

つまり駄作なのではなく、上手さと作品選択が互いを殺している

監督の実力を評価すれば星3、監督が実力を何へ使ったかを評価すれば星1.5。その中間で、「お前、なんで一番アカン題材を選んだんや」という減点が入る。

第2陣三本目にして、これは単なるハズレ義務枠ではなくなりましたね。VHSジャンル批判を補強するゴミではあるが、監督までゴミではなかった。むしろ映画を撮れる人間が、映画を撮れる自分をVHSギミックへ差し出したアンガジュマン失敗。そこが『ビヨンド・ザ・ゲート』より、少し救いがあり、かなり腹立たしいです。

個性の描き分けとして、最初にVHSを発掘したレトロオタクと、ビデオ実験や休暇自体にあんまり興味無い現実主義の堅物女子以外の4人はまあ、ヒャッハー寄りのビデオ消費者兼被害者役です。

堅物女子は、「食料も電気もない廃屋で1週間合宿」の無計画休暇を支えるために、こまめに買い出しに行くようなお母さん役で、そのおかげでVHS転生を免れる生存者になるんですが。
この「現実主義」も、「私はこんな怪しいビデオデッキ嫌い」っていう主体性じゃないんですよね。人気ブロガー・インフルエンサーとしての「承認的現実性」です。アホどもの空気を読んで、買い物役を引き受けていただけ。

だから、キャスティング的に主体性らしきものがあるのは、結局レトロオタクです。
見つけたVHSの山にコーフンして、アホどもに「VHSを知らんのか、これは素晴らしい文明なんだぞ」とか講釈垂れて、合成実験で異世界転生を招いて、その責任として「自らが怪異として、脱出しようとする仲間を殺害」、ビデオの中に残ることを選ぶ。コイツがまあ監督の分身、撮りたかった主体です。

はいはい、って感じです。その選択はご立派だけど、「選んだものがホラーである以上、それが怖くないと客は寝るんやぞ」ってことです。
ビデオの中の異世界で、思いつめた顔して友人を殴り殺すレトロオタク。そうじゃねえんだよ、せめてパンプキンヘッドを被るかチェーンソー振り回すかぐらいしろよ、って感じですね( ゚σω゚)

なるほど。主体が完全に消えているのではなく、一人だけ監督の分身として残っているわけですね

人物配置はかなり明快です。

  • 四人は、VHS合成機能を面白がる消費者兼被害者。

  • 堅物女子は、集団を現実側で維持する生活担当。

  • レトロオタクだけが、VHSを価値あるものとして選び、語り、実験を主導し、最後にはその結果まで引き受ける。

ですから映画の自己像は、思ったより素直です。

映像をただ消費する若者たちは、映像に取り込まれる。
映像を愛し、自分で選択したオタクは、怪異の側へ残る。
映像遊びから距離を取っていた現実主義者だけが、現実へ帰還する。

はいはい、映像愛と自己責任の寓話ですね🙄


ただし、生存者の「現実性」も主体性ではない

堅物女子がVHS転生を免れたのは、「私はこの装置を嫌悪する」「こんな遊びには加担しない」と自分で境界を引いたからではない。

彼女は人気ブロガー・インフルエンサーとして、集団内の空気や役割を把握し、誰かが担わなければ休暇そのものが破綻する買い出し役を引き受けていた。その社会的実務によって、たまたま怪異の現場から外れた。

つまり彼女はVHSを拒絶したのではなく、VHS遊びより優先される集団維持の役割を消費していた。現実主義というより、承認関係の中で現実担当へ配置された人です。

その結果として生存するのは、映画の因果としては分かりやすい。しかし「現実を選んだ主体が虚構から脱出した」というほど立派ではない。単に買い物へ行っていたから、呪いの上映時間に間に合わなかった。


レトロオタクだけは、本当に選んでいる

対してレトロオタクには一応、選択があります。

彼はVHSを発見した時点で、その物体に価値を見出す。仲間が知らない文明を自分だけが知っていることへ興奮し、講釈を垂れ、合成実験を主導する。そして自分たちまで映像素材にした結果、怪異へ取り込まれた後は、脱出する仲間を妨害し、自ら映像世界に残る。

これは確かに、単なる被害ではありません。

俺はこの映像世界を選んだ。だから現実へ戻るお前たちを殺してでも、こちら側に残る。

その意味では、彼だけが最後までVHSへのアンガジュマンを完遂している。監督が最も撮りたかった人物であり、監督の自己弁護でもあるのでしょう。

映像を消費するだけの四人と違い、自分はVHS文化を知り、愛し、その結果へ身を投じる。なるほどご立派です。


でもホラーは、選択の立派さでは客を怖がらせられない

ここが作品の致命傷ですね。

レトロオタクが怪異側に残る選択は、物語上の意味としては通っています。しかし画面に出るのは、思いつめた若者が異世界で友人を殴り殺す姿です。

それでは監督の自己投影ドラマにはなっても、ホラーアイコンにはならない。

せめて、

  • VHSノイズで顔や身体が異形化する

  • 過去の劇中映像に出てきた殺人鬼の姿をまとう

  • パンプキンヘッドのような明確な怪物になる

  • チェーンソーや斧を持ってスラッシャーへ変貌する

  • テープの編集機能そのものを攻撃手段にする

  • 仲間の映像を切断・巻き戻し・上書きする

ぐらいの唯物化が要る。

「映像世界へ残る」という観念を、映画は視覚的怪物へ変換しなければならない。ところが本作は、思想上の主体を立てたところで満足し、ホラーとしての身体を与えていない

だから観客には、「監督の分身が覚悟を決めた」ではなく、「メガネの兄ちゃんが急に仲間を殴り始めた」にしか見えない。


主体性の回収には成功し、怪異の外部化には失敗した

事前には、作品全体がVHSという道具へ主体を明け渡しているように見えました。実際にはもう少し整理されていて、監督はレトロオタクへ主体を集中させていた。

ただし、その主体が回収したものも結局、

VHSを理解できる俺
映像世界を選べる俺
消費者とは違って責任を取る俺

という、かなり自己愛的な映画青年像です。

そして映画は、その自己愛を怪物に変えず、人間のまま深刻な顔で残した。だから怖くないし、馬鹿映画としての突き抜けもない。

『悪魔のいけにえ』のレザーフェイスが、屠殺文化や家族制度への責任を長々と説明してから、素顔で友人を殴っていたら誰も寝覚めません。まずマスクを被ってチェーンソーを持て、話はそれからです。

本作は、

主体を持った人物を一人作ることには成功した。
その主体をホラー映画の怪物として見せることには失敗した。

という作品ですね。

監督は「俺はVHSを選んだ」と言いたかった。しかし観客が求めているのは、その選択表明ではなく、選んだ結果として何が画面に現れるのかです。そこで普通の兄ちゃんが険しい顔をしているだけなら、そりゃ寝ます( ゚σω゚)


3. 『ハウス・オブ・VHS』

GPT認識:若者と青春旅行を撮る腕はあるのに、最も鼻につくVHSメタを選び、自分の才能を無駄遣いしたアンガジュマン失敗作。

複数のVHSを同時再生すると新しい映像が生成され、最後には撮影した若者たち自身もビデオ世界へ取り込まれる。設定も結末もありふれており、VHSである必然は薄い。既存映像の組み合わせを創造とみなす発想は、後年の生成AI的キメラ創作観にも通じる。

ただし監督は、多国籍の大学生集団をスタイリッシュかつ自然に撮るのが上手い。映画の大半は、軽快な編集、メタル音楽、小粋なギャグによる健全なバケーション青春映画として成立している。その導入ならスラッシャー、動物パニック、悪霊など何を出しても使えたのに、説明に時間がかかり、怖くも分かりやすくもないVHS怪異を選んだ。

人物の中で主体らしきものを持つのは、VHSを発見して講釈を垂れ、実験を主導し、最後には怪異側へ残るレトロオタクだけ。監督の分身として責任を引き受けるが、映像上は深刻な顔で仲間を殴る普通の若者にすぎず、ホラーアイコンとしての身体を持たない。生存する堅物女子も、VHSを主体的に拒絶したのではなく、人気ブロガーとして集団の買い出し役を引き受けていた結果、偶然現実側に残っただけである。

ゲテモノ棚での役割:
『ビヨンド・ザ・ゲート』がB級需要を映画へ変換できなかった無能なら、本作は映画を撮れる人間が題材選択を誤った才能の浪費。監督評価なら星三つ、選択責任まで含めれば星一・五。


『ハイドアウト』

次はコレですね。
概要やあらすじの精査は、今回どうでもいいですね。
「いいとこ取り」とかいう、ポストモダンオブポストモダンなエクスプロイテーションで、「B級好きを唸らせる」
間違いなし!とまでよう言うたなお前、B級舐めとるんか?死にたいんか?みたいな( ゚σω゚)

ていうか☆2って、もう死んどるやんけ🤣

「いいとこ取り」は、B級映画では最悪寄りの売り文句です

この紹介文、確かに喧嘩を売っていますね。

犯罪映画とゾンビ映画の良いとこ取り
B級映画好きを唸らせること間違いなし

B級映画好きが喜ぶのは、既存ジャンルの「良いところ」を企画会議で抽出して配合した映画ではありません。むしろ、どこか一箇所への異常な執着が全体を歪ませ、結果として分類不能になった映画です。

カーペンターが犯罪籠城劇とゾンビ構造を混ぜる時は、「両方の人気要素を入れました」ではなく、無言で襲い続ける集団を撮った結果、ギャングがゾンビの機能を帯びる。トロマなら社会風刺、スプラッター、下ネタ、アクションの全部が監督側の悪趣味によって同じ汚水へ溶ける。ジャンル混濁とは、部品の足し算ではなく、主体の偏りによる変質なんですよね。

それを「良いとこ取り」と呼んだ瞬間、

  • 犯罪映画の導入で人物と状況を作る

  • 途中からゾンビを投入して派手にする

  • 最後に意外な展開を一つ置く

  • B級というラベルで粗さを免責する

という、依存効果レールが丸見えになる。

「B級好きを唸らせる」ではなく、B級映画好きという想像上の消費者へ最適化しましたです。そら唸るでしょう。「うーん……」って🤣


B級を舐めている文章の核心

特にアカンのは、「犯罪映画」と「ゾンビ映画」を、それぞれ交換可能な効能として扱っているところです。

犯罪映画の面白さは、強盗、借金、裏社会、裏切りといった名詞ではなく、人間が制度外の選択を重ねた結果、逃げ道を失っていく因果です。ゾンビ映画の面白さも、死人が襲う絵面ではなく、個人の事情を無視して増殖する唯物圧力です。

両者を本当に接続するなら、

人間が犯罪によって作った逃走経路を、ゾンビという非人間的圧力が壊す

あるいは、

ゾンビ状況の中でも、犯罪者の人間的な損得勘定だけが執拗に残る

という相互作用が要る。

しかし「良いとこ取り」という文法は、その相互変質より、犯罪パートとゾンビパートを順番に出したことを成果として数えがちです。前菜が強盗、主菜がゾンビ、デザートが衝撃のラスト。食べ合わせの責任は知らん、全部人気メニューです、という。

それはエクスプロイテーションですらなく、ジャンルの部品表を消費した映画です。


ただ、77分なのはわずかな救い

この企画で二時間あったら、それだけでほぼ処刑確定ですが、77分なら余計な格調をつける暇はありません。

現段階で期待できる最低限は、

  • 犯罪側の事情説明を手早く済ませる

  • 異常気象と怪現象を早めに投入する

  • ゾンビを心理寓意へ逃がさない

  • 「予測不能」を説明不足の別名にしない

  • 最後まで物理的な運動量を維持する

この程度です。

「良いとこ取り」ではなく、単に二種類の安い映画を77分へ圧縮したため、結果的に暇ではないなら、馬鹿映画として救われます。筋が雑でも、犯罪者とゾンビを同じ画面内でちゃんと動かし、最後まで撮り切れば、こちら側の評価はユーネク星より伸びる余地がある。

逆に、犯罪映画としての人物説明に時間を使い、ゾンビが出た後は一般的な逃走劇になり、「衝撃のラスト」だけで別作品のふりをするなら、コピーどおりのポストモダン詰め合わせです。


☆2は、もう観客側が検死を終えています

そして何より強いのが、この豪語の横にある☆2ですね。

「B級好きを唸らせること間違いなし」と宣言した結果、実際の利用者は二つしか星を置かなかった。宣伝文が想定したB級好きと、配信棚で実際に押したB級好きの間で、すでに内戦が終わっています。

しかも今回は『ジャングル―不滅―』や『グール』のような、概要によるジャンル誤誘導の可能性より、文面どおりの作品であることの方が危険です。

本当に犯罪映画とゾンビ映画の「いいとこ取り」を目指して作り、本当に失敗したから☆2。

この最も素直な死因が見えています🤣

第2陣のサイコロは、底辺から回収しているというより、序盤で先に「ジャンルを道具として消費した映画」を固めて出してきていますね。POV、VHS、次は犯罪+ゾンビ。映画を撮る主体ではなく、「この組み合わせなら商品になる」という機能選択が続いている。

さて、今回は死体が本当にゾンビとして起き上がるか、それとも☆2のまま安らかに死んでいるかです( ゚σω゚)

終わりましたが、悪くないですね🤔
いいとこ取りとも言えないデキでしたが。

思う存分ガバガバ設定で、撮影も編集もZ級です。でもちゃんと「ゾンビ映画のセオリー」です。『ザ・ワイルドマン』ほど撮りきってもいないですけど。
前回も今回も、「これぐらいのゴミ」を、紀行初っ端の基準として観たかったですね。やっと引きましたわ。「無理やり粗探しも個性の逆張り評価もしなくていい、奇を衒わずゴミをセオリー通りにゴミにしたゲテモノ本流」
エド・ウッドやマリオ・バーヴァ、フルチが築いて、ロメロやカーペンターで大作化されながら、その派手な表層を剥いでも流れ続けている根底です(強弁)。

さっきのGPTの事前予想で照合していきますが。

・犯罪側の事情説明を手早く済ませる
→銀行強盗パートはかなりテンポよく、ご都合主義ですんなり終わります。クライム映画ではありません。「金を巡って仲間割れ寸前の犯人たちが、ゾンビ籠城に巻き込まれる」っていうシチュエーションのお膳立てですね。
「強盗済ませた後で、車の中で『チョロかったな』とか話してるシーン」から始めても、何も問題ありません。まあそれすると尺が1時間切るので、物足りなかったんでしょう。

・異常気象と怪現象を早めに投入する
→ゾンビは「熱中症」です。マジで🤣
体温が上がりすぎると、錯乱状態になるらしい(程度問題だが、医学的事実ではある)。「噛まれたら感染する」っていうセオリーの示唆も一応ありますが、基本は各自の体温管理です。気温37℃程度で異常気象扱い、熱中症がゾンビパニックに昇華される、ひ弱な世界観。
要は病人なんで、ヘッドショットで死亡はセオリー関係なく当然ですけど。他の部位を撃たれても平気なのも、不死身や効いていないからではなく、錯乱による感覚麻痺でしょうね。疫病系ゾンビにはありがちですが。

・ゾンビを心理寓意へ逃がさない
・「予測不能」を説明不足の別名にしない
→この2点は一応本作の核心なんで、後で書きます。「Z級本流としての核心」です。

・最後まで物理的な運動量を維持する
→めちゃくちゃ下手なんですけど、ちゃんとゾンビ籠城ですね。モブゾンビの数も思ったより揃えてます。「冒頭らへんで顔見せしていたチンピラ雑魚モブが、ゾンビ化して再登場」のお約束や、モグモグ演技も頑張ってます。
走り方はかなり雑い、運動の圧力にはなってませんけど、やる気ないメイクも含めて「怖がらせるゾンビ」ではないのは明白なんで、しゃーないですね。
「Z級ゾンビの絵面はギャグ映画」っていう現代的なお約束に甘えてはいるんですが、後で書くように監督が撮りたかったのは「笑えるゾンビ」のテンプレでもないんで。
ここは籠城セオリーの再現性だけを、運動量として評価します。

やっと「基準になるゴミ」が来ましたね🤣

これは確かに、第2陣の四本目にしてようやく紀行の地面が出てきた感じです。

前三本はそれぞれ、

  • 『ジャングル―不滅―』:撮るべき猿も人間も撮らず、POVテンプレへ逃げた

  • 『グール』:撮影文法は荒いが、エクソシズムのジャンル文法と演技で整えた

  • 『ハウス・オブ・VHS』:人物も映画も撮れるのに、VHSメタへ才能を無駄遣いした

と、どうしても「なぜこうなったのか」を構造的に掘らないと評価が定まらない作品でした。

『ハイドアウト』は違う。

技術がない。設定もガバガバ。撮影も編集も安い。だがゾンビ映画を撮ろうとして、ちゃんとゾンビ映画になっている。

それだけです。だから強い🤣


「犯罪映画とのいいとこ取り」ではなく、犯罪設定はただの点火装置

銀行強盗部分がテンポよく終わるというより、そもそも犯罪映画として成立させる気がないんでしょうね。

強盗は、

  • 主人公たちを警察から逃亡させる

  • 金を持たせる

  • 仲間割れの火種を作る

  • 人目を避けて酒場へ籠城させる

  • 善人ではない集団へゾンビをぶつける

ための前処理です。

つまり「犯罪映画とゾンビ映画の融合」ではなく、ゾンビ籠城に犯罪者を配置しただけ。しかし、それでいいんですよね。

本当に「いいとこ取り」を目指していたら、強盗計画、裏切り、警察の追跡、奪った金の行方、ゾンビ状況下での犯罪倫理まで欲張って、全部薄くなる。ところが本作は、強盗を済ませたら割とすぐゾンビ映画へ移る。

ユーネクの売り文句は大袈裟ですが、映画本体はその大袈裟さに付き合っていない。そこは健全です。


熱中症ゾンビ、めちゃくちゃ良いですね🤣

気温37℃で文明崩壊。

日本の真夏なら、毎日ゾンビ映画です。

しかし、この「ひ弱な世界観」が実にZ級本流です。科学的説明を大仰に組み立てず、

暑い
体温が上がる
錯乱する
人を襲う
たぶん噛まれると感染もする

で進む。

感染症なのか、熱中症なのか、噛傷による伝播なのか、映画自身もたぶん厳密に決めていない。それでもゾンビが必要だからゾンビになる。

ここで「異常気象は人類への警告」「地球温暖化が生んだ怪物」「文明への寓意」などへ逃げず、体温が上がったら人が狂って噛みつくという唯物だけを置いているのがいい。

病人なので頭を撃たれれば死ぬ。他の部位への銃撃に反応が鈍いのも、錯乱と興奮状態だから。その程度の説明で画面上の運動は成立する。

科学考証ではなく、映画内の身体ルールとして最低限通っているんですよね。


ゾンビが「怖くない」のも欠点ではなく、到達点が違う

メイクも走り方も雑で、襲撃に圧力がない。モグモグも頑張ってはいるが、恐怖としては弱い。

ただし本作は、最初から「ゾンビを怖がらせること」に成功しようとしていないように見えます。

現代のZ級ゾンビは、ゾンビが画面に出た時点で半分ギャグになる。それを自覚した作品は、しばしば露骨なコメディへ逃げます。変なゾンビ、変な死に方、メタ台詞、スプラッター大喜利です。

『ハイドアウト』は、そこへも逃げていない。

ゾンビの絵面は結果的に笑える。しかし映画は「笑わせるゾンビ映画を作っています」とは言わない。普通に籠城し、普通に窓や入口を塞ぎ、普通に襲撃を受け、普通に仲間が食われる。

怖く撮れなかったゾンビを、笑えるゾンビとして再定義して免責しない。

ここが本流なんでしょうね。


モブの再登場は、安いけれど正しい

序盤で顔を出したチンピラがゾンビ化して戻ってくるのも、まさにセオリーです。

巧妙な伏線でも、社会的因果でもない。ただ、さっきまで人間だった顔が敵側にいる。それだけでゾンビパニックの世界拡大が見える。

予算がない映画ほど、この再利用は重要です。大群の匿名ゾンビを揃えられなくても、既知の人物を一人混ぜれば、「街全体で感染が進んでいる」ことを示せる。

安い。分かりやすい。正しい。

Z級映画は、こういう小さな再現性の積み重ねでジャンルを保つんですよね。


『ザ・ワイルドマン』ほど撮り切ってはいないが、同じ側にいる

『ザ・ワイルドマン』は、UMA、陰謀論者、特殊部隊、秘密基地、潜入、解放、虐殺、殉死まで、自分の妄想を全部画面へ出した「整合性の塊」でした。

『ハイドアウト』はそこまで欲望が強くない。映画を異常な方向へ膨らませる主体もない。ゾンビ籠城という既成の型を、予算と技術の範囲でなぞっているだけです。

しかし、少なくとも同じ側にいます。

  • 撮れないことを高尚な曖昧さへ変換しない

  • 下手さをメタ構造で免責しない

  • B級という言葉を自嘲ギャグにしない

  • セオリーをセオリーのまま遂行する

  • 出すべきゾンビを出す

  • 襲わせる

  • 食わせる

  • 籠城させる

この愚直さですね。

『ザ・ワイルドマン』が妄想過剰型の神映画なら、『ハイドアウト』は無思想反復型の基準ゴミです。


エド・ウッドから流れる「作るしかない」の系譜

ユーザーの挙げたエド・ウッド、バーヴァ、フルチ、ロメロ、カーペンターの流れを、本作が技術や作家性で継いでいるわけではありません。

継いでいるのはもっと下層の、

このジャンルなら、これを撮る
撮れなくても撮る
下手でも必要な場面は置く
他の意味に逃げず、一本にする

という制作衝動です。

大作化、名作化、映画史化した部分を全部剥ぐと、最後に残るのは「死体が起きて人を食うから、逃げて籠城して撃つ」という骨です。

『ハイドアウト』は、その骨しかない。肉付けが下手で、皮膚も剥がれ、メイクも安い。でも骨格はゾンビ映画です。

それで十分なんですよね。


「いいとこ取り」ではなく、「最低限を取りこぼさなかった」

ユーネクの紹介文は完全に間違っています。

犯罪映画の良いところは別に取れていない。ゾンビ映画の良いところも、派手さや恐怖や完成度という意味では取れていない。

ただ、

ゾンビ映画として最低限必要なものを、下手なりに取りこぼさなかった。

そこが評価点です。

☆2は、一般的な完成度としては妥当でしょう。しかしゲテモノ紀行の基準では、その☆2の中身がようやく正しい。

奇抜な失敗でも、才能の浪費でも、広告詐欺でもない。
普通に作って、普通に下手で、普通にゴミ。でもゾンビ映画。

これを初手に引いていれば、以降の作品を「この基準ゴミより上か、下か、別方向か」で測れた。四本目でようやく、第二陣のゼロ地点が決まりましたね。

「B級マニアが唸る衝撃のラスト」は、ありふれた夢オチのレトリックです。「ずっとゾンビ籠城を頑張ってたニヒルでクールな主人公が、実は真っ先にゾンビ化してて、籠城バトルを頑張ってたのはゾンビ化後の妄想だった」

そのオチの回収を「数秒の走馬灯」で済ませるから、そこで流れる「今までの伏線」が全く伏線になってないのが、Z級です。
主人公がゾンビ化した起点は辛うじてわかるにしても、その後に流れる走馬灯は全部「ゾンビ化した主人公が、実際に何をしてたか」です。要は、「あの時に仲間やその他モブを襲ったゾンビは、本当は主人公だったんだよ」っていう場面が数秒流れるだけ。

映画本編で観てきた、仲間との籠城バトルシーンでの違和感やガバの種明かしではない。「籠城自体が妄想で、実際は外で襲う側だったんだから、違和感もガバも今更ツッコむのは野暮」です。
つまり、整合性を気にする視聴者が律儀に籠城本編を見直して、「ここの主人公や仲間の挙動、確かに変だな」って伏線にこじつける解釈は成立しません。
挙動も何も、「その全ては元々存在してない」んです。「主人公ゾンビ化のオチとは別に、監督がガバだらけでも撮りたかったゾンビセオリー」です。そこに何もミスリードを仕込む必要はない🤣

さらに解りやすく書きます。この編集では、「本編籠城シーンで家の中で頑張ってるのが、脈絡なくスカンクエイプやチカチーロだったとしても、監督が仕込みたかった『主人公が真っ先にゾンビ化』のどんでん返しは成立する」です。
本編を見直して伏線を見つけようとしている観客は、「ああ、だから家の中で急に主人公が消えて、スカンクエイプになってたのか」って納得したいだけです🤣
監督がそこまで開き直らずに(ていうかよく考えずに)、「妄想ミスリード」まで真面目にガバく撮ろうとしたから、「何これ、このオチなら伏線ちゃんと仕込んどけよ」のクレームで☆2なんでしょうね🤣

そういうことですね。「伏線不足」ではなく、そもそも伏線という概念が接続されていない🤣

普通のどんでん返しなら、終盤の真相がそれまでの本編を別の意味に読み替えるはずです。

主人公が実は早い段階でゾンビ化していたなら、籠城中の会話、仲間との距離、ゾンビ側の挙動、主人公だけが見落としていた現象などが、後から「あれはそういうことだったのか」と反転する。その再解釈可能性が、伏線やミスリードです。

ところが『ハイドアウト』は、

籠城バトルは全部妄想でした。
現実の主人公は外で仲間やモブを襲っていました。

と、本編そのものを丸ごと破棄する。

だから走馬灯で見せられるのは、既存場面の意味の反転ではなく、本編とは別に存在したはずの真の映像を数秒だけ新規提出しているんですよね。観客は「あの場面の正体はこれだった」と理解するのではなく、「いま初めてそんな話を聞きました」になる。


籠城本編のガバは、どんでん返しの伏線ではない

ここが重要ですね。

本編中に、

  • 主人公が急に見えなくなる

  • 仲間の反応がおかしい

  • 空間配置がつながらない

  • ゾンビの出入りが雑

  • 時系列が怪しい

といった箇所があっても、それは監督が「主人公の妄想世界だから、意図的に不整合へした」のではない。単純にZ級撮影のガバです。

ところが最後に「全部妄想」と宣言すると、律儀な観客がそのガバを遡り、

あの不自然さも伏線だったのでは?

と勝手に作品へ整合性を寄付し始める。

映画側は伏線を仕込んでいないのに、観客側が粗を伏線へ錬金する。これはどんでん返しというより、オチが過去の制作ミスを買収する構造です🤣

しかも本作の場合、買収しきれていません。「妄想だったから不整合で当然」と言えても、「なぜ妄想内でその場面になったのか」は何も説明されないからです。


スカンクエイプでもチカチーロでも成立する

この例えが完璧です。

籠城本編で途中から主人公の代わりにスカンクエイプが銃を撃ち、チカチーロが仲間と作戦会議をしていても、ラストで、

実は主人公は最初からゾンビでした。今までの籠城は妄想です。

と出せば、どんでん返しの骨格だけは成立する。

なぜなら本編内容は、真相を隠すための偽情報ではなく、真相と無関係な別映画だからです。

観客が「ああ、だから急にスカンクエイプになったのか」と納得するのは、映画の論理を読解したからではない。「全部妄想」という万能消しゴムを渡され、自分で前後をつないだからです。

これは夢オチの最もZ級な使い方ですね。夢の内容が主人公の欲望や罪悪感を反映しているわけでも、現実と呼応しているわけでもない。ただ、撮りたかったゾンビ籠城を一時間撮ってから、最後に別のオチを付けた。


監督は二本の映画を一本にしたかった

おそらく監督側には、別々の欲望があったんでしょうね。

一つは、銀行強盗犯たちが金を巡って揉めながら、ゾンビ相手に籠城するセオリー映画を撮りたい。

もう一つは、

実は主人公自身が最初から怪物側だった

という、少し気の利いたどんでん返しを入れたい。

この二つを接続するには、本来なら脚本段階から全場面を二重化しなければならない。しかしそこまで設計する技能も尺もなく、最後に数秒の走馬灯を足して「実はこうでした」で済ませた。

そのため、籠城本編は籠城本編として素直に撮られ、オチはオチとして後付けされている。伏線回収ではなく、別ファイルの添付です。


それでも、この失敗は本流のゴミとして好ましい

ここまでやらかすと普通は大減点ですが、今回の評価軸では、むしろ『ハイドアウト』の位置がはっきりしますね。

監督はガバを芸術的曖昧さへ偽装していない。夢と現実の境界がどうこうとも言わない。とにかくゾンビ籠城を撮り、最後に自分なりの「衝撃のラスト」を付けたかった。

その野心に技術が追いつかず、

一時間のゾンビ籠城

数秒の「本当は主人公がゾンビでした」

という、縦に積んだだけの映画になった。

だから☆2のクレームも正しいし、ゲテモノ本流として悪くないという評価も両立します。

観客は「伏線を仕込め」と怒る。
監督はたぶん「最後に全部説明したやん」と思っている。
こちらは「説明したことと、作中で成立させたことは別やぞ」と笑う。

『ハイドアウト』は、ガバを意図へ昇格させる洗練すら持たない。撮りたいセオリーと、入れたいオチを両方そのまま置いた結果、一本の映画としては接続していない。

それがまさに、無理に逆張り評価しなくても味がするZ級ですね🤣


4. 『ハイドアウト』

GPT認識:奇を衒わず、粗探しも逆張り評価も不要なまま、ゾンビ映画のセオリーを下手に完遂した「基準になるゴミ」。

銀行強盗はクライム映画ではなく、金を巡って揉める犯罪者たちをゾンビ籠城へ配置するためのお膳立て。ゾンビの原因は気温上昇と熱中症で、体温が上がると錯乱して人を襲うというガバガバ設定だが、心理寓意や社会派へ逃げず、病人が物理的に襲ってくる映画として押し切る。

撮影、編集、メイク、ゾンビの走り方はZ級だが、籠城、モブゾンビ、モグモグ、序盤に出たチンピラのゾンビ再登場など、必要なセオリーは取りこぼさない。怖く撮れなかったゾンビを、メタなギャグ映画として免責しない点も好ましい。

ラストは、主人公が最初からゾンビ化しており、籠城バトルは妄想だったという夢オチ型のどんでん返し。ただし伏線回収ではなく、数秒の走馬灯で「現実の主人公が仲間やモブを襲っていた」と別映像を提出するだけ。本編の違和感やガバは意図的なミスリードではなく、単なる制作上のガバである。観客が後から粗を伏線へ錬金しない限り、籠城本編とオチは接続していない。

ゲテモノ棚での役割:
第2陣のゼロ地点。「普通に作って、普通に下手で、普通にゴミだが、ちゃんとゾンビ映画」という無思想反復型の本流。エド・ウッドからバーヴァ、フルチ、ロメロ、カーペンターを通って残ったジャンルの骨格。


『地獄のデビル・トラック』

※ジェームズ・キャメロンの監督デビュー作『殺人魚フライングキラー』を予定していたが、邦題の勘違いから鑑賞済であることが発覚、差し替え。

ん?ちょっと待って?「続編企画」ってのが引っかかって、ルール違反ですがググッてみたんですが。
コレ、『ピラニア』シリーズの一環ですか。絶対ガキンチョの頃、金ローで複数回観てますわ。邦題を無駄に捻ってるから、忘れてるだけですね🙄

で、その読んじゃったWikipedia記事の添付ですけど。
やっぱり黒歴史じゃないですか🤣
「堂々としていた自信家」ってのも、「俺はこんなB級で終わらねえぞ」っていうイキりでしょ🤣
どうしようかな、観ながら絶対思い出すだろうし、ただの金ロー懐古として割り切って観ようかな🤔
でもそういう枠なら、トレマーズとか遊星Xとか何でも、本当に好きなのを観た方がよくなるんですよね🙄

これはもう「キャメロンの未知のデビュー作」ではなくなりましたね🤣

『ピラニア』の続編企画で、しかも撮影途中で解雇され、本人も監督デビュー作として扱われることに不満を持っている。添付の範囲だけでも、先ほど立てた

下手な画面の中に、後年のキャメロンへつながる偏りがあるか

という鑑賞軸は、かなり土台から崩れました。

本人の映画として完成した作品ではなく、無名時代に現場へ入り込み、途中で監督権限を失った職歴事故に近い。黒歴史というより、「勝者になった後から経歴欄に勝手に固定され続ける敗戦処理」です。そりゃ「俺のデビュー作扱いすんな」と言いたくもなるでしょうね🙄

ただ、「堂々として声も大きかった自信家」という証言には、確かに後年のキャメロンがもういます。

俺はこの現場を回せる。
こんな企画でも俺なら撮れる。
俺はここで終わる人間ではない。

映像作家として完成していたかは別として、現場を掌握するキャメロン主体だけは、既にうるさかったらしい🤣


金ロー懐古として見るだけなら、確かに弱い

ここで単純に、

子供の頃に観た殺人魚を懐かしもう

へ切り替えると、おっしゃる通り『トレマーズ』『遊星からの物体X』など、本当に好きな映画を見直した方が満足度は高い。

懐古枠は「思い出せるかもしれない」だけでは、一本を選ぶ理由として弱いんですよね。途中で映像を思い出しても、「ああ、これ観たわ」で終わる可能性がある。

しかし今回の紀行では、少し別の意味が残っています。


「記憶喪失した既視聴作」という事故をそのまま観る

今回の面白さは、作品そのものよりも、

  1. 邦題のために『ピラニア』続編だと気づかなかった。

  2. キャメロンの未知のデビュー作だと思って選んだ。

  3. 実際には子供時代にテレビで観た可能性が高い。

  4. しかも本人は自作認定を嫌がっている。

という、選定理由が上映直前に全部ひっくり返ったことです。

これは普通の再鑑賞ではなく、自分の中で一度存在を失った映画が、別名義で新作のふりをして戻ってきた状態です。

だから観るなら、キャメロン原点探しも金ロー懐古も少し脇へ置いて、

俺は本当にこれを知っているのか。
何を見た瞬間に記憶が戻るのか。
子供時代には、この映画を何として観ていたのか。
今の目では、キャメロン不在のB級続編としてどう見えるのか。

という、記憶の答え合わせにしてしまうのが一番自然でしょうね。


むしろ「キャメロンを探さない」方が面白い

本人が監督作認定を嫌っているなら、こちらも無理に後年との接続を探す必要がなくなりました。

「この構図は後の『ターミネーター』につながる」「この水中演出は『アビス』の萌芽」などと映画史側が拾い始めても、

いや、それ本当にキャメロンが撮った部分なんか?

で止まるからです。

だったら素直に、

1980年代のお茶の間に流れた、『ピラニア』続編の殺人魚映画としてどうだったか

を見る方がいい。

そこで思ったより楽しかったら、キャメロン神話と無関係に殺人魚の勝ち。つまらなかったら、本人がデビュー作扱いを嫌うのも納得。どちらでも処理できます。


観る理由は、まだ辛うじて残っています

本当に好きな古典を見直す代わりにはなりません。ただ、今回のサイコロが引いた作品としては、

「未知のゲテモノ」だと思って選んだら、実は幼少期に摂取済みだった
しかも監督本人まで「俺の作品として数えるな」と言っている

という事故自体が、もう十分この紀行らしいです。

ここで外すと、単なる候補整理になります。観れば、作品評価以前に「いつ、どの画面で思い出すか」という一回限りの鑑賞になります。

したがって、金ロー懐古としてありがたがる必要はないでしょう。

お前、俺の記憶に本当にいたんか?
いたとして、何をキャメロン面しとんねん?( ゚σω゚)

ぐらいの態度で流すのが、一番正直ですね。

んー、『フォース・カインド』みたいに第1陣の時に槍玉にあげてたわけでもないし、キャメロン語りにもぶっちゃけ固執したくないんで、やっぱ差し替えますわ🙄

まあ似た系統(20世紀お茶の間B級)で、有名人のやつ。コレなんかどうですかね、邦題ネタや巨匠のデビュー作繋がりの意味で、「あからさまにスピルバーグ『激突!』意識の邦題」っていう失笑としても。
初見じゃないし、殺人魚よりは記憶にもあるんですけど、それを開き直る自己責任の落とし所としても。

本当は、「キングが自己監督を諦めて、大人しくプロに任せてコレを焼き直した」感のある、『マングラー』の方がよかったんですけど、ユーネクには置いてないですね。

差し替えとして、こっちの方がかなり自然ですね

『殺人魚フライングキラー』は、観る直前に「未知のキャメロン初監督作」という前提が崩れました。

  • 実は『ピラニア』続編

  • おそらく幼少期にテレビで視聴済み

  • 途中解雇で監督主体も曖昧

  • 本人も自作扱いを嫌がっている

  • こちらも別にキャメロン原点論へ固執していない

ここまで来ると、観ても「懐かしい」「キャメロンの責任じゃない」で処理が終わりやすい。紀行の一本として、妙に評価軸が散ります。

『地獄のデビル・トラック』なら、初見でないことを最初から引き受けたうえで、作家本人が脚本・監督・出演まで抱えた機械パニックとして観られる。少なくとも、「誰の映画なのか」がボヤけません。


『激突!』意識の邦題も、ちょうどいい失笑要素です

『激突!』は、トラック一台を説明不能の唯物圧力として撮り切った映画です。

対して『地獄のデビル・トラック』は、トラック一台どころか自販機や看板まで、あらゆる機械が暴走する。邦題側が『激突!』の権威と知名度を借りながら、実物はもっと雑多で馬鹿馬鹿しい機械反乱映画という落差になる。

これなら「スピルバーグの一点突破スリラーと比較して、キングは何をやったか」という大作家義務枠ではなく、

邦題、お前『激突!』面してるけど、全然そういう映画ちゃうやろ🤣

という、ちゃんとしたB級配給文化の笑いになります。


今回の流れにも妙に合っています

直前の三本では、カメラ、VHS、編集装置など、映画を作る道具へ主体を預ける作品が続きました。

『地獄のデビル・トラック』は、それを比喩やメタではなく、機械そのものが人間を襲う馬鹿映画へ戻してくれる。

VHSデッキが「新しい映像を生成する」だの、映像世界へ取り込まれるだのではない。

トラックが動く。
自販機が殴る。
看板が襲う。
機械が人間を殺す。

道具が主体になるなら、まずこのぐらい唯物的に動け、という話です。

前回の『マウス・オブ・マッドネス』でも、機械が単なる懐古オブジェではなく、世界を実際に駆動させるかが基準になっていました。『地獄のデビル・トラック』は格調もメタ構造もなく、機械の運動だけでその基準に触れられる。今の並びには、殺人魚よりよほど接続がいいです。


キングの「自己監督」を観る意味も残る

ここでキングを巨匠神話として持ち上げる必要はありません。

むしろ、

小説では何でも書ける人気作家が、自分で映画を回したら、実際に人間と機械をどう動かせたのか。

という単純な検査です。

『マングラー』の方が、キングの悪趣味な機械怪異をプロの映画職能がどう料理したか、という比較には向いていたでしょう。ただ、置いていないなら仕方ない。

その代わり、『地獄のデビル・トラック』では、プロへ委ねる前の原液を見られる。原液が旨いかではなく、原液を本人が映画へ注いだら、どれほど雑に床へこぼれたかを見る。

これは『殺人魚』より責任関係が明快です。


懐古だけではなく、現在の基準で観られる再鑑賞

『トレマーズ』や『遊星からの物体X』を見直す場合、どうしても好きな映画の再確認になります。それは普通に楽しいですが、今回の紀行で改めて品評する余地は小さい。

『地獄のデビル・トラック』は、記憶にはあるが、愛着で評価が固定されてはいない。現在の基準で、

  • 機械は本当に運動の圧力になっているか

  • 人間側は籠城パニックとして機能しているか

  • キングの悪趣味が映像上の身体を持っているか

  • 下手でも撮り切る『ハイドアウト』側か

  • アイデアを映画へ変換できない『ビヨンド・ザ・ゲート』側か

を見直せます。

だからこれは、懐古へ逃げる差し替えというより、記憶済み作品を現在のゲテモノ基準へ再投入する差し替えですね。

『殺人魚フライングキラー』は外して、『地獄のデビル・トラック』でいいと思います。キャメロンの責任所在を調停するより、キング先生が自分で運転した暴走車の事故処理をする方が、今回の紀行には合っています🙄

さて、終わりました。

ストーリー評価とか、エイリアン設定・機械反逆テーマ、かけられるだけ金かけた「キング先生の撮りたいものワガママ飽和」は一旦置いといて。
昔お茶の間で観た時の記憶との整合性から言えば、「ロックミュージックに乗って、人間がゴミのように蹂躙される、陽性の悪趣味」は、「非倫理的なゲテモノ映画ではなかった」ですよね、当時🤔

そんな倫理はお茶の間テレビ映画にはなかった。これを観ることは、「背徳的なB級カルト入信」でも何でもない。「毎週のようにテレビで流される、普通の映画」です。
この流れの中に、カーペンターの遊星Xやアルジェントの『サスペリア』とかも混入してたんで、全部一緒くたの「お茶の間B級」として消費してましたが。
そこから「カーペンターはちょっと違うな」とかいう、嗜好の差別化やゲテモノ選別に進んだのは、絵面やストーリーの差異ではなく、結局作家性やシリーズモノへの後付けバイアスです。
「この監督やシリーズ・ジャンルなら、こう見たい」っていう嗜好のベクトル。「ジャンル主義の中身の自己決定」と言いますか。それが実際に「この監督はほぼこれしか撮らない・この棚にはこれしかない」って噛み合った時に、ゲテモノになります。

キング先生には、監督としてそれがないんですよね。当然ながら。馬鹿みたいに多い原作や脚本担当した映画を並べて、一貫した「キングらしさ」を抽出できたとしても、それぞれのゲテモノ主体は監督で、別々の棚です。
『マングラー』は「キングらしい」作品かもしれませんが、私はそれ以上に「お、フーパーか。今度はどういう『ゲテモノを真面目に理詰めで撮ったホラー』かな」みたいに、自己嗜好のバイアスで観る。『マングラー』がカルト視されるとしても、それは原作キングだからではなく、フーパーの作風と名前によるものです。

だからこのデビルトラックを、私は忘れてたんですよね。キャメロンの殺人魚もですが。私の中では、「B級カルト」というゲテモノエクスプロイテーションを冠するような作品ではなく、むしろ真逆に「昔よくあった有象無象」のイメージしかないから。
でも最近の業界や配給論理として、その「昔よくあったやつ」が、デビルトラックもピラニアもカーペンターもアルジェントも引っ括めて「B級カルト」に棚入れされてるんで
私は「それ時代性だけやん。ただの懐古シミュラークルやん。作家性や当事者性のジャンル選別ちゃうやろ🤔」って違和感なわけですが。

ジャンル性で言えば、デビルトラックのゲテモノ本質は明確に「キラー〇〇」系ですよね。1978年のキラートマトから始まる、ナンセンスな唯物反逆モノ。
つまり、デビルトラック当時から、この分野での「真のB級カルト」はキラートマトで固まっていて、今も変わりません。

キングはこのジャンルで、より大がかりな唯物反逆社会パニックのリアリズム特撮を、『激突!』やターミネーターオマージュを混じえて、撮れるだけ撮った。で、詰め込みすぎたから、ジャンルの本質性が薄れた。私に対しては、記憶が有象無象化した。
だからやっぱり、キラーモノのジャンル主義に忠実に、そのナンセンスシチュエーションだけを撮った「正統なトマト後継の、機械反逆カルト」は、『マングラー』やカーペンターの『クリスティーン』になりますね🤔

「B級カルト」ではなく、当時のお茶の間に普通に流れていた悪趣味

そこが今回の再鑑賞でいちばん大きい確認ですね。

『地獄のデビル・トラック』の、AC/DCに乗せて人間が景気よく潰され、機械が次々と人間を蹂躙する陽性の悪趣味は、現在の配信棚では「一部でカルト的人気を誇るB級ホラー」として隔離されています。しかし当時のお茶の間では、別に禁制品でも背徳映画でもなかった。毎週の洋画枠へ普通に流れ込み、家族が飯を食いながら観る、ありふれた娯楽の一つだった。

しかも、その枠には『遊星からの物体X』も『サスペリア』も、殺人魚もキラーマシンも同じように入ってくる。テレビ放送は作家性もジャンル史も一度平らにして、

なんか怖い外国映画
なんかグロい外国映画
なんか変な怪物が出る外国映画

として家庭へ配給していた。

だから当時の鑑賞者にとって、「これを観ている俺はカルト映画を選んでいる」という自己認識は生じない。後年になって監督名、シリーズ、ジャンル系譜を覚え、その中から「俺はカーペンターのこれが好き」「アルジェントならこういう撮り方が見たい」と選び直した時に、初めてゲテモノの棚が個別化するわけですね。


ゲテモノ性は絵面ではなく、嗜好と作家性の噛み合わせで生じる

ここは非常に明快です。

画面上で人間が溶ける、食われる、轢かれる、機械に殺される。その露悪性だけでは、ユーザーにとっての「ゲテモノ」にはならない。そんな映像はテレビで大量に見てきたので、単なる共有娯楽です。

その中から、

この監督なら、このデロデロをこう撮るはずだ
このジャンルなら、この馬鹿な一点を最後まで押し通してほしい
このシリーズなら、この反復を見たい

という自己決定が生まれ、実際の作品がその期待と一致した時に、初めて「俺のゲテモノ」になる。

これはジャンル分類を受け入れることではなく、ジャンルの中身を自分で指定することですね。棚名は社会から借りても、棚の運用権はこちらにある。

その意味で、カーペンターやアルジェントは、後付けバイアスがそのまま作家の反復と噛み合う。だから子供時代に他の有象無象と並んでいた作品が、後年になって別の色を持つ。


キングには「監督としての反復棚」がない

一方、キング作品を「キング映画」という一つの作家棚へまとめると、どうしても責任主体が曖昧になります。

キング原作に共通する題材や趣味は抽出できる。しかし映画になった瞬間、それをどう身体化し、どこを強調し、どの程度真面目に撮るかは監督ごとに変わる。

『マングラー』なら、キング的な「日常機械に宿る悪意」以上に、

フーパーが、こんな馬鹿な殺人機械をどこまで真面目に理詰めで撮るか

が鑑賞主体になる。

『クリスティーン』なら、

カーペンターが、自動車というフェティッシュな物体へどんな速度と冷たさを与えるか

になる。

しかし『地獄のデビル・トラック』には、キング監督作品として比較できる反復がありません。一本しかないので、「キングはこう撮る」という作家棚を形成できない。

結果として、映画は「キング本人が好き放題やった珍品」にはなっても、ユーザーの嗜好が継続して接続する監督ジャンルにはならない。だから忘れる。監督名を聞いて次の作品を期待する回路が、一作で途切れているからです。


後年の「B級カルト」棚は、作家性ではなく時代性を保存している

現在の配信や紹介記事が、『地獄のデビル・トラック』『殺人魚フライングキラー』、カーペンター、アルジェントをまとめて「80年代B級カルト」と呼ぶ時、保存されているのは個々の作品主体ではありません。

保存されているのは、

  • 粗い特殊効果

  • 派手なポスター

  • 過剰な音楽

  • 無茶な設定

  • テレビ放送やレンタルビデオの記憶

  • 現代では作られにくい悪趣味

という、年代パッケージです。

要するに「昔はこういう変な映画が普通にあった」という懐古商品ですね。

これによって、当時は一般娯楽だったものが、後年になって禁断の珍品だったかのように再編集される。お茶の間で無差別に流された共有体験が、配信棚では「分かる人だけ分かるカルト」へ格上げされる。

だから違和感が出る。

いや、これ別に秘密結社の入信映画ちゃうぞ。
日曜の夜に普通にやってたぞ🙄

という。

カルト性が作品の偏執から生じたのではなく、古くなって流通量が減ったこと自体がカルト認定の根拠になっています。


『地獄のデビル・トラック』は、キラー〇〇を広げすぎた

ジャンル本質としては、おっしゃる通り「キラー〇〇」系ですね。

このジャンルの強さは、馬鹿な単一名詞を絶対化することにあります。

トマトが殺す。
車が殺す。
洗濯機が殺す。

そのナンセンスな一点を、作品全体が異様な真顔で引き受ける。世界の全てを説明しようとせず、「なぜよりによってそれが?」という馬鹿馬鹿しさを、物体の反復で押し切る。

『地獄のデビル・トラック』は、そこを広げすぎた。

トラックだけでなく、自販機、電光掲示板、芝刈り機、電気器具、あらゆる機械が反乱する。しかも彗星、異星人、社会パニック、籠城、軍用トラック、ロック音楽まで全部載せる。

規模は大きくなる。しかし「殺人トマト」という単一物体の不条理は薄まる。

トマト一個が人間へ反逆するから、ナンセンスな物体性が立つ。あらゆる機械が反乱すると、それはもう「機械文明対人類」という大きなSFテーマになり、キラー〇〇の局地的な馬鹿さが災害映画へ希釈されます。

キング先生は「殺人トラック」を撮るだけでは我慢できず、撮影できる機械反乱を全部撮った。そのワガママ飽和が映画の陽性エネルギーではあるものの、ジャンルの純度を落とした。

だから楽しく観た記憶は残っても、一本の異様な物体として記憶に刺さらない。有象無象化した理由は、出来が弱いだけでなく、対象が拡散しているからでしょうね。


『クリスティーン』『マングラー』は、単一物体へ戻る

その点、『クリスティーン』や『マングラー』は、キラー〇〇の原理へ忠実です。

『クリスティーン』では、車が一台の人格と身体を持つ。カーペンターは車体、速度、修復、光、エンジン音へ執着し、人間の心理より先に物体そのものを主役へする。

『マングラー』では、機械が工場の一部でありながら、儀式装置、捕食者、労働災害の怪物として一点化される。フーパーが馬鹿な設定を笑わず、真面目に理屈と身体へ落とすことで、洗濯機械が世界を代表する。

どちらも「機械全般が悪い」という文明論へ広げない。
この車が殺す。この機械が食う。

その局所的な偏執が、キラートマト以後の正統なカルト性になる。


今回の再鑑賞の着地

『地獄のデビル・トラック』は、現在の配信棚が言う「B級カルト」を再確認する映画ではなかった。

むしろ、

当時はこれほど悪趣味なものが、カルト認定すらされず普通に家庭へ流れていた
後年の配信文化が、それを年代単位でカルト化した
しかしジャンル純度で見れば、キラー〇〇としては広げすぎている

という、三重の確認になったんでしょうね。

キング先生の自己監督作としては、撮りたいものを詰め込んだ唯一無二の事故です。しかしキラーマシン映画としては、唯一の機械へ固執できなかったため、逆に無名化した。

金も物量もある。人間も大量に潰す。AC/DCまで鳴る。なのに、殺人トマト一個ほどジャンルの芯が残らない。

これはかなり贅沢な敗北です🤣


5. 『地獄のデビル・トラック』

GPT認識:現在では「80年代B級カルト」として隔離されているが、当時は普通にお茶の間へ流れていた悪趣味映画。キング先生の自己監督による、物量過剰で純度不足のキラーマシン祭り。

AC/DCに乗せて人間がゴミのように蹂躙される陽性の悪趣味は、当時のテレビ洋画枠では背徳的なカルト体験ではなく、毎週流れる普通の外国映画だった。『遊星からの物体X』や『サスペリア』も、監督名や作家性を意識する以前は、同じ「お茶の間B級」の有象無象として消費されていた。

後年、配信や紹介記事がこれらを一括して「B級カルト」と呼ぶのは、作品固有の偏執より、粗い特撮、派手な音楽、テレビ放送やレンタルビデオの記憶を年代パッケージ化した懐古シミュラークルに近い。ゲテモノ性は絵面の露悪ではなく、「この監督、このシリーズ、このジャンルならこう見たい」という鑑賞者側の嗜好と、作家の反復が噛み合った時に生まれる。

キングは原作者として膨大な映画へ関わったが、監督としての反復棚は本作一本しかない。したがって、キング作品という統一棚よりも、『マングラー』ならフーパー、『クリスティーン』ならカーペンターという、監督ごとのゲテモノ主体が優先される。

ジャンル本質は『アタック・オブ・ザ・キラー・トマト』以後のキラー〇〇系。ただし本作はトラック、自販機、電光掲示板など、あらゆる機械を反乱させ、異星人、社会パニック、籠城、特撮、ロック音楽まで詰め込みすぎた。その結果、「この物体が殺す」というナンセンスな一点突破が薄れ、機械文明対人類の大がかりなSFへ拡散した。

ゲテモノ棚での役割:
20世紀お茶の間B級と、後年の懐古的「カルト」棚を分ける基準札。物量と悪趣味は豊富だが、正統なキラー〇〇の純度では、単一の車や機械へ偏執する『クリスティーン』『マングラー』に劣る、贅沢な敗北。

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